第二十四話 ひとときの郷 II
マルヤとトルマ、それにリセルとエリシアは、マルヤの作業小屋へと戻っていた。
ナディルは、エルランに半ば引きずられるようにして、隣の治癒小屋へ向かっていく。
マルヤが、毛皮の山の前で手を止める。
「まだ力仕事ってわけにはいかないわよね。……ねえ、リセル、あんた毛皮、縫える? ほつれ直しとか」
少し面食らいながらも、リセルはうなずいた。
「……少しなら」
「じゃあ、これ。あたしも助かるわ。エリシアには、薬草のこと教えてあげようか。興味があったらでいいけど」
「いいんですか? 教えてください」
そう言って、エリシアはまっすぐマルヤのそばへ行った。
暖炉では薪がぱちぱちと音を立てて燃えている。小屋の中には、温かく静かな空気が流れていた。リセルは、ほつれた毛皮を指先で確かめながら、手際よく縫い直していく。
トルマが肘掛け椅子をきしませながら、感心したように言った。
「器用なもんだな。守り手より、職人向きじゃねぇか」
「だから、最初からそういうのじゃないんだって」
「そうかそうか。……じゃあ、外じゃ職人だったのか?」
「……まあ、そう見えてたかもな」
ひと針ごとに、丁寧なリズムが刻まれていく。
その静かな時間を破るように、扉がぱっと開いた。
「なぁ、いつまでここで休んでなきゃいけないんだ? ずっと小屋にいたら、体おかしくなるだろ」
ナディルだった。後ろからエルランがついてきて、やれやれと肩をすくめる。
「ちっとも黙ってないんだよ、こいつ。母さん、こいつもう家に帰していい?」
「リセル、トナカイに餌あげに行こうよ!」
素朴な誘いに、リセルは一瞬きょとんとしたが、小さくうなずいた。
「……ああ」
「私も行ってみたいな」
エリシアが笑って言い、三人は連れ立って外へ出た。
「あ、エルランはちょうどよかった。ちょっとこっち手伝って」
「はいはい」とエルランは肩をもみながら溜息まじりに返し、マルヤの隣に腰を下ろす。
* * *
囲いの中では、数頭のトナカイがまだら模様の冬毛を揺らしながら、のんびりと草をはんでいた。
一頭が柵の近くまでやってくる。
毛並みはつやがあり、足腰も太い。よく手入れされている。
リセルは、その丸い鼻先が近づいてくるのを、じっと見つめた。
(……おとなしいやつだな。けど、好奇心はある)
飼い葉を差し出すと、トナカイはためらいなく鼻を寄せ、ぺろりと舐めてきた。
その感触に、リセルの口元がかすかに緩む。
草の香りと、鼻先の温もり――
忘れていた感触が、指先からじんわりと広がってくる。
「……なんだ、こいつ」
エリシアがくすくすと笑った。
「懐かれてるみたい」
まるで犬のように、トナカイはリセルの指に鼻をこすりつけ、ぺろりと舐める。
「すごいな、俺がやってもそっぽ向くのに」
ナディルが感心したように見つめた。
「……草の匂いじゃないのか?」
リセルはそう言って、トナカイの鼻先を軽く指先でなでた。
「昔、世話してたこともあるしな」
「えー、それにしたって懐きすぎだろ。なんか似てるのかな、リセルと」
ナディルがしばらく黙ったあと、ぽつりと口にする。
「リセルも、カイラだったの? きっとそうなんだろ?」
リセルの手が、ほんのわずかに止まる。
けれどナディルは気づかず、続けた。
「カイラって、どんな暮らししてたの? 動物とかも一緒に旅するの?」
「……まあ、場所による」
リセルは短く答え、遠くの雪残る木立に視線を向けた。
「な、俺の髪、ちょっとリセルに似てるだろ?」
ナディルが自分の前髪を指さして、にやりと笑う。
「もしかして、俺も火の民だったりして。……いやー、炎出せたらかっけーよな!」
リセルは、目を細めたまま黙っていた。
飼い葉を差し出しながら、小さくつぶやく。
「……そんないいもんじゃないよ」
リセルは視線を落とし、小さく息を吐いた。
隣に立つエリシアの気配が、そっとこちらに向けられている気がした。
だがリセルは、その空気を振り払うように、黙って草を差し出した。
「えー、そんなこと言うなよ。俺、ちょっと憧れてたのに」
それには、返事がなかった。
ただ、トナカイが草をはむ音だけが、静かに響いていた。
しばらくして、ナディルが少しだけ声を落とした。
「俺、実はさ……外の世界に憧れてるんだ」
「……外?」
「うん。俺もカイラだったろ? だから、死んじゃった母さんと父さんが暮らしてた場所、見てみたいんだ。大陸って広いんだろ? 海ってのもあるって聞いた。前に、偵察に出た守り手が話してた」
「偵察……?」
「この郷も、外の情報がないと困るからさ。精鋭の戦士は、定期的に山を下りて、外に出てるんだよ。秘密の道があるらしい」
「……出られるのか」
「うん。でも、それは選ばれた守り手だけなんだ。誰でも通れるわけじゃない」
「だれが行けるんだ?」
「ザシェとか、カイネルとかさ。ライハンも。ガルザなんて、いつもいなくなるし」
「そうなんだね……」
エリシアがぽつりと呟いた。
その声は小さく、どこか遠くを見ているようだった。
「俺さ、ずっと考えてたんだ。なんで大人たちが『ここにいろ』って言うのか。外が怖いから? でも、行ってみなきゃ分かんないよな。母さんたちが生きてた場所、俺は、知りたいんだ」
「……行くなら、東の大陸がいい」
リセルが、呟くように言った。
「え?」
「いや、海の向こうには、イース大陸とは違う、東の大陸もあるんだ。俺も、そこに行こうとしてた。自由な大国があって、火の民だって受け入れるって聞いた」
「……そうだったの?」
「ああ。でも、海路は金がかかる。だから、ずっと働いて金を稼いでた」
「海路ってなんだ?」
ナディルの目が輝く。
「船だよ。でかい帆船とかさ。そういうのに乗って、何日も海を渡る。隣の大陸にも行ける」
「へぇ、すごいなぁ。行ってみたい!」
「おーい!」
振り返ると、エルランが遠くから手を振っていた。
「ナディル、トルマがもう帰るってさ。お前も、もう家に帰れ! 送ってやる!」
「えっ、ほんと? やったー!」
ナディルは嬉しそうに駆け戻っていく。
リセルとエリシアは、その背を見送りながら、並んで歩き出す。
しばらく黙ったまま歩いたあと、エリシアがふと呟いた。
「……この郷、あたたかいね」
リセルは何も言わなかった。
けれど、その足取りは――さっきより、少しだけ軽くなっていた。
――ここでもいいんじゃないか。
ゆっくりと巡る、円環のような時間。
その温もりが体に染み込み、やがて静かに根を張っていく――。
リセルは、拳を握っていた。




