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【第一幕・完】灯火の誓い〜炎を宿す少年は、名を奪われた少女と雪の大陸を逃げる〜  作者: 水瀬 理音
第三章 風を抱く郷(前編)― 灯火に揺れる

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第二十四話 ひとときの郷 II

 マルヤとトルマ、それにリセルとエリシアは、マルヤの作業小屋へと戻っていた。

 ナディルは、エルランに半ば引きずられるようにして、隣の治癒小屋へ向かっていく。

 マルヤが、毛皮の山の前で手を止める。


「まだ力仕事ってわけにはいかないわよね。……ねえ、リセル、あんた毛皮、縫える? ほつれ直しとか」

 少し面食らいながらも、リセルはうなずいた。

「……少しなら」

「じゃあ、これ。あたしも助かるわ。エリシアには、薬草のこと教えてあげようか。興味があったらでいいけど」

「いいんですか? 教えてください」

 そう言って、エリシアはまっすぐマルヤのそばへ行った。


 暖炉では薪がぱちぱちと音を立てて燃えている。小屋の中には、温かく静かな空気が流れていた。リセルは、ほつれた毛皮を指先で確かめながら、手際よく縫い直していく。

 トルマが肘掛け椅子をきしませながら、感心したように言った。


「器用なもんだな。守り手より、職人向きじゃねぇか」

「だから、最初からそういうのじゃないんだって」

「そうかそうか。……じゃあ、外じゃ職人だったのか?」

「……まあ、そう見えてたかもな」


 ひと針ごとに、丁寧なリズムが刻まれていく。

 その静かな時間を破るように、扉がぱっと開いた。


「なぁ、いつまでここで休んでなきゃいけないんだ? ずっと小屋にいたら、体おかしくなるだろ」

 ナディルだった。後ろからエルランがついてきて、やれやれと肩をすくめる。

「ちっとも黙ってないんだよ、こいつ。母さん、こいつもう家に帰していい?」

「リセル、トナカイに餌あげに行こうよ!」


 素朴な誘いに、リセルは一瞬きょとんとしたが、小さくうなずいた。

「……ああ」

「私も行ってみたいな」

 エリシアが笑って言い、三人は連れ立って外へ出た。

「あ、エルランはちょうどよかった。ちょっとこっち手伝って」

「はいはい」とエルランは肩をもみながら溜息まじりに返し、マルヤの隣に腰を下ろす。


 * * *


 囲いの中では、数頭のトナカイがまだら模様の冬毛を揺らしながら、のんびりと草をはんでいた。

 一頭が柵の近くまでやってくる。

 毛並みはつやがあり、足腰も太い。よく手入れされている。

 リセルは、その丸い鼻先が近づいてくるのを、じっと見つめた。


(……おとなしいやつだな。けど、好奇心はある)

 飼い葉を差し出すと、トナカイはためらいなく鼻を寄せ、ぺろりと舐めてきた。

 その感触に、リセルの口元がかすかに緩む。

 草の香りと、鼻先の温もり――

 忘れていた感触が、指先からじんわりと広がってくる。


「……なんだ、こいつ」

 エリシアがくすくすと笑った。

「懐かれてるみたい」

 まるで犬のように、トナカイはリセルの指に鼻をこすりつけ、ぺろりと舐める。

「すごいな、俺がやってもそっぽ向くのに」

 ナディルが感心したように見つめた。


「……草の匂いじゃないのか?」

 リセルはそう言って、トナカイの鼻先を軽く指先でなでた。

「昔、世話してたこともあるしな」

「えー、それにしたって懐きすぎだろ。なんか似てるのかな、リセルと」

 ナディルがしばらく黙ったあと、ぽつりと口にする。


「リセルも、カイラだったの? きっとそうなんだろ?」

 リセルの手が、ほんのわずかに止まる。

 けれどナディルは気づかず、続けた。

「カイラって、どんな暮らししてたの? 動物とかも一緒に旅するの?」


「……まあ、場所による」

 リセルは短く答え、遠くの雪残る木立に視線を向けた。

「な、俺の髪、ちょっとリセルに似てるだろ?」

 ナディルが自分の前髪を指さして、にやりと笑う。


「もしかして、俺も火の民だったりして。……いやー、炎出せたらかっけーよな!」

 リセルは、目を細めたまま黙っていた。

 飼い葉を差し出しながら、小さくつぶやく。

「……そんないいもんじゃないよ」

 リセルは視線を落とし、小さく息を吐いた。


 隣に立つエリシアの気配が、そっとこちらに向けられている気がした。

 だがリセルは、その空気を振り払うように、黙って草を差し出した。

「えー、そんなこと言うなよ。俺、ちょっと憧れてたのに」

 それには、返事がなかった。


 ただ、トナカイが草をはむ音だけが、静かに響いていた。

 しばらくして、ナディルが少しだけ声を落とした。

「俺、実はさ……外の世界に憧れてるんだ」

「……外?」


「うん。俺もカイラだったろ? だから、死んじゃった母さんと父さんが暮らしてた場所、見てみたいんだ。大陸って広いんだろ? 海ってのもあるって聞いた。前に、偵察に出た守り手が話してた」

「偵察……?」

「この郷も、外の情報がないと困るからさ。精鋭の戦士は、定期的に山を下りて、外に出てるんだよ。秘密の道があるらしい」


「……出られるのか」

「うん。でも、それは選ばれた守り手だけなんだ。誰でも通れるわけじゃない」

「だれが行けるんだ?」


「ザシェとか、カイネルとかさ。ライハンも。ガルザなんて、いつもいなくなるし」

「そうなんだね……」

 エリシアがぽつりと呟いた。

 その声は小さく、どこか遠くを見ているようだった。


「俺さ、ずっと考えてたんだ。なんで大人たちが『ここにいろ』って言うのか。外が怖いから? でも、行ってみなきゃ分かんないよな。母さんたちが生きてた場所、俺は、知りたいんだ」


「……行くなら、東の大陸がいい」

 リセルが、呟くように言った。

「え?」

「いや、海の向こうには、イース大陸とは違う、東の大陸もあるんだ。俺も、そこに行こうとしてた。自由な大国があって、火の民だって受け入れるって聞いた」


「……そうだったの?」

「ああ。でも、海路は金がかかる。だから、ずっと働いて金を稼いでた」

「海路ってなんだ?」

 ナディルの目が輝く。


「船だよ。でかい帆船とかさ。そういうのに乗って、何日も海を渡る。隣の大陸にも行ける」

「へぇ、すごいなぁ。行ってみたい!」

「おーい!」


 振り返ると、エルランが遠くから手を振っていた。

「ナディル、トルマがもう帰るってさ。お前も、もう家に帰れ! 送ってやる!」

「えっ、ほんと? やったー!」

 ナディルは嬉しそうに駆け戻っていく。


 リセルとエリシアは、その背を見送りながら、並んで歩き出す。

 しばらく黙ったまま歩いたあと、エリシアがふと呟いた。


「……この郷、あたたかいね」


 リセルは何も言わなかった。

 けれど、その足取りは――さっきより、少しだけ軽くなっていた。


 ――ここでもいいんじゃないか。


 ゆっくりと巡る、円環のような時間。

 その温もりが体に染み込み、やがて静かに根を張っていく――。

 リセルは、拳を握っていた。



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