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【第一幕・完】灯火の誓い〜炎を宿す少年は、名を奪われた少女と雪の大陸を逃げる〜  作者: 水瀬 理音
第四章 風を抱く郷(後編)―旅立ちの理由

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第二十七話 朝霧

 誰かが、肩を揺すっている。

(……誰だ。もう少し寝ていたい)

 全身がだるかった。ここ数日、緊張のせいで体に力が入りっぱなしで、呼吸も浅い。昨夜、湯に浸かった反動か、ゆるんだ分だけ疲れが押し寄せていた。


 湯の温もりに慣れていなかった。手足が火照り、体の置きどころがない。

 重くなった体を任せるように、まぶたを閉じた、その瞬間――

 肩が、ぐっと揺さぶられた。 


 はっとして目を開ける。そこにいたのは、黒髪で頬に傷のある男――ヴァシュだった。古びた銀灰色の肩鎧に、毛皮の外套。目元に影を落とした灰色の瞳が、言葉もなくリセルを見下ろしていた。

(あれ、ライハンは……?)


 部屋の隅を思わず見渡す。薄暗い隅で、ライハンが毛布にくるまり、寝息を立てていた。

 ヴァシュは無言で、「外に出ろ」と視線を走らせた。


 リセルは黙って起きあがり、彼のあとについて外へ出た。

 村はまだ眠っていた。朝焼けも届かない、白い霧がただよう時間。

 小屋の外、ヴァシュはひとことだけ言った。


「ついてこい。見せたい場所がある」

「……まだ夜明け前だぞ?」


 片目をこすり、間延びした声が出た。

 ヴァシュの様子がおかしい。

 いつもの荒々しさがない。

 静かすぎる。足音まで硬い。

 背中が、何かを決めた人間のように硬い。


「今日から手伝ってもらうって言っただろ。狩場の確認だ」

 だが、その手に弓はなかった。

 リセルは何も言わず、歩き出した。

 村の裏手、小道を抜け、凍てついた木立の中へ。

 ずいぶん歩いた気がする。村から遠ざかり、鬱蒼とした林の木々を見ていると、不安が腹の底に沈んだ。


(――何かが、おかしい)

 空気が、いつもより冷たい。体の奥で、小さな警鐘が鳴っている。

 ヴァシュの背中が、やけに硬く見えた。

 会話がない。ただ、黙って歩いている。


 こんなに離れていいのか? 村を出てはいけないって言っていなかったか。


 問いかける言葉が、喉でつかえた。

 雪はまだ残っていたが、春の気配に溶かされはじめ、足元に泥が混じる。

 誰の目も届かない、音すら吸い込まれるような場所。


 ヴァシュが立ち止まり、振り返った。

「十五年前にも、同じようなやつがいた。セラド……お前より頼りなくて、虫も殺せない顔で、ここに来た」

 ヴァシュは一度、言葉を切った。霧の奥に視線を投げる。


「世話を焼いていたのは、俺の姉貴だった。ライラは……優しい人でな」

 風が、沈黙を運ぶ。

「……あの夜、炎が上がった。止めようとした。けど――ライラも、一緒に呑まれた」


 声が、わずかに掠れた。


「……それでも郷のやつらは、また性懲りもなく、お前みたいな奴を受け入れようとしてる。あいつのことなんて、まるで忘れたみたいにな。ライラのことなんて、誰ももう口にもしない。……その“優しさ”が、俺には、許せねえ」


 朝霧が、二人の間に沈黙を落とした。

 黙っていたヴァシュの手が、わずかに震えた気がした。

 だが、そのまま――銀の剣が抜かれた。

 冷たい金属のすれる音が、朝霧の中に響く。


「あのとき、俺が止めてれば……って、ずっと思ってた。だから今度こそ、止めなきゃいけねえって――そう思った」


 切っ先が、リセルに向けられる。


「お前をここまで歩かせた理由、わかるか。逃げたことにして、始末するためだ」

 リセルは咄嗟に身構えたが、何の武器も持っていない。腰のあたりが、やけに軽かった。

「恨みはない。だが――同じ夜を、二度は許さない」


 言い終わると同時に、ヴァシュが踏み込んだ。

 右肩に熱が走る。剣が浅く肉を裂き、そのまま腕までかすめた。

 顔をしかめ、後ろに飛ぶ。焼ける痛みが、駆け抜ける。


「出せよ炎。……できるんだろ? 本当は」

 ヴァシュが低く唸った。

 雪の上に血が染みる。反撃する間もなく、脇腹を切り付けられた。

 ぼたり、と血が落ちる。

 痛みに片手で脇腹を押さえ、体を折った。


 防ぐものは何もない。


 足元の石をつかみ、力任せに投げた。意味はないとわかっていた。

 ヴァシュはそれをかわし、距離を詰める。

 一歩、後ずさる。


「隠してるだけなんだろ? セラドも……そうやって郷に入り込んで、最後には――姉貴を、燃やした」

 声は低く、乾いている。

「お前も、あいつと変わらない」

 血を流しながらも、その場に踏みとどまる。

 肩から落ちた血が、雪を赤く染めた。


「……そんなに、俺が怖いかよ」

 かすれた声だった。自分のものと思えないほど、遠い。

「ああ。お前らは……化け物だ」


 ヴァシュは剣を構えかけ、次の瞬間、殴りつけて地面に押し倒した。

 そのまま首に手がかかる。震える指が、喉を締め上げる。

 

 視界が霞む――そのときだった。


 黒い炎が、滲み出す。

 手のひらが燃えていた。だが熱ではない。感情だった。

 怒り。絶望。恐怖。

 呑み込み、形を変えたものだった。

 拳が灼ける。


 指先から黒い煤が舞い上がる――霞む視界の先に、焼け落ちた草原が見えた。激しい風。炎が爆ぜる音。焦げた匂い。灰が舞う朱い空。


(これは……何だ?)


 自分の記憶ではない。

 見たこともない光景。


 なのに、胸の奥が知っている。

 この力が通った跡。

 巨大な影が映った。


 ――竜。


 赤銅色の鱗。長い影。

 琥珀色の双眼が、はるか上空から大地を見下ろしている。

 熱が流れ込む。


 腕が、勝手に脈打つ。

 身を任せれば、使える。

 出せる。

 ヴァシュを吹き飛ばせる。

 助かる。

 けれど――

 受け入れた先にあるのは、自分ではない何か。

 戻れない。


(だめだ……吞まれたら、俺は俺じゃいられない。化け物には、なりたくない)


 音が消えた。

 世界が凍る。


 浮かんだのは、ただ一人。

 ――エリシア。

 焚き火のそばで、笑っている。


 黒い炎が、その姿をかき消そうとする。


 フィンの顔が浮かぶ。

 言葉はない。ただ、まっすぐな目。


(俺は……焼きたかったわけじゃない)

 ただ、生きていてほしかった。

 俺ではなく、フィンに。


 拳をほどく。

 熱が、すっと消える。

 あの夜の、重みが戻る。


 ――生き延びろ。


 目を開ける。

 力を抜いた拳を、静かに下ろす。


 この力に呑まれない。


 ヴァシュの腕から、そっと手を外す。

 どうなっても、かまわなかった。

 ただ、あいつが守ってくれた、そのままでいたかった。


「……お前」

 ヴァシュの瞳が、見開かれる。

 手が、わずかに止まる。

 歯を食いしばる。

 力が込められる。


 リセルは目を閉じた。

 このまま、殺される――そう思った、その瞬間だった。


「やめろ、ヴァシュ!」

 雷のような怒声が響いた。

 次の瞬間、リセルの身体から重みが外れ、風が駆け抜ける。


 目を開ける。

 そこに――ライハンがいた。

 剣を構えている。

「何してやがる、お前……!」

 剣がうなり、刃の震えが霧を裂く。


 ヴァシュは即座に受ける。迷いはない。目が、淀んだ川面のように鈍く光った。

「どけ、ライハン! あいつは、また郷を焼く」

「……それで、先に殺すのが、お前の正しさかよ!」

 泥が跳ねる。息が白く浮かぶ。


「お前にできるのは、遠くから矢を撃つことだけだろ。汚れる覚悟もないやつは、黙って見てろ!」

「よく見ろ、ヴァシュ! お前がやってるのは、無抵抗のガキを殺すことだ!」


 剣をぶつけ合う二人。

 刃がぶつかる。速い。

 次の瞬間、ヴァシュの剣が弾かれた。一拍の静寂。


 そのまま、殴り合いになる。

「は! 俺と殴り合う気かよ。矢の陰に隠れてたお前が?」

 力では、ヴァシュのほうが上だった。


 だが、ライハンは引かない。

「お前は……間違ってる!」

 息が荒い。血が混じる。

「こいつは、抵抗もしなかった。なのに、殺すのか?」


 拳が頬を打つ。

 体が揺れ、膝が泥に沈む。

 それでも立つ。

 血をぬぐいもせず、まっすぐ前を見る。


「俺ら守り手は、守るためにいるんだろ。殺すためじゃねぇ!」

 一歩。泥を踏む。

「それは、あんたから教わった! ――なのに!!」

 拳が返る。

 乾いた音が響き、ヴァシュの顎が跳ねた。


「殺される前に殺す、か? ……違うだろ」

 息が荒い。頬からは血が滴る。握りしめた拳に泥がにじんでいた。

「郷はな……戦場じゃねぇ。生きる場所だ」


 白い霧の中で、二人は向き合ったまま動かない。

 息だけが、揺れる。

 視線がぶつかる。逸れない。


 やがて、ほんのわずかに、ヴァシュの目が揺れた。

 視線が落ちる。

 その目に、何が映ったのか――リセルにはわからない。


 吐く息が、濁って漂う。

 その場に、静寂が沈む。

 やがて――


 ヴァシュはわずかに肩を揺らし、剣の柄に手を伸ばした。

 ゆっくりと拾い上げる。指先が、わずかに震えていた。


「お前は甘すぎる。いつだって、情に流されて――それで満足してるつもりか。その優しさが、また誰かを殺す。……それでも守ったつもりでいられるなら、好きにしろ。いずれわかる。俺が間違ってなかったってな。……でも、そのときじゃ、もう遅い」


 一度だけライハンを見る。

 それ以上何も言わず、踵を返す。

 白い霧の中――

 足音だけが、冷たい地を踏みしめていった。


 リセルを睨むように、ライハンが振り返る。

 目に残っているのは、怒りか、動揺か。

「なんで……なんでさっき抵抗しなかったんだよ? バカかお前、死にたいのか! 諦めたみてぇに手を離しやがって……!」


 リセルは何も答えない。

 泥だらけの手が、そっと肩に触れる。

「……大丈夫かよ」

 すぐに、その手は引っ込められた。

 大きく息を吐く。


「お前がどんな目にあってきたかなんて、知らねぇ。けどな、命を投げ出すのは違う。だいたい……お前がいなくなったら、あの子はどうなる?」

 ライハンは顔を背けて、乱暴に頭をかいた。

 一瞬、リセルの顔を見て、すぐに視線を逸らす。

「――ああ、くそ。その顔やめろ! 葬式じゃねぇんだ」


 リセルが、ふいに目を瞬いた。

 驚いたようにライハンを見上げる。


 その顔が、少しだけ歪んで見えた。

 怒っているのか、泣きそうなのか、ただ必死なだけなのか――わからない。

 でも、まっすぐで、熱を帯びていた。


「……投げ出したわけじゃ……」

 声が、途中で途切れる。

 ちがう。

 そうじゃない。


 けれど、言葉が見つからない。

 その先が出てこない。

 喉がひりつく。

 息だけが、かすれる。


 そんなリセルを見て、ライハンは肩を落とし、小さくため息をついた。

「……バカかよ。何がお前を生かしてくれて、ここにいる。お前を生かしてくれた誰かが、いたんだろ? 勝手に終わらせんな。……せっかく、流れ着いた場所なんだ」


 風がその声をさらっていった。

 朝霧が静かに降りている。

 白さの中、二人の息だけが、かすかに揺れていた。


 ヴァシュの気配が遠のくと、リセルの体が、ゆっくりと傾いた。  

 力が、抜けていく。

「じっとしてろ。止血する」


 ライハンは腰の布袋から布と包帯を取り出し、手早く傷口に巻きつけた。

 右肩、脇腹、右腕――裂かれた箇所は三つ。

 肩は昨晩巻き直した包帯ごと切られている。

 脇腹は深い。血が、まだ滲んでいる。


 圧迫されるたび、リセルの顔が歪む。

「痛むだろうが我慢しろ。ったく……あちこち切りつけやがって」

 だが、脇腹を押さえた瞬間、ライハンの手が止まった。

 深い。

 内側まで届いていたら――時間はない。


 応急処置を終えると、リセルの腕を肩に回す。

 雪を踏むたび、足がふらつく。

 そのたび、腕に力がこもる。


「……脇腹、深いな。治癒小屋じゃ足りねぇ。フェルドのとこに急ぐぞ」

 その名に、リセルは顔を上げた。

「……郷の離れにいる、あの癒し手か。滅多に動かないって」

 ライハンが眉を上げる。


「よく知ってんな」

「前に……エリシアが倒れたとき、聞いた」

「まあ、そうだな。歳だし、簡単には動かねぇ。……でも今回は、あの人の出番だ」

 歩みを速める。


「今この姿で郷に戻ったらどうなる。せっかく受け入れかけてたのに、また騒ぎだ。“何かあった”ってな」

「……でも」

「俺は見てた」

 声が低くなる。


「ボロボロにされても、お前、火を出さなかった。出そうともしなかった。……あそこまで追い込まれてもだ。俺は、それを無かったことにさせたくねぇ」

 リセルは黙る。


「失血と外傷をなめるな。今歩けても、急に落ちる。今が緊急だ」

「……ガルザに、聞かなくていいのか」

「いい。判断は俺がする。俺が叱られる」


 肩を支える腕に、ぐっと力がこもる。

「フェルドのとこ行くぞ。――お前を、そのまま見てくれるやつのとこへ」


 いつのまにか、遠くの靄がほどけていた。

 朝の光が、霧を裂いた。



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