第二十二話 風の守り神と鳥笛
林へ続く細道で、ふいに前を歩いていたカイネルが振り返った。
「まだ歩けそうか? 足、痛まないか?」
痛くないと言ったら嘘になるが、歩けないほどではなかった。
リセルは小さく首を横に振る。
「……いや、大丈夫だ」
カイネルは灰緑の瞳を細め、にやりと笑う。
「じゃあ、散歩ついでに、うちの守り神にでも挨拶する?」
「神って……」
眉をひそめる。オルデス神以外をそう呼べば、ラファスでは異端とされる。だがここは、どちらの国でもない。そういうものか――と、自分に言い聞かせた。
「そういう神様じゃないよ。郷のお守りみたいなもん。外から来たやつには案内してるんだ。モデルコース、ってやつさ」
「モデルコース……」
いやに軽くないか。リセルは憮然とした表情でカイネルを見返した。
エリシアがおずおずと手を上げる。
「行ってみたいです。大事にされているなら、挨拶しないといけない気がして」
カイネルは満足げにうなずき、林の奥へと歩き出した。
林を抜けたとたん、風が一筋、額を撫でたような気がした。
カイネルは何も言わずに歩き続ける。
空気が動いたような気がした。誰も気づかないくらいの、ほんのわずかな風――。
――林を抜けた先、ぽっかりと開けた場所に、一体の銅像が立っていた。
カイネルは像の前で足を止め、二人を振り返る。
「これが、うちの郷の“守り神”だよ」
「神……って、これ?」
リセルは目を凝らした。銅像は大人の人間の姿をしていた。だが背には風のような羽を広げ、衣も布ではなく、空気そのものがたなびいているように彫られている。顔立ちは人と変わらない。それでもどこか現実味がなく、目の奥には何も映っていないようで――けれど、すべてを見透かしているような、不思議な気配があった。
「伝承があるんだ」
カイネルが像を見上げながら言う。
「昔、この郷をつくったのは、ラファスやヴェルナから逃れてきた流れ者たちだったって言われてる。その頃はまだ霧なんてなかった。でもあるとき、追手が来たんだ。絶体絶命ってときに、この“竜人様”が現れて、風を起こし、蜃気楼で村を隠してくれた――そんな話が残ってる」
「竜人って……竜が人の姿で現れたってこと?」
エリシアが静かに問いかける。カイネルは肩をすくめた。
「さあな。でも、“人の姿をしていても、人じゃなかった”って言われてるよ。ほんとうにいたかどうかは誰にもわからない。ただ……この郷には風読みの家系があってさ。今のバイラ村長もその出身。風の流れにすごく敏いんだよ」
そういえば、ここに来たときもこの村はやけに霧が深かった。
あれも――“風読み”が何かを感じ取っていたから、なのか。
「今も、外から人が近づくと、風の変化でわかるらしい。君たちが来た日も、バイラが“風が変だ”って言っててさ。それで俺たち守り手が、様子見に行ったんだ」
「……信じられないな」
「火の民だって本当に炎を出したんだ。風を読める人間がいたっておかしくないだろ?」
カイネルはおどけたように肩をすくめて、笑った。
――像をあとにし、三人は村道を戻りはじめた。静かな道の途中、リセルはふと足を止め、振り返る。林の向こうに、さっきの像がまだこちらを見ている気がした。
ただの石像――のはずだ。
(竜人が守り神、か。〈黒聖〉が聞いたら怒るだろうな)
小さく息を吐き、前を歩くカイネルとエリシアの背を追った。
* * *
風の守り神の像をあとに、三人は草に覆われた丘を歩いていた。
風が頬を撫で、芽吹いた草の香りを運んでくる。雪解けの水音が遠くでかすかに聞こえ、もうすっかり春の兆しだった。
「ねえ、それ何?」
エリシアはふと、カイネルの腰でからからと揺れる小さな木の笛に目を止めた。
木彫りの、手のひらほどの大きさ。鳥の羽の模様が刻まれている。
「ああ、これ? 鳥笛だよ」
カイネルはぽん、と掌に乗せて見せた。
明るい黄土色で、ころんとした形。よく磨かれていて、指先に木の温もりが伝わる。鳥のくちばしのような先端に細い吹き口があり、ただの楽器というより、合図のための道具のようだった。
「見張りの時に使う。仲間に“危険なし”とか“ここにいる”って知らせるんだ」
「ふうん……でも、外の人に聞かれたら郷のこと、ばれちゃうんじゃない?」
「まぁ、聞き慣れてないと鳥の声と区別できないな。それに、吹き方や合図も決まってる。熟練すれば、誰の音かもわかるんだぜ」
「すごい! そんなことまで……どんな音か聞きたいな」
エリシアは目を輝かせた。
カイネルはふっと目を細めて、笛を唇に当てた。
短い息が抜ける――
次の瞬間、澄んだ音が丘の上にほどけていく。
「……!」
それは笛というより、鳥の声だった。
最初は小さく、「ピチ、ピチ、ピィッ」とさえずる小鳥のような響き。
やがて、ひときわ澄んだ高音が伸び、「ピィーィ……」と空に吸い込まれていく。
その音が風に乗り、芽吹いた草を震わせた。
遠くの空に、春を呼ぶ声のように。
エリシアは目を見開き、小さく息をのんだ。
「……本当に、鳥みたい」
その頬に、ひと筋の風がかすめる。
まるで音が、風を連れてきたみたいだった。
笛の音が春の空に溶けていくと、丘の上ではしゃいでいた子どもたちが歓声を上げた。
「カイネルだ! 鳥笛吹いてる!」
「ほら、あれ見ろよ!」
一人が木の枝を拾い、口に当ててピィと鳴らす。
「ぜんぜん違う! へただな!」
「いいなぁ……俺も守り手になったら、絶対あれもらう!」
「カイネルみたいに?」
「そうそう! 鳥笛持ってるの、かっこいいもんな!」
小さな憧れと笑い声が、風に運ばれてくる。
エリシアはそっと、その光景を目で追った。
――この郷では、誰かの夢になるものがあるんだな。
彼女は胸の奥でそんなことを思った。
カイネルは軽く手を振り返す。その笑顔の陰に、どこか誇らしげな色があった。
「それって……郷の誰でも使えるのか?」
リセルが、ぽつりと尋ねる。
「郷に認められて、狩人になったらな。守り手を束ねてる戦士長から渡されるんだ。――興味あるか?」
にやりと笑うカイネル。
「……狩人って、戦士とは違うのか?」
「ああ。戦士の見習いみたいなもんさ。狩人になると郷の外に出ることも増える。だから、鳥笛は“仲間の声”なんだ」
笛を見つめるカイネルの声に、ほんの少しだけ重みが宿る。
「これを持つってことは――信頼されたってことなんだ」
隣でリセルは黙っていた。
カイネルの腰で揺れる鳥笛に、視線を落とす。
――信頼の証、か。
その言葉が、なぜか胸の奥で重く響いた。
「さて、戻ろうか。マルヤが心配する」
カイネルは笛を腰に下げ、丘を下りはじめた。




