第二十話 灯火の癒し手
治癒小屋の扉を静かに閉じ、エリシアは外気に一歩踏み出した。
朝の光が、木々のあいだから地面に斑を落とす。冷えた風に土と草の匂いが混じり、春の訪れを告げていた。
少し歩いてから、マルヤの小屋へ戻ろうと振り返りかけた、そのとき――
背後から、年輪を重ねたような静かな声がかけられた。
「少し、話をしてもいいかね」
振り返ると、古びた外套に刺繍の肩掛けを重ねた老人が立っていた。
白髪まじりの髪をひとつに束ね、茶灰色の瞳には、どこか懐かしい熱が宿っている。
「私はフェルディエル。……皆からはフェルドと呼ばれている。この郷で長らく癒し手をしている者だ。……私も、逃れ民でね。かつて癒しの力を持つ民と共に生きていた。昨夜、少しだけ君の癒しの光を見た。……まさか、生きているうちに、私と同じ“灯火の民”の末裔に、再び出会えるとは思ってもみなかった」
エリシアの表情がわずかに強ばる。
――“灯火の民”。
それは、母から――決して口にしてはならない名として、密かに教えられたものだった。灯火の民は〈エルナ〉と呼ばれていたことも。
「驚かせてしまったね。だが、警戒しないでくれ。今日はただ、礼を言いに来た。昨晩、ナディルを救ってくれてありがとう。到着が遅くなってしまって、すまなかった」
そう言って、老人は深々と頭を下げた。
「もし少しでも遅れていたら、ナディルは危なかった。運が良くても、後遺症が残ったかもしれない。君がこの郷に来てくれたのは……あの子にとって、いや、この郷にとっての幸運だったよ」
「……いえ、私は、ただ……助けたかったんです」
エリシアが口ごもる。あれは“取引”でもあった。けれど、苦しむ姿を見て、ためらわずに手を伸ばした――それも確かな気持ちだった。
だからこそ、礼の言葉が胸に刺さった。エリシアは目を伏せた。
フェルディエルは穏やかな声で続けた。
「君は優しい子のようだね……。目の前の人が苦しんでいたら、咄嗟に癒さなければと思うのだろう」
そう言って、空に視線を向けた。やんわりとした口調で、静かに続ける。
「昨夜、少し見えた。あのやり方では、きっと疲れるだろうね。……慣れていないのかもしれない。まるで……瓶いっぱいの水を一度に注ぐようだったよ。本来は、灯を灯すときのように、芯にそっと火を移すだけで、十分なときもある。そうすれば、もっと長く、穏やかに、その灯をともしていける」
その言葉に、エリシアは顔を上げた。
「灯をともすように?」
「……もし滞在が決まったら、私の小屋においで。癒しのことも、伝えておきたいこともある。君に押しつける気はない。ただ、少しでも長くその力と共に在れるように、と思っている」
ちょうどその時、峠の向こうから、ゆっくりと歩いてくる人影があった。
矢を受けた方の脚を、かばうような歩き方だった。借りた服は少し大きく、歩くたびに袖口が揺れる。
春の冷気を含んだ空気を吸い込みながら、リセルは小屋の前に立ち止まった。
フェルディエルはじっと彼の姿を見つめ、目を細めた。
「……数奇なものだな」
そう呟いたフェルディエルは、それきり何も言わず、穏やかに会釈を残して去っていった。
朝の光があたりを満たし始め、静かな郷に、少しずつ人の気配が増えてゆく。
エリシアは、フェルディエルの背を見送ったあとも、しばらくその場に立ち尽くしていた。
彼の声には、焚火の残り火のような、静かであたたかなぬくもりがあった。
エリシアはそっと、小屋へと歩を戻した。
小屋の前には、リセルが立っていた。
横にいたナイラが彼に軽く声をかけ、少し離れたところにいたカイネルは、エリシアに気づいてにっこりと笑い、手を振った。
「エリシア、歩き回って大丈夫なのか?」
リセルが心配そうに声をかける。
「うん」
エリシアは、リセルたちに駆け寄った。
「あの人は?」
「フェルディエルさん。村の癒し手をしてるんだって」
リセルは、先ほどの老人の茶灰色の瞳を思い出していた。
自分を通して、何かを思い出していたような顔――
――数奇なものだな。
フェルディエルの言葉が頭をかすめたが、その意味は分からなかった。
「水浴びのあとはマルヤが包帯を替えるって言ってたし、入ろうか?」
「……ああ」
ナイラに促され、三人は小屋へと戻っていった。




