第二十一話 故郷の記憶
小屋に戻ると、マルヤが中から顔をのぞかせた。
手には数本の薬草を持っており、ふたりの姿を見ると、安心したように目を細める。
「ああ、外の空気にあたってきたのね。少し顔色がよくなったわ」
エリシアの頬に赤みが差しているのを見て、リセルはほっと息をついた。
ナイラとカイネルは外で待機するようで、小屋には入ってこなかった。
「おかえり。どう? あなたも少しはすっきりした顔になったじゃない」
マルヤはリセルの肩と脚に目をやり、小さく頷いた。
「まだ包帯、替えてなかったわね。中で座ってて。すぐ済ませるから」
リセルは軽く頷いて小屋に入った。
中はまだ薬草の香りが残っていて、外のひんやりした空気との温度差に肩をすくめる。
エリシアが少し後ろからついてきて、そっとリセルの隣に座った。
マルヤが新しい布と薬草の煮汁を用意しているあいだ、しばらく沈黙が流れる。
「……もう痛まない?」
エリシアの声は控えめで、けれどどこか安心したような響きを帯びていた。
「平気だ」
「……それなら、よかった。けど、歩くとき、まだ痛そうだったよ? 落ちたとき、深く刺さったんじゃない? 私にやらせて――」
「いらない」
リセルはエリシアの声を遮るように短く言った。
思いがけず声が強くなり、リセル自身も一瞬、息を詰めた。エリシアの戸惑う顔に、声を落して言い直した。
「……その力、もう無理して使うな。あんなふうに倒れるの、もう見たくない」
エリシアが驚いた顔をするのを見て、リセルは口元に手の甲をあてて、顔を背けた。
「……そっか。ごめんね、勝手なこと言って」
エリシアは指先で膝をつまむようにして、静かに目を伏せた。
マルヤがそのやりとりを聞いていたのかどうかはわからないが、軽く咳払いして包帯を巻き終えると、穏やかな声で言った。
「肩はともかく、脚の方は乱暴に引き抜いたでしょ? しばらくは注意して、よく見せてね。治りが悪いかもしれないわ」
それにしても、とマルヤはふと口元に笑みを浮かべて付け足した。
「あなたたちってなんか似てるわね。気づいてなさそうだけど、どっちも相手のことばかり考えてるんだから」
リセルとエリシアは顔を見合わせた。
「まあ、いいわ。少し散歩でもしてきたら? 体を動かすのも回復にはいいよ」
「散歩って……」
「監視はちゃんとつけるよ。でも、そろそろ少しは信用してあげなきゃね」
マルヤはにやりと笑って、扉のほうに目を向けた。
そこにはすでに、カイネルが立っていた。どうやら、すべて聞いていたらしい。二人も監視はいらないと判断したのか、他の仕事があったのか、ナイラはいなくなっていた。
「しばらくは、村の中だけね。遠くに行きすぎないように。カイネルが案内するから」
カイネルは「案内役じゃなくて監視なんだけどな」とでも言いたげに、肩をすくめて笑った。
意に介さず、マルヤは再び外の薬草畑に戻っていった。
* * *
小屋を出ると、春の空気が肌をなでた。
雪はもう消え、地面にはまだ湿り気が残るものの、足元からは若草の芽が顔を出している。
「お前たち、行ってみたいとこあるか?」
先を歩いていたカイネルが、振り返りざまに尋ねた。
「……いや、別に」
リセルが肩をすくめると、カイネルは苦笑する。
「それじゃあ、怪我人にぴったりな“散歩コース”をご案内しますか。――あ、ちがった。監視だったな」
ひとり突っ込みながら、軽い足取りで歩き出す。
リセルとエリシアも、そのあとに続いた。
しばらく三人のあいだに言葉はなく、林の奥から風の音と小鳥のさえずりがかすかに届く。
やがて、視界がひらけた。
谷を囲む山々の稜線が、遠くをやわらかく縁取っている。
足元には淡い緑がじゅうたんのように広がり、野の花が風に揺れていた。
南側の斜面には林があり、そこから流れ出た雪解け水が、小さな川になってきらめいている。
本当にあの山岳交易路の先に、こんな場所があったのか――
思わず、リセルは立ち止まって見入った。
「このあたりまでなら、大丈夫。あとは適当に……。あ、逃げたら俺が怒られるからな」
カイネルは木の切り株に腰を下ろし、さりげなく距離を取った。
見張っているようにも、気を遣って席を外したようにも見えない。
だが、その“いい加減さ”が今はありがたかった。
リセルは草の上に立ったまま、空を仰ぐ。
湿った土の匂いが鼻をかすめ、枝先には新芽が揺れている。
小川のせせらぎが光を弾き、トナカイが草の向こうでのんびりと草を食んでいた。
エリシアはそっと腰を下ろし、春の風に目を細めた。
「……不思議。ここにいると、少しだけ懐かしくなるの。草の匂いとか、風の音とか。似てる気がして」
「昔、住んでたところに?」
小さくうなずく彼女。
「麦畑のある、平らな土地だった。春になると一面に芽が出て……風でそよぐのが、好きだったの」
リセルも隣に腰を下ろし、遠くの山を見やった。
「……俺も……なんとなく、似てるなって思ってた。言われて、気づいたけど」
「え?」
言葉にするつもりはなかったのに、自然と出てきた。空気も、風も、どこか昔と似ていた。
隣にいた彼女が、それを受け止めてくれる気がしたのか、それともあまりにも自然に、そこにいてくれたからなのか――
「ヴァレン村っていう、山の麓の村だった。背には山があって、草原が広がってて、トナカイもいた。……朝は、いつも風が冷たくてさ。二年前まではそこで暮らしてたんだ」
リセルは、何かを思い出すように目を細めた。
「その頃、親のいない俺を拾って、一緒に住んでた人もいた。フィンって名前で……家族みたいな人だったよ。朝になると、パンの匂いがした。あいつ、料理が好きだったんだ。よく焼きすぎて、焦がしてたけどな。……野菜スープも、しょっちゅう作ってた。正直、飽きるくらいに……それでも、俺はあいつのスープが好きだった。……フィンといる毎日が、俺にとっての“帰る場所”だったんだ。あれが、“日常”ってやつだった」
リセルは少し笑ったあと、目を伏せた。彼の頬にまつ毛が影を落した。
「でも、その人は、殺された。……連盟に。それからは、ずっと一人で転々としてきたんだ」
エリシアはそっと頷いた。フィンという名前を初めて聞いたのに、不思議と懐かしさが胸に残った。それは、きっとリセルの声に滲んでいたから。だが、同時に、そのどうしようもない喪失感に胸を締め付けられた。
ふたりの間に、しばし静けさが流れた。
「……もっと、教えて。リセルのこと」
ぽつりとエリシアが言った。
リセルは少し視線を落とす。
「……なんでそんなこと聞くんだ」
小さく息を吐いて、草に視線を落とす。指先が、草の感触を確かめるように動いていた。
「だって、こうやって一緒に旅をしてるのに、知らないままなのは、嫌なの」
どこから話せばいいのか分からなかった。
思い出すのは、失ったものばかりだった。
「……俺は、カイラとして生まれた」
そう言ってから、リセルは一度、言葉を切った。
「季節ごとに移動して暮らす、移動の民だ。十歳までは家族といた。けど――ある日、それが終わった。イースガルド連盟に見つかって、襲われた。……俺だけが、生き残った」
エリシアは、静かに目を伏せる。
「……火の民、なんだよね。〈ユーファ〉の末裔だって」
「ああ、本当だよ。……でも、力を使ったのは今回で、二度目だった」
風が、草の間を抜けていく。
「一回目は、二年前。俺を庇ったフィンが、目の前で刺された。その瞬間、炎が出た。でも……何も焼けなかった。ただ、俺と――フィンの周りに、火が立っただけだった」
拳が、草をぎゅっと握りしめた。
「怒りで、自分が崩れていくみたいだった。炎に飲まれるのが、怖かった。今回も……同じだよ。お前を背負ってるとき、熊が出て。目の前で、誰かが倒れるのは、もう見たくなかった。そしたら、力が勝手に――」
短い沈黙が、ふたりの間に落ちた。
「追われてたのは、俺も同じだった。巻き込んだのは……俺のほうだったかもしれない」
リセルは目をそらし、遠くの稜線に目を向けた。
「でも、お前には命を救われた。ナディルってやつも。お前がいなければ、俺もあの子も、ここにいなかった。すごいやつだよ。自分を削ってまで、他人を癒せるなんて――」
そう言ったリセルの拳が、かすかに震えていた。
エリシアは、そっと首を振った。
「そんなことないよ。初めてだったの。……怖かった。でも、本当はね――私にも、話してなかったことがあるの」
彼女は、静かに言葉を継いだ。
「私は、〈エルナ〉の民。癒しの力を継ぐ民の末裔なの。一緒に攫われた母は、その力を……無理に使わされて、衰弱していった。私はただ、傍にいることしかできなかった。母が痩せていくのを、ただ見てることしかできなくて――怖かった。『私も、ああなるの?』って思ってしまって……情けなかった」
膝の上で手を握りしめる。
「……攫われたって言ってたな。母親と攫われたのか?」
「うん……。十三歳になった夏だった。急に村に兵士がやってきて、私と母を攫ったの。最初は、一緒に閉じ込められてた。どこか、ラファスの奥の場所で。
……それから、一年、母と幽閉されてたの。最初は同じ場所だったけど、母は何度もどこかに連れていかれて……そのたびに、何かが変わっていった。体も、表情も。……少しずつ、笑わなくなって、ある日――戻らなくなった。『死んだ』と、ただそう言われただけで。
本当のことは、今でも知らないまま」
言葉を止めて、エリシアは目を伏せた。
その言葉は、胸の奥に沈めたまま、動かせなかった。
「それからは、一人で……別の場所に。聖堂に移されて、そこで……。
……三年くらい、かな。名前を捨てて、“フィルナ”になれって。そればかり言われてた」
少し間があって、リセルが言った。
「……“フィルナ”?」
耳慣れない呼び名に眉をひそめる。
「よく分からないけど、名前を持ってはいけないって。〈聖女〉になるからって」
「お前が、〈聖女〉に?」
ラファスでは王は神の代行者。そして、王に神の言葉を伝えるのが〈聖女〉だと言われていた。
国中の人間が、“神に選ばれた存在”として敬ってるって話だった。
……まさか、その〈聖女〉に? エリシアが?
「“選ばれた者”は、国のために力を尽くすべきって……何度も言われた。でも、それって……何? 自分の命が、自分のものじゃないような気がして……怖かった」
言葉が途切れ、彼女は少しだけ笑った。
「おかしいよね? こんな辺境の娘が、〈聖女〉になんて」
「その力のせいか?」
「わからない。もしかしたら、他の……。実はね、癒しの力は、一部に過ぎないの。……私の力は、まだその先を隠してる。あの人たちは、それを――“奇跡”だと言ってた。でも……それは違う。あの力は、命を削るようなもので……奇跡なんかじゃない。そんなものじゃ、ないのに――」
声がかすれて、言葉が宙に消えた。エリシアは膝を抱えて、細く息を吐いた。
「……でも、もし、どこかに“本当の奇跡”があるなら……痛みを移すんじゃなくて、消せるような……そんな力だったらよかったのに、って……思うことがあるの」
ほんの一瞬、彼女の瞳が揺れた。そして、首を振る。
「ごめん。今は……言えない。きっと、誰にも。たとえあなたにも――」
エリシアは目を伏せ、膝に顔をうずめた。
肩がかすかに震えていて、泣いているのかどうかはわからなかった。
リセルは黙って、風の音に耳を澄ました。
彼女の声は風の中に溶けていったが、その想いは確かに、リセルの胸に残った。
気づけば、エリシアの背中をそっとさすっていた。
「……いいんだ。無理に話さなくていい」
一度、目を伏せてから、そっと続けた。
「……大丈夫。エリシアを追ってくる奴らは、もう届かない。今は、もう――一人じゃない」
それは、まるでかつての朝――
風の匂いに、パンの焼ける香りが混じっていた。
鍋のふたを開ける音、煮えたスープの湯気。
あの時の記憶が、リセルの胸を静かに熱くした。
リセルはただ、呟いた。
「大丈夫……大丈夫だから」
言葉は風に溶けていった。
けれど、それは確かに、今の彼のすべてだった。
* * *
いつの間にか近くに立っていたカイネルが、ばつが悪そうに咳払いをした。
「……そろそろ、戻る時間かな」
ふたりは顔を上げた。いつからいたのか――気配は、まるで風に紛れていたようだった。
言葉はなかったが、視線が重なった瞬間、ほんのわずかに距離が縮まった気がした。
リセルは不思議な感覚を覚える。
ただ話しただけなのに、目の前の少女が――どこか熱を宿した"誰か"に変わっていた。
「戻ろうぜ。風にあたりすぎても、よくないしな」
カイネルが先に歩き出すと、背中越しにぽつりとつぶやいた。
「……お前らって、なんか似てるな」
リセルとエリシアが同時に顔を向ける。
彼はいつも通りの顔で、片手でぽんと肩を叩いた。
「腹減った。さっさと行くぞ」
ふたりは、ふと目を合わせた。
何かが変わったわけじゃない。
何かが解決したわけでもない。
それでも――その瞳の奥に、自分とよく似たものを見た。
リセルは、そっと視線をそらす。
それだけで、不思議と、少しだけ息がしやすくなった。
――もう、一人じゃないのかもしれない。




