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【第一幕・完】灯火の誓い〜炎を宿す少年は、名を奪われた少女と雪の大陸を逃げる〜  作者: 水瀬 理音
第四章 風を抱く郷(後編)―旅立ちの理由

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第二十六話 薬湯の夜

 焚火の熱が少し和らぎ、周りもだんだん静かになってきた。食事を終えた戦士たちは三々五々立ち上がり、見回りの交代や、それぞれの夜へ散っていった。

 

 ガルザの話のあとは、なんとなく空気が和んで、食事が進んだ。笑い声や話し声が、星空の下にぽつぽつと広がっていく。


 リセルは、あまり覚えていない。ただ、ライハンやザシェが差し出す食べ物や飲み物を無言で口に運び、胃に入れていった。味はわからなかった。


 エリシアは、飲み物の入った木杯を両手で包み込んで、背を丸めて座っていた。少し寒そうだ。春の夜は、まだ冷える。


(そろそろ……戻さないと)

 そう思ったとき、肩をぽんと叩かれた。

「……じゃ、そろそろ行くか」

 ライハンが、いつもの調子でいたずらっぽく笑っている。


「え?」

 リセルは顔を上げた。

「お前、寝るとこ決まってないだろ?」

「……野営でいい。慣れてるし」

「おい、さっきの話ちゃんと聞いてたか? 受け入れるって言ったって様子見だぞ。勝手に消えられたら困るんだよ。お前は俺と一緒。番小屋な、ついてこい」


「でも、エリシアは?」

 その言葉に、いつの間にかそばにいたカイネルが答える。

「エリシアは、ガルザのとこ」

「え、私が? ……ガルザさんの家に?」

 エリシアが目を丸くする。


「いつまでも作業小屋ってわけにもいかないでしょ」

「……それは、そうだけど」

 困ったように目を泳がせるエリシアに、カイネルが苦笑交じりで何か言いかけた。そのとき――


「えっと……迎えに来ました」

 村のほうから大柄なエルランがやってきて、少し照れたように頭をかいた。


「今日からうちで面倒見るって、母さんが……だから」

「え、エルランの家? じゃあ、ガルザさんの家って……」

「そう。ガルザ戦士長はマルヤと夫婦で、エルランはその息子だ」

 ライハンがさらっと口をはさむ。


「えええー!?」

 リセルとエリシアが思わず声を揃える。 

「そんな驚く? けっこう似てるって言われるんだけどな」

 エルランはちょっと困ったように笑った。言われてみれば、確かにガルザの体格にマルヤの目元だ。

(……本当かよ)


 リセルは思わず小さく息を吐いた。でも、マルヤの家なら安心かもしれない。

 エリシアが立ち上がり、ちらっとリセルを見た。

 リセルも、無言で小さくうなずいた。


「じゃあ、父さん、先に連れて行きます」

 焚火の向こうにいたガルザにエルランが声をかける。ガルザは一言も返さず、木杯をぐいっとあおった。


 エリシアは少し気まずそうにリセルの方を見たが、リセルもただため息をついただけだった。

「明日な」

「……うん。リセル、ちゃんと休んでね」


「休ませると思うか?」

 ライハンが茶化すように言った。

「こっからが、男同士の付き合いってやつだ。付き合ってもらうぜ」


 リセルの肩にずしっと体重をかけてくる。


「……やめろ」

 リセルは眉をひそめて肩を振り払った。

「じゃあ、行こうか?」

 エルランがどこかぎこちなく、足元に気をつけながら歩き出す。

 エリシアはリセルをもう一度振り返ったが、何も言わずにその背を追った。


 リセルは、その背中をしばらく見送っていた。


 * * *


 エリシアを見送った後、焚き火の残り香と少し冷えた夜気だけが辺りに残っていた。

 人影もまばらになり、リセルはガルザに軽く頭を下げる。ガルザは落ち着いた褐色の瞳でじっと見返してきたが、やがて静かに言った。


「明日から、いろいろと村のことも手伝ってもらうから、そのつもりでな」

「手伝い?」

「お前、狩りは得意か?」

「……多少は」

「じゃあ、うちの守り手たちは狩人でもある。明日から学べ」

「……わかったよ」

 リセルは小さく頷き、ライハンとカイネルと共に焚き火を後にした。


 ライハンに連れられて番小屋へ向かう途中、カイネルがすれ違いざまにぼそりとつぶやいた。

「そういえばさ。受け入れも決まったし、村の温泉でも入ってみる?」

「……え、温泉?」

 リセルが思わず聞き返すと、カイネルは振り返らず、向こうの小道を指差した。


 視線の先、星明かりと月明かりに照らされた場所に、ほのかな湯気が立ちのぼっていた。

 石を積んで組まれた湯舟が、もやのように淡く光っている。


「湯、引いてるんだ。ここ、地熱で温泉がある。薬草も入れてるから、その傷にもきっと効くよ」

 ライハンが口笛をひとつ吹いた。

「お前さ、入ったことないだろ? そういう顔してる」

「……いつもは川で洗ってるし。今朝も、水浴びした」


「ははっ、そういうことじゃねえよ」

 呆れたように、わざとらしく笑ってから、リセルの肩をぽんぽんと叩いた。

「湯ってのはな、体を洗うだけじゃなく、心も整えるんだ。……よし、俺が温泉の良さを教えてやる。行こうぜ」

「いや、なんか……お前と一緒は嫌だ」

「ああ? 何だと?」


 ライハンは両手を腰にやり、わざとらしく鼻を鳴らして言った。

「いいか、夜の湯はな、守り手の目こぼしだ。普段は使わせねえんだ。この辺は夜になると獣も出る。熊とか、でっかいやつな。

 ……つまりだ。俺と一緒だから行けるってこと。ありがたく思え」 

 そう言って、ライハンはリセルの背中を押す。


「やめろ、押すな」

「そう言うな。これも郷の流儀だ。ありがたく付き合えよ」

 押されるままに歩きながら、ちらとカイネルに視線を向けた。

「お前も来るのか?」

「もちろん。俺、風呂好きなんだ」

 そう言って、カイネルは当然だろというように笑った。


 ライハンが大げさに笑った。

「なんだ、リセル緊張してんのか?」

「緊張なんかしてない」

 言い返したものの、声がほんの少しだけ小さくなった。

 ライハンがにやりと笑い、カイネルも口元をゆるめた。


 小道を抜けると、温泉の湯舟が現れた。

 岩で囲われた湯舟の表面には湯気が立ちこめ、星空の光を受けて、ゆらゆらと幻想的に揺れていた。


「……こんなの見たことないかも」

「入ってみりゃ、もっとすごいぞ」

 ライハンが湯舟の縁に腰を下ろし、脱ぎ捨てた上着を引っかけながら言った。


「男同士の裸の付き合いってやつだ」

「いちいち言うな……」

 ぶつぶつと文句を言いながらも、リセルは言われるままに服を脱いだ。


 湯に足を入れた瞬間、ぴくりと肩が跳ねる。

「……なんだこれ、あったかい……」

「だろ? ちゃんと湯ってやつだ」 

 ライハンが湯に身を沈めながら、得意げに言った。


「……何年たっても、これだけは残っててほしいな」

 カイネルが、湯面に指先で輪を描くようにしながらつぶやいた。

 その声音には、冗談めかした調子がなく、どこか本音の響きがあった。


 リセルはライハンやカイネルの真似をして肩まで湯に沈め、目を閉じてみた。

 火照りと温もりが、ひとつひとつ、身体から何かをほどいていくようだった。


「どうだ? 効くだろ?」

「……わかんない。熱い」

 いつも冷たい水で体を流していたから、体中が温かさで包まれる感じに慣れなかった。

 リセルは思わず眉を寄せた。

 ぽつりとこぼした言葉に、隣から水しぶきが飛んできた。


「ぶっ……なにすんだ!」

「いやー、反応が可愛くてな。からかい甲斐がある」

 ライハンがいたずらっぽく笑う。

「……あんた、最初とずいぶん態度が違わないか?」

「だってお前、無口なくせに全部顔に出るから、面白いんだもん。ずっといじりたかったんだ」

「なんだそりゃ」

 不機嫌に答えると、ははは、と可笑しそうにライハンが笑った。


 岩肌に背を預けたカイネルは、半分まどろんでいるようだったが、その口元は笑っていた。

 温泉の湯気が、夜気の中でゆらゆらと立ちのぼっていた。


 星明かりに照らされた湯舟には、リセル、ライハン、そして少し離れてカイネルが肩まで浸かっている。

 しばらくの沈黙の後、ライハンがぽつりと言った。


「……あの矢、撃ったの、俺だ」

 リセルは湯面を見つめたまま返事をしなかった。

 湯気の向こう、ライハンの声は静かに続いた。


「ヴァシュの合図だった。最初は熊に狙いを定めてたが……お前が火を出したもんだから、即座に標的がお前になったんだ。でも近づいたら、まだガキだし、女の子庇ってるし……正直、あれは動揺した」


「……うん」


 リセルの声は静かだった。

「別に。普通火なんて出すやつがいたら、当然、警戒するだろ……」


 ライハンは少し目を伏せた。


 リセルは湯面に揺らめく月をじっと見つめて、言った。

「……俺も、本当は火が怖い。出したくて出したことなんて、一度もない。あの時だって……ただ、必死で――」

 それ以上は、言葉にならなかった。

 喉の奥でくすぶった思いが、湯気の中に溶けて消える。


 しばしの沈黙。

 リセルは、ライハンに尋ねた。


「あのしびれ薬ってさ……」

「ああ、熊用のな。効いただろ」

 にやりとライハンが笑った。


「正直、しびれのほうがきつかった」

「悪かったって。ずっと謝りたかったんだぜ」

「うん」

 リセルは湯に顎先まで浸って頷いた。


 ライハンは、気にしてくれているのだ。自分を撃ったことを。

 そのことが、なぜかじんわりと体にしみていく湯のように、胸の奥を熱くした。


 ふいに、カイネルが目を開けた。

「……そういえば」

 リセルが肩をすくめると、カイネルはさらりと聞いた。

「リセルってさ、エリシアのこと……好きなの?」

「は? なんで?」

 思わず声が裏返る。


 リセルが振り向くと、カイネルはわずかに口元を緩めた。

「いや、なんとなく。いつも守ってるし、あの時も庇ってたし。二人でいるときの空気がなんか……」

「やめろ」と言う前に、横のライハンが乗っかってくる。

「お前、湯気で顔赤いの誤魔化せると思ってないよな?」


「のぼせただけだって!!」

 リセルは口元まで湯に沈み込み、吐いた息がぶくぶくと泡になった。

 その直後、ふらりと視界が揺れる。

「わ、危なっ……!」

 ライハンがとっさに支える。


 リセルは頭に手を当て、ぼんやりと星空を仰いだ。

「……ちょっと、入りすぎただけだ」

 カイネルは軽く笑いながら目を閉じ直す。

「ま、そういうことにしといてやるよ」

 違うと言おうとしたが、頭に血が上っていよいよふらふらになり、リセルはライハンに支えられたまま、うなだれた。


 * * *


 湯から上がると、冷えた空気が肌を刺した。

 カイネルは一度家に戻ると言って途中で別れた。

 ライハンは、リセルを村の中心から少し離れた場所にある番小屋へと連れていった。


 そこは、警戒時に村の守り手たちが交代で番をする場所で、ライハンは「番小屋と呼ばれてる」と簡単に説明した。


 ここなら、万が一火を出しても村の家屋までは広がらず、外の様子も見張りやすいという。

 セラドの事件以来、この小屋の土台は石や煉瓦で組まれ、燃え広がらないように改修されているらしかった。


 まだ髪が濡れているまま、リセルは手拭いで拭きつつ、衣服の上から肩に手をやる。

 巻いていた包帯が湿ったままだった。


「それ……そのまま寝るなよ。替えよう」

 ライハンは小屋の隅に転がっていた包帯を手に取った。

「じっとしてろ」

 リセルは黙って肩を少しだけ前に出す。

 濡れた包帯をほどくと、赤くなった傷跡があらわになった。


「やっぱ、深かったな……」

「でも、痺れただけだったし」

「打たれ強いやつだな」


 ライハンが小さく笑い、新しい布で傷口を拭ってから手際よく包帯を巻いていく。脚の方はリセルが自分で巻いた。


「はい、終わり。もう寝とけ。俺は見張りするから、ここで」

 そう言って、ライハンは窓際にごろりと横になろうとする。

「おい……毛布とか、かけないのかよ」

 そのとき、扉がすうっと開いた。

「そんなことだと思った」

 入ってきたのはカイネルだった。

 片手に毛布、もう一方には湯気の立つ小さな包みを持っている。


「家から持ってきた。毛布と、これ。簡単な夜食」

「……助かる」

 ライハンが照れ隠しのように言うと、リセルがぽつりと聞いた。

「……どこ、行ってたの?」

「家だよ。小さい子がいるからさ。奥さんの様子と、子どもの寝顔、ちょっと見てきた」

「……えっ」

 リセルがまじまじとカイネルを見る。


「子ども……いるのか?」

「うん。二人。三歳と二歳。かわいいよ」

 どう見ても二十代になったばかりにしか見えない青年を、リセルは驚いたように見つめた。


「……カイネルって、何歳?」

「二十二だけど」

「……それで二人も……?」

「そんな珍しい? この郷じゃ、普通だよ」


 その言葉に、毛布をかぶりかけていたライハンが反応した。

「普通だと? じゃあ三十で独身の俺はどうなるんだよ」

 毛布を引き上げながら、ぼやくように言う。

「ま、お前は正解だな。結婚して正解。こいつモテるからな。早めに決めといてよかったよ。これ以上泣く子を増やさなくて済む」


 カイネルは苦笑しつつ、毛布をリセルの肩にふわっとかけた。

「それは、どうかな。でも……子どもは、かわいいよ。寝ちゃってても、一日の終わりにはちゃんと顔を見ておきたくてさ。会えない日が続くこともあるから」


 ……そういえば、ナディルも言っていた。

 この郷の人間でも、外に出ることがあるらしい、と。

「……なぁ、ナディルに聞いたけど、外に出たことも、あるのか?」

「ああ、偵察で少しね。だっていくら郷が閉じられてたとしても、外の情勢をまったく知らないのも危険だろ?」


「だから、ラファスとヴェルナのことは知ってるんだな」

「俺も出たことあるよ。ヴェルナの方が好きだったな。人も景色も、ちょっと柔らかくて。ラファスって国は、あれはやばいな。秩序の神様なんて信じてんだな。あれじゃあ、窮屈で、人も逃げ出すわけだ」

 ライハンが横になったまま、天井を見ながら言った。


 リセルは答えなかった。

 少し意外だった。

 あんなに「外に出すな」と言っていたのに——それでも、偵察には人を出すのか。


 どちらの国にも属さないこの郷の人に、ラファスとヴェルナはどう映っているのだろう。

 ラファスでもヴェルナでもない。

 ただ、二つを知り、静かに見つめている場所――そんな気配がした。


 それはリセルにとって、奇妙でありながら、妙に落ち着くものだった。

 どちらにも行けない自分が、いてもいい場所。

 そう思えたのは、初めてだったかもしれない。リセルはその言葉を呑み込み、お茶の香りだけを吸い込んだ。


 毛布のぬくもりに包まれ、リセルは出された湯呑みを手に取った。

 中には、ほんのり甘い香りのする温かいお茶。

「……ありがとう」

 そう言って一口飲み、湯呑みを置く。


「俺は見回りがあるから。ライハン、また朝交代に来るよ」

 そう言ってカイネルは小屋を出ていった。


 ライハンも壁を背に毛布にくるまり、リセルには寝るように促す。

 ゆっくり横になると、毛布の中で体の芯までほぐれていくのがわかった。

 すぐそば、壁にもたれて座るライハンの気配がする。

 眠っている様子はない。時折、姿勢を直す音がかすかに聞こえた。


 ――起きてる。

 人の気配がする。そのことに、なぜか安堵した。

 リセルは小さく息を吐き、そのまま瞼を閉じた。


 まぶたの裏に、星の光がじんわりと残っていた。



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