第二十八話 歩き出す朝
――水車が、軋みながら回っている。
音が、風に乗って遠くまで響いた。
金色の麦畑が、波のように揺れている。
(ああ、また……この夢だ)
肌に感じる風も、耳に届く音も、すべてが現実のようだった。なのに、どこかで、これは夢だと分かっていた。
頭の中だけが、妙に重い。それでも、感覚だけは研ぎ澄まされている。
目の前には、井戸の水に冷やされたカブやニンジン。しずくがぽたりと落ち、光を弾いた。
「エリシア、こっちも手伝って」
背後から聞こえたのは、母の柔らかい声だった。
振り返ると、そこに母がいた。
記憶の中のまま、美しく、傷ひとつない笑顔。
こんなにも、五感が刺激される夢なんて、存在しない。
これは、夢と呼べるものじゃない。
記憶に引きずられて、過去の中に立たされている。
「エリシア。そんなに、私たちの力が怖いの?」
「……怖いよ」
夢の中の自分は、いつものように震える声で、そう答えた。唇をかむ、そのかすかな痛みまで繊細に感じられる。
「どうして、こんな力を持ってるの? いらないのに……」
母はふっと笑い、空を仰いだ。
「そうね。……でも、もし本当に辛くなったら、東へ行ってみて」
「東……?」
「東の果て。私たちの力が生まれた場所。……そして、もし望むなら、手放すこともできるって」
「そこに行けば、私は……この力から自由になれるの?」
言葉の最後が風にかき消される。
母の姿が、陽光の中に溶けていく。
「東の果ては、力を捨てられる場所。……でも、選ぶのは――あなた自身よ」
金色の麦が、ざっと風に揺れる。空は暗く、泣き出しそうな色だった。
「待って、母さん!」
エリシアは手を伸ばした。けれど、母の姿は霧のように儚く消えた。
* * *
――はっと目を開けた。
体が少し震えていた。冷たい汗が首筋を伝い、額に髪が張りついている。
(また、あの夢……。いえ、あれは……)
窓の外はまだ薄暗く、誰の気配もしない。
胸に残るざわつきが収まらず、エリシアはゆっくり身を起こした。
――昨夜は、マルヤの家で眠りについた。
エルランは、いつもよりも言葉少なく、どこかぎこちない様子だった。それでも、足元をランプで照らし、エリシアが転ばないように静かに並んで歩いてくれた。家に着くと、マルヤが、まるでエリシアがこの家にずっと住んでいるかのように自然に迎えてくれた。
やがて、ガルザが戻り、マルヤが茶を淹れた。ガルザは置物のように黙ってそれを飲んでいた。その空気の重さに、エリシアは逃げるように寝台に潜り込んだ。
そのまま疲労と安堵感に引きずられ、泥のように深く眠った。こういうときは、たいてい夢はみない。だから油断していた。
この夢を見たあとは、いつも心がざわつく。
まるで、自分の奥底にいる何かが、「そこへ行け」と叫んでいるようだった。
ごそごそと布団を抜け出し、外の空気を吸いたくて戸をそっと開けた。
朝の冷気が頬をなでる。辺りはまだ霧が立ちこめ、遠くは白く霞んでいた。
ふと、井戸のそばに人影が見えた。
ガルザが、無言で顔を洗っていた。
気づかれぬように引き返そうか迷ったが、結局、小さく声をかけた。
「……おはようございます」
ガルザはタオルで顔を拭きながら、ゆっくり振り返った。
「……早いな。眠れなかったか?」
静かな声が、朝霧に溶けた。
エリシアは頷いた。
「……はい。少し、夢を見ていて」
それ以上は言わなかった。けれど、ガルザはそれ以上を求めず、「そうか」とだけ返した。
白い息がふわりと漂う。井戸の水を汲んだガルザは、ひとくち口をすすぐと、ふいに言った。
「……フェルドのところへ行ってくる」
「え?」
「治療の記録と、村の様子の報告にな。たまに顔を出しておかないと、あの頑固爺はすぐひねくれる」
「こんな時間に? フェルドさんに……?」
「あの爺さん早起きだからな。俺もこの時間じゃないとなかなか空いてなくてな」
エリシアは一歩近づいて、思わず口を開いた。
「じゃあ、私も……ついて行っていいですか?」
ガルザが振り返る。
「……どうしてだ?」
その問いに、エリシアは少しだけ迷って、けれど正直に答えた。
「昨日、少しだけ話しました。でも、もっと……お話してみたくて。あの人の言葉、忘れられなくて」
「……そうか」
しばしの沈黙。
やがて、ガルザは目を細めて小さくうなずいた。
「なら、外套を着てこい。朝はまだ冷える」
「はい」
ガルザの答えに、エリシアは顔を上げて、嬉しそうに笑った。
ふたりは、まだ薄暗い靄の中を並んで歩き出した。




