第十九話 手のぬくもり
寝台に横たわっているのが、もう落ち着かなかった。
さっきまでの倦怠感が、ほんの少し、和らいでいた。
マルヤが朝食を下げてから、窓から差し込む光が少し傾いてきた。もう小一時間は経っただろうか。
指先にまだ少し痺れるような感覚が残っていたが、もう立ち上がれそうだった。
外から時おり届く人の声や、風の音。
それが、外に出てみたいという気持ちを刺激する。
(ちょっとだけなら、いいよね)
まだおぼつかない足取りで、エリシアはそっと扉を開けた。
暖かい春の日差しに、湿った土と芽吹きの匂いが混ざっている。どこかで鳥がさえずる声が聞こえた。
顔を出すと、マルヤが少し先の薬草畑から顔を上げた。
「エリシア! もう起き上がって大丈夫なの? まだ寝ていたら?」
「……もうだいぶ気分がいいの。それに外の空気が吸いたくて」
「そう、それならよかったわ。リセルが戻ったら、包帯替えてあげるから、そのあと二人で村を見てきたらいいよ。でもその前に、よかったら隣の小屋に行ってくる? ナディルが目を覚ましたの。あなたに会いたいって」
エリシアはにっこり笑ってうなづいた。
マルヤはまだ薬草畑で作業があるからと言ったので、エリシアは一人で向かった。
隣の小屋の扉を開けると、言い争う声が聞こえた。
「だから、動くなって何度言えば――!」
「だって、エルラン、一日でも休むと体がなまっちまうんだぜ。俺は早く狩人から昇格して、強い守り手になるんだから、一日だって惜しいんだ」
「ばか、せっかく治してもらったんだ。それに蛇の毒がまだ体に残ってたら大変だ。しばらくは俺が煎じた薬湯を飲んで安静にしてろって」
エリシアは静かに扉を閉めて、二人に気づかれないよう、入口のそばで足を止めた。
ナディルは、ふてくされたようにそっぽを向いていた。そんな彼に、エルランが眉をしかめながら、薬湯の器を手渡そうとしていたところだった。
「……あの」
エリシアは、いつ声をかけるべきか迷いながらも、背後から声をかけた。
ナディルがぱっと振り向き、エリシアを見て顔を輝かせた。
「あっ、もしかして、癒し手のお姉さん?」
一気に顔が明るくなり、彼は跳ねるように立ち上がり――その瞬間、エルランに額を小突かれて、再び座り込んだ。
「だから、動くなって言っただろ」
「いったぁ……!」
エルランはようやくエリシアの方に顔を向けると、わずかに表情をやわらげた。
「昨日は……ありがとう。君がいなかったら、こいつ、もうダメだったかもしれない。もう動いて大丈夫なのか? あの後気を失って、一晩ぜんっぜん顔色も戻らなくてさ。……もう、だめかと思ったんだ」
ナディルはにやにやと笑いながら、両腕を上げるようにして言った。
「エルランは、癒し手のお姉さんのこと、すごく心配してたんだぜ」
耳が少し赤くなったエルランは、ナディルを小突いた。
「まず、お礼をいうんじゃなかったか? お前は、本当に危なかったんだぞ!」
ナディルとエルランのやり取りに、エリシアは思わず笑みをこぼした。
「本当に良かった。もうなんともないの?」
「ああ! 見てよ、ほらこの通り!」
ナディルは寝台の上に立ち上がって、片腕をぐるぐる回した。
すぐにエルランに肩を押さえられ、座らされる。
「ただ座るってことが、そんなに難しいか?」
いよいよ声が低くなるエルランに、肩をすくめながら、いたずらっぽく笑う。
「お姉さんがいなかったら、ほんとに危なかったって、マルヤが教えてくれた」
「……私、エリシアって言うの。エリシアって呼んでね」
エルランが横で「エリシアっていうんだ……」と呟いた。
「俺はエルラン、ここの治癒師だよ。ここで母さんの手伝いをしてる。君がナディルを癒してくれたとき、後ろで薬草を煎じてたんだけど――あんなすごいのは初めてみた」
エリシアは、少し言葉を探してから、口を開いた。
「……あの時は夢中で、自分でもほんとうに治せるかなんて分からなかったの」
それに、――純粋に助けたわけでもない。
そのことが、胸の奥で小さく疼いた。
「それなら、なおさらだよ」
エルランの視線は、まだ揺れていた。
エリシアはそれを受け止めきれず、目を伏せる。
次の瞬間。
気がついたら、エルランの手が、エリシアの手をそっと取っていた。
ごく自然な動作のようでいて、ほんの一瞬、彼の指が震えていた。
「……本当に、ありがとう」
エリシアは、すぐにその手を引かなかった。
その温かさに、思考が一瞬、遅れる。
「……あの、手が」
エリシアが小さくつぶやいた瞬間、エルランははっとして手を引っ込めた。
「その、俺、治癒師を目指してから、こんな風に、癒し手が命を繋ぎ止めるのに立ち会ったのは、初めてで、感動しちゃって……」
「エルラン、お姉さん困ってんぞ」
ナディルが無邪気に茶々を入れた。
「顔赤いし。もしかして、お姉さんが気に入ったのか? きれいだもんなぁ」
ばしん。
軽く小突かれて、ナディルが頭を押さえる。
思った以上に力があったのか、ナディルの身体がよろける。
エルランの腕は、治癒師とは思えないほどだった。昨日見た戦士たちの姿が、ふと重なる。
「うるさい、黙れ! お前は、“お姉さん”じゃなくて、ちゃんと名前で呼ぶんだ。命の恩人だろ? ちゃんとお礼しろ」
「いってぇ……病み上がりに何すんだ」
「どの口が言う。さっきも起き上がろうとしてたやつが」
ナディルは口を尖らせたが、すぐにエリシアに向き直った。
「エリシアさん、助けてくれて本当にありがとう」
淡い榛色の、人懐っこい目を向けて笑った。赤銅色の髪色は、リセルとは少し色味が違うけれど、どこかで親近感を覚えた。
エリシアはナディルの素直さにくすっと笑った。
――なんだか懐かしい。
こんなやりとり、故郷でも誰かがやっていた気がする。
昨日、戦士たちに言葉をぶつけた自分が、どこか遠くに感じられた。
この村には、ただ笑い合う声がある。
その音が、エリシアの胸の奥を、少しだけ温かくした。




