第二十七話 朝霧
誰かが、肩を揺すっている。
(……誰だ。もう少し寝ていたい)
全身がだるかった。ここ数日、緊張のせいで体に力が入りっぱなしで、呼吸も浅い。昨夜、湯に浸かった反動か、ゆるんだ分だけ疲れが押し寄せていた。
湯の温もりに慣れていなかった。手足が火照り、体の置きどころがない。
重くなった体を任せるように、まぶたを閉じた、その瞬間――
肩が、ぐっと揺さぶられた。
はっとして目を開ける。そこにいたのは、黒髪で頬に傷のある男――ヴァシュだった。古びた銀灰色の肩鎧に、毛皮の外套。目元に影を落とした灰色の瞳が、言葉もなくリセルを見下ろしていた。
(あれ、ライハンは……?)
部屋の隅を思わず見渡す。薄暗い隅で、ライハンが毛布にくるまり、寝息を立てていた。
ヴァシュは無言で、「外に出ろ」と視線を走らせた。
リセルは黙って起きあがり、彼のあとについて外へ出た。
村はまだ眠っていた。朝焼けも届かない、白い霧がただよう時間。
小屋の外、ヴァシュはひとことだけ言った。
「ついてこい。見せたい場所がある」
「……まだ夜明け前だぞ?」
片目をこすり、間延びした声が出た。
ヴァシュの様子がおかしい。
いつもの荒々しさがない。
静かすぎる。足音まで硬い。
背中が、何かを決めた人間のように硬い。
「今日から手伝ってもらうって言っただろ。狩場の確認だ」
だが、その手に弓はなかった。
リセルは何も言わず、歩き出した。
村の裏手、小道を抜け、凍てついた木立の中へ。
ずいぶん歩いた気がする。村から遠ざかり、鬱蒼とした林の木々を見ていると、不安が腹の底に沈んだ。
(――何かが、おかしい)
空気が、いつもより冷たい。体の奥で、小さな警鐘が鳴っている。
ヴァシュの背中が、やけに硬く見えた。
会話がない。ただ、黙って歩いている。
こんなに離れていいのか? 村を出てはいけないって言っていなかったか。
問いかける言葉が、喉でつかえた。
雪はまだ残っていたが、春の気配に溶かされはじめ、足元に泥が混じる。
誰の目も届かない、音すら吸い込まれるような場所。
ヴァシュが立ち止まり、振り返った。
「十五年前にも、同じようなやつがいた。セラド……お前より頼りなくて、虫も殺せない顔で、ここに来た」
ヴァシュは一度、言葉を切った。霧の奥に視線を投げる。
「世話を焼いていたのは、俺の姉貴だった。ライラは……優しい人でな」
風が、沈黙を運ぶ。
「……あの夜、炎が上がった。止めようとした。けど――ライラも、一緒に呑まれた」
声が、わずかに掠れた。
「……それでも郷のやつらは、また性懲りもなく、お前みたいな奴を受け入れようとしてる。あいつのことなんて、まるで忘れたみたいにな。ライラのことなんて、誰ももう口にもしない。……その“優しさ”が、俺には、許せねえ」
朝霧が、二人の間に沈黙を落とした。
黙っていたヴァシュの手が、わずかに震えた気がした。
だが、そのまま――銀の剣が抜かれた。
冷たい金属のすれる音が、朝霧の中に響く。
「あのとき、俺が止めてれば……って、ずっと思ってた。だから今度こそ、止めなきゃいけねえって――そう思った」
切っ先が、リセルに向けられる。
「お前をここまで歩かせた理由、わかるか。逃げたことにして、始末するためだ」
リセルは咄嗟に身構えたが、何の武器も持っていない。腰のあたりが、やけに軽かった。
「恨みはない。だが――同じ夜を、二度は許さない」
言い終わると同時に、ヴァシュが踏み込んだ。
右肩に熱が走る。剣が浅く肉を裂き、そのまま腕までかすめた。
顔をしかめ、後ろに飛ぶ。焼ける痛みが、駆け抜ける。
「出せよ炎。……できるんだろ? 本当は」
ヴァシュが低く唸った。
雪の上に血が染みる。反撃する間もなく、脇腹を切り付けられた。
ぼたり、と血が落ちる。
痛みに片手で脇腹を押さえ、体を折った。
防ぐものは何もない。
足元の石をつかみ、力任せに投げた。意味はないとわかっていた。
ヴァシュはそれをかわし、距離を詰める。
一歩、後ずさる。
「隠してるだけなんだろ? セラドも……そうやって郷に入り込んで、最後には――姉貴を、燃やした」
声は低く、乾いている。
「お前も、あいつと変わらない」
血を流しながらも、その場に踏みとどまる。
肩から落ちた血が、雪を赤く染めた。
「……そんなに、俺が怖いかよ」
かすれた声だった。自分のものと思えないほど、遠い。
「ああ。お前らは……化け物だ」
ヴァシュは剣を構えかけ、次の瞬間、殴りつけて地面に押し倒した。
そのまま首に手がかかる。震える指が、喉を締め上げる。
視界が霞む――そのときだった。
黒い炎が、滲み出す。
手のひらが燃えていた。だが熱ではない。感情だった。
怒り。絶望。恐怖。
呑み込み、形を変えたものだった。
拳が灼ける。
指先から黒い煤が舞い上がる――霞む視界の先に、焼け落ちた草原が見えた。激しい風。炎が爆ぜる音。焦げた匂い。灰が舞う朱い空。
(これは……何だ?)
自分の記憶ではない。
見たこともない光景。
なのに、胸の奥が知っている。
この力が通った跡。
巨大な影が映った。
――竜。
赤銅色の鱗。長い影。
琥珀色の双眼が、はるか上空から大地を見下ろしている。
熱が流れ込む。
腕が、勝手に脈打つ。
身を任せれば、使える。
出せる。
ヴァシュを吹き飛ばせる。
助かる。
けれど――
受け入れた先にあるのは、自分ではない何か。
戻れない。
(だめだ……吞まれたら、俺は俺じゃいられない。化け物には、なりたくない)
音が消えた。
世界が凍る。
浮かんだのは、ただ一人。
――エリシア。
焚き火のそばで、笑っている。
黒い炎が、その姿をかき消そうとする。
フィンの顔が浮かぶ。
言葉はない。ただ、まっすぐな目。
(俺は……焼きたかったわけじゃない)
ただ、生きていてほしかった。
俺ではなく、フィンに。
拳をほどく。
熱が、すっと消える。
あの夜の、重みが戻る。
――生き延びろ。
目を開ける。
力を抜いた拳を、静かに下ろす。
この力に呑まれない。
ヴァシュの腕から、そっと手を外す。
どうなっても、かまわなかった。
ただ、あいつが守ってくれた、そのままでいたかった。
「……お前」
ヴァシュの瞳が、見開かれる。
手が、わずかに止まる。
歯を食いしばる。
力が込められる。
リセルは目を閉じた。
このまま、殺される――そう思った、その瞬間だった。
「やめろ、ヴァシュ!」
雷のような怒声が響いた。
次の瞬間、リセルの身体から重みが外れ、風が駆け抜ける。
目を開ける。
そこに――ライハンがいた。
剣を構えている。
「何してやがる、お前……!」
剣がうなり、刃の震えが霧を裂く。
ヴァシュは即座に受ける。迷いはない。目が、淀んだ川面のように鈍く光った。
「どけ、ライハン! あいつは、また郷を焼く」
「……それで、先に殺すのが、お前の正しさかよ!」
泥が跳ねる。息が白く浮かぶ。
「お前にできるのは、遠くから矢を撃つことだけだろ。汚れる覚悟もないやつは、黙って見てろ!」
「よく見ろ、ヴァシュ! お前がやってるのは、無抵抗のガキを殺すことだ!」
剣をぶつけ合う二人。
刃がぶつかる。速い。
次の瞬間、ヴァシュの剣が弾かれた。一拍の静寂。
そのまま、殴り合いになる。
「は! 俺と殴り合う気かよ。矢の陰に隠れてたお前が?」
力では、ヴァシュのほうが上だった。
だが、ライハンは引かない。
「お前は……間違ってる!」
息が荒い。血が混じる。
「こいつは、抵抗もしなかった。なのに、殺すのか?」
拳が頬を打つ。
体が揺れ、膝が泥に沈む。
それでも立つ。
血をぬぐいもせず、まっすぐ前を見る。
「俺ら守り手は、守るためにいるんだろ。殺すためじゃねぇ!」
一歩。泥を踏む。
「それは、あんたから教わった! ――なのに!!」
拳が返る。
乾いた音が響き、ヴァシュの顎が跳ねた。
「殺される前に殺す、か? ……違うだろ」
息が荒い。頬からは血が滴る。握りしめた拳に泥がにじんでいた。
「郷はな……戦場じゃねぇ。生きる場所だ」
白い霧の中で、二人は向き合ったまま動かない。
息だけが、揺れる。
視線がぶつかる。逸れない。
やがて、ほんのわずかに、ヴァシュの目が揺れた。
視線が落ちる。
その目に、何が映ったのか――リセルにはわからない。
吐く息が、濁って漂う。
その場に、静寂が沈む。
やがて――
ヴァシュはわずかに肩を揺らし、剣の柄に手を伸ばした。
ゆっくりと拾い上げる。指先が、わずかに震えていた。
「お前は甘すぎる。いつだって、情に流されて――それで満足してるつもりか。その優しさが、また誰かを殺す。……それでも守ったつもりでいられるなら、好きにしろ。いずれわかる。俺が間違ってなかったってな。……でも、そのときじゃ、もう遅い」
一度だけライハンを見る。
それ以上何も言わず、踵を返す。
白い霧の中――
足音だけが、冷たい地を踏みしめていった。
リセルを睨むように、ライハンが振り返る。
目に残っているのは、怒りか、動揺か。
「なんで……なんでさっき抵抗しなかったんだよ? バカかお前、死にたいのか! 諦めたみてぇに手を離しやがって……!」
リセルは何も答えない。
泥だらけの手が、そっと肩に触れる。
「……大丈夫かよ」
すぐに、その手は引っ込められた。
大きく息を吐く。
「お前がどんな目にあってきたかなんて、知らねぇ。けどな、命を投げ出すのは違う。だいたい……お前がいなくなったら、あの子はどうなる?」
ライハンは顔を背けて、乱暴に頭をかいた。
一瞬、リセルの顔を見て、すぐに視線を逸らす。
「――ああ、くそ。その顔やめろ! 葬式じゃねぇんだ」
リセルが、ふいに目を瞬いた。
驚いたようにライハンを見上げる。
その顔が、少しだけ歪んで見えた。
怒っているのか、泣きそうなのか、ただ必死なだけなのか――わからない。
でも、まっすぐで、熱を帯びていた。
「……投げ出したわけじゃ……」
声が、途中で途切れる。
ちがう。
そうじゃない。
けれど、言葉が見つからない。
その先が出てこない。
喉がひりつく。
息だけが、かすれる。
そんなリセルを見て、ライハンは肩を落とし、小さくため息をついた。
「……バカかよ。何がお前を生かしてくれて、ここにいる。お前を生かしてくれた誰かが、いたんだろ? 勝手に終わらせんな。……せっかく、流れ着いた場所なんだ」
風がその声をさらっていった。
朝霧が静かに降りている。
白さの中、二人の息だけが、かすかに揺れていた。
ヴァシュの気配が遠のくと、リセルの体が、ゆっくりと傾いた。
力が、抜けていく。
「じっとしてろ。止血する」
ライハンは腰の布袋から布と包帯を取り出し、手早く傷口に巻きつけた。
右肩、脇腹、右腕――裂かれた箇所は三つ。
肩は昨晩巻き直した包帯ごと切られている。
脇腹は深い。血が、まだ滲んでいる。
圧迫されるたび、リセルの顔が歪む。
「痛むだろうが我慢しろ。ったく……あちこち切りつけやがって」
だが、脇腹を押さえた瞬間、ライハンの手が止まった。
深い。
内側まで届いていたら――時間はない。
応急処置を終えると、リセルの腕を肩に回す。
雪を踏むたび、足がふらつく。
そのたび、腕に力がこもる。
「……脇腹、深いな。治癒小屋じゃ足りねぇ。フェルドのとこに急ぐぞ」
その名に、リセルは顔を上げた。
「……郷の離れにいる、あの癒し手か。滅多に動かないって」
ライハンが眉を上げる。
「よく知ってんな」
「前に……エリシアが倒れたとき、聞いた」
「まあ、そうだな。歳だし、簡単には動かねぇ。……でも今回は、あの人の出番だ」
歩みを速める。
「今この姿で郷に戻ったらどうなる。せっかく受け入れかけてたのに、また騒ぎだ。“何かあった”ってな」
「……でも」
「俺は見てた」
声が低くなる。
「ボロボロにされても、お前、火を出さなかった。出そうともしなかった。……あそこまで追い込まれてもだ。俺は、それを無かったことにさせたくねぇ」
リセルは黙る。
「失血と外傷をなめるな。今歩けても、急に落ちる。今が緊急だ」
「……ガルザに、聞かなくていいのか」
「いい。判断は俺がする。俺が叱られる」
肩を支える腕に、ぐっと力がこもる。
「フェルドのとこ行くぞ。――お前を、そのまま見てくれるやつのとこへ」
いつのまにか、遠くの靄がほどけていた。
朝の光が、霧を裂いた。




