第二十五話 焚き火を囲む夜
夜の冷気が肌をかすめる中、小屋を出たリセルは、ほんの一瞬だけ立ち止まって、吐いた息が白くなるのを見つめた。
隣にはエリシアがいて、立ち止まったリセルに小首をかしげて微笑む。
前方を歩くナイラが、ちらりと振り返り、片手で手招きをした。
この村には、ヴァレン村を思い出させるものが揃っていた。
夜の冷気も、星空も、風の匂いも。
(思い出したくないと、思っていたのにな)
ここに来てから、遠ざけていた記憶がふとした瞬間に顔を出す。
不快ではない。
ただ、どう扱えばいいのか分からず、戸惑っていた。
ナイラが、急いでと言いたげに視線を送る。
エリシアが遠慮がちに、リセルの服の端をつまんだ。
「……行こう? きっと大丈夫だよ」
励ますように小さく両手を握る仕草に、リセルはうなずき、足を踏み出した。
* * *
焚き火の明かりは、守り手小屋の広場にぽつりと灯っていた。
誰かが薪をくべる音。火のはぜる乾いた音。
人々の声は低く小さい。けれどその輪の中に、確かに“何か”が息づいている。
近づくにつれ、リセルは空気の重さに気づいた。
これは、ただの夕飯じゃない。
ここで語られる言葉が、自分たちの立ち位置を決める。
焚き火の向こうに、ガルザの影が見えた。
静かに座っている背中が、それだけで場を制している。
焚き火のそばには、すでに何人もの戦士たちが腰を下ろしていた。
マシュラやトヴァル。少し離れたところでは若い戦士たちが肩を寄せ合い、食事を始めている。
カイネルはその輪の中にいて、目が合うと手を振ってくれた。
そちらへ行きたかったが、ナイラが案内したのはガルザの前だった。
中堅の、どこか威圧的な戦士たちが周りを囲むように座っている。
リセルもエリシアも、自然と背筋が伸びた。
その中心で、長身の男――ライハンが皿をひょいと差し出してきた。
「よっと。さあ、ここに座れよ。……別に、取って食うわけじゃない。まあ、まずは食え」
皿の上には、焼かれた獣肉と山菜、きのこが香ばしく盛られている。
リセルは少し躊躇しながらも受け取り、隣のエリシアも小さく頭を下げてそれに倣った。
「ありがとうございます」
震えが混じる声だったが、それでもエリシアは笑おうとしていた。
ライハンは照れくさそうに片目をつむって見せた。
「硬くなるなって。腹が減ってるときは、まず腹を満たす。それが戦士の基本だろ?」
その言葉に、場の空気がわずかにゆるんだ。
やがて、焚き火の向こう側で黙っていたガルザが、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、ざわついていた声がすっと消える。
火のはぜる音だけが、夜に残った。
「……そんなに硬くならなくてもいい」
穏やかな声だったが、不思議と場を制する力を持っていた。
「今日ここで、お前たちに村の判断を伝える。すでに耳にしているかもしれんが――この郷は“逃れてきた者たち”で成り立っている。今でこそ〈逃れ民〉と呼ばれているが、昔をたどれば、俺たちの先祖も同じだ」
ぱちりと火が音を立てる。
誰も口を挟まない。ライハンでさえ、真剣な表情で火を見つめていた。
「だから、この村には掟が二つある。ひとつ、逃れてきた者を見捨てない。それが俺たちの第一の掟だ」
言葉は焚き火を挟み、まっすぐリセルとエリシアに向けられていた。
火に照らされたその顔には、迷いと責任の色が混じっていた。
少し間を置いて、ガルザは続けた。
「……お前が『炎を出した』と聞いたとき、俺たちは警戒した。過去にも一度、火の民の血を引く者がここに来たことがある」
リセルは無意識に拳を握った。
火の熱が、わずかに強まったように思えた。
「その男は……セラドと言った。相当ひどい目に遭ったんだろう。ずっと何かに取り憑かれたような顔をしていた。ある晩、突然、炎に呑まれた。自分の身だけじゃない、周りも――郷の一部が焼けた」
エリシアが息を呑む。
リセルは言葉を返せなかった。ただ、その場で、じっと火を見ていた。
「その時のことを今も覚えている者は多い。だから、お前の存在を知ったとき、反発があったのは当然だった」
周囲の戦士たちの表情に、記憶の影が浮かぶ。
ライハンも、マシュラも、深く受け止めている顔だった。
「……だが今は違う。バイラ村長はお前を『悪い風ではない』と判断した。その判断を受けて、あとは俺に任された」
「村長は、来ないのか?」
リセルのつぶやきに、ガルザがかすかに笑みを見せた。
「バイラ村長は気まぐれな人だ。今ごろフェルドの家で酒でも飲んでるかもしれん。いい加減に見えるが……あの人の勘は当たる。代々、風の気配を読む家系でな。今回も『お前たちは大丈夫だ』と言った。だから、俺も従う」
焚き火を囲む何人かの戦士が、それぞれに小さくうなずいた。
「……お前たちを、受け入れる」
その言葉に、エリシアがほっと息をつき、リセルの袖をつまんだ。
その感触に、リセルの肩から少しだけ力が抜ける。
「ただし――リセル、お前は様子見だ。炎を出すという事実に変わりはない。
そして、ここにはもう一つの掟がある。一度受け入れた者は、外に出さない。存在が外に知られれば、それだけで命取りになる。ここに入った以上、覚悟してもらう」
ガルザは声を落とし、リセルをまっすぐに見据えた。
「許可なく外に出たら――その時は、分かっているな?」
「……ああ」
リセルは短く頷いた。
あの時の、石牢でのライハンの言葉が蘇る。
――逃亡者に待っているのは、死だけだ。
その言葉が、背筋の奥に冷たく沈んだ。
しばし、焚き火の音が夜に溶け込む。
誰も口を開かなかった。
炎がはぜる音だけが、輪の中を満たしていた。
「まあ、難しく考えないで」
そう口を開いたのはマシュラだった。焚き火の明かりに、慈愛に満ちた金色の瞳が揺れる。
「あんた達は外から追われてここに来た。安全な場所にたどり着いた――そう思えばいい」
「聞かせてくれよ。お前たちのことも」
重く響いたのは、岩のような体格の男――ザシェと呼ばれていた男だった。
普段は無口なその人が口を開いたのを、リセルは初めて見た。
火に照らされた彼の横顔は、その体に似合わず、静かで優しげだった。
「ここは閉じられた郷かもしれない。でも、みんなで助け合ってる」
その言葉に、焚き火を囲む人々がうなずいた。
だが、その中でただ黙って火を見つめている者もいた。
ヴァシュもその一人だった。
火を見つめるその瞳は、どこか遠く、何かを探すようなまなざしだった。
感情はまだ形にならず、言葉にもならない。
それでも胸の奥で、名もない思いが静かに揺れているのがわかるようだった。
「……俺は、納得できない」
誰かがぽつりと呟いた。
リセルは、ただ黙った。
その言葉は、焚き火の熱よりも重く、空気を震わせた。
「あの夜を、また繰り返すのか? 火の民を受け入れて、たった一人の犠牲だったからと、戦士長はそれを軽く見るのか?」
ザシェが声を上げかけて、やめた。代わりに、火の中で爆ぜた薪の音だけが響いた。
誰も返事をしなかった。
その一人の名を出すことすら、許されないように思えた。
ガルザが再び口を開いた。
「……あのときのことは、軽んじていない。気の毒だったと思っている」
視線をヴァシュに向けた気配があったが、ヴァシュは何も言わず、火を見ていた。
「だからこそ、妥協案をとる。監視はつける。夜も一人にはさせない。セラドは、夜によくうなされていた……最後は、一人で、炎に包まれた」
「ここは逃れ民の郷だ」
ライハンが薪をくべながらぽつりと言った。
「ここでさえ受け入れられなければ、もうどこにも行き場はない。……な?」
そう言って、リセルに視線を向ける。
リセルは答えなかった。ただ、焚き火を見つめていた。
――ここしか、行き場がない。
そう言われて、胸の奥で何かがわずかに軋んだ。
(本当に、そうなのか?)
自分は、安住の地を探していた。
それが、東の大国を目指していた理由だった。
でも――それが、ここなのか?
何かを忘れている気がした。
それでも、今はまだ――思い出さなくていい。
エリシアは、焚き火の赤に照らされたリセルの横顔を、心配そうにのぞき込んでいた。
目が合いそうになって、ふっと笑った。
何も言わなかったけれど、その笑みは「ちゃんとそばにいる」と伝えていた。
「さあ、そろそろお前たちの番だ」
ガルザが、少しだけ明るい声で言った。
「どうやってここまで来たのか。どこで生きてきたのか。教えてくれ」
リセルはすぐには答えられなかった。
どこから話せばいいのか、分からなかった。
先に、エリシアが口を開いた。
「私は、ラファスの西で生まれました。母と二人で畑をやって暮らしていました。
でも私たちは、この郷のフェルディエルさんと同じ、癒しの力を持つ民の末裔で……
ある日、ラファスの兵士に連れていかれて、閉じ込められていました。
母とは……そのあと、引き離されて、それきりです。
亡くなったと聞かされましたが、本当のことは分かりません。
最近、逃げられる隙があって――その途中で、リセルに助けられて、今ここにいます」
静かに語る声に、誰も言葉を挟まなかった。
リセルも、それに続いた。
「俺は……もとはカイラの生まれだ。ユーファの血を引く民の出。昔は、それをただの伝承だと思ってた。でも、十のときに、イースガルド連盟が村を襲った。両親は……その時に」
言葉が、そこで一度、途切れた。
「それからは、羊飼いの男と暮らした。けど――その人も、俺のせいで……」
最後まで言わず、息を吐いた。
「それからは、ずっと一人だった。エリシアと出会ったのは……偶然だ」
焚き火が、ぱちりと音を立てる。
言葉にしてみると、自分のこれまでが、どこか遠いもののように思えた。
ずっと東の大陸を目指して、金を稼いでいたあの生活から、気づけば、ずいぶん遠くまで来ている。
ふとエリシアに目を落とす。彼女が隣にいるのは、まだほんの数日だ。
それなのに――どこか懐かしかった。
ずっと前にも、こんな感覚を知っていた気がした。だが、それを言葉にするのは、なんとなく居心地が悪かった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがてガルザが、静かに言った。
「……そうか。相変わらず、ふもとの世界は、横暴に人を裁いているのだな」
そして、柔らかく言葉を重ねた。
「もう、そういう目には遭わなくていい。この郷ではな。――ようこそ。よく、ここまで来たな」
焚き火が、ぱちりと音を立てた。
その音が、夜に溶けていった。
三章、完。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
次回より四章が始まります。
四章では、力の秘密に触れていきます。
エルカの郷に受け入れられた二人。
けれど、安らぎは長くは続きません。




