第十八話 見えない柵
エリシアは、遠くで水の流れるような音を聞いた気がした。
どこかで鳥がさえずっていた。体が、暖かいものに包まれている。
ふわりとした感覚。
ゆっくりと目を開けると、視界の隅に誰かの姿があった。椅子に座ったまま、眠っているようだった。
無造作な橙色がかった赤い髪が、額に影を落としている。俯いた横顔。まつ毛が意外と長い。
温かい手が、自分の手を握っている。
「……リセル?」
エリシアの小さな声に、俯いていたリセルがぴくりと反応し、顔を上げた。
無言でじっと見つめたあと、何か言いたそうに唇がわずかに震えたが、また口を閉じた。
エリシアはまだぼんやりとした頭で曖昧に笑った。
「あれ、ナディルは……大丈夫だったの? リセルは牢から出してもらえたの?」
「ナディルって見習いの子は無事だ。隣の小屋でまだ安静にしてる。俺は、牢から出してもらえた。とりあえず、な」
「そう……。よかった。食事もちゃんとさせてもらえたよね?」
その言葉に、リセルの瞳がわずかに揺れた。
そして次の瞬間、握られていた手に、ぎゅっと力が込められる。
エリシアが驚いて見上げると、リセルは視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。
「……もう、使うな」
「え?」
「よくわかんないけど……体に負担がかかるんだろ? その力。そんなふうに……身を削ってまで、助けようとするな」
言葉の途中で、声が少しだけ震えた気がした。
エリシアは、その声がいつもより少しだけ硬いことに気がついた。低く、途中でわずかに詰まった。
「でも、リセルを助けたかったから。ナディルもまだ子どもなのに、すごく苦しそうで見てられなかった」
「……みんな、驚いてたよ。お前がいなかったら、助からなかったって。俺も、お前に助けられてばっかりだ。お前が、交渉してくれたってマルヤが言ってた。だけど――」
そこでリセルは言葉を切った。
「俺は、こんな風にお前に苦しんでほしくない」
その時、扉が開く音がした。
「エリシア、目が覚めたの?」
柔らかい声がしてマルヤが薬草の入ったカゴを抱えて、入ってきた。
「リセル。肩の傷の包帯替えてあげるから、すぐそこの泉で水浴びでもしておいで。脚の方の傷は水に濡らしすぎないようにね。
それから、監視付きなんだって? 外でナイラとカイネルが待機してるから、連れてってもらうといいよ」
「監視付きって?」
エリシアが目を丸くしてマルヤを見る。
次にリセルへ顔を向けると、当の本人は困ったように肩をすくめた。
代わりにマルヤが答えた。
「この郷は慎重なのよ。まだリセルの力に警戒してるの。ナイラ、カイネル! 入って!」
マルヤが小屋の外の二人に呼びかけた。
すると、長い黒髪をきっちり三つ編みにした無表情の戦士と、栗色の短髪で、快活な印象の戦士が入ってきた。二人ともまだ若い戦士だったが、隙が感じられない。
「リセルを泉に案内してあげて。そのあと、包帯を替えるから」
「マルヤ、私達は監視であって案内人じゃないわ」
黒髪の戦士は、にこりともせずに淡々と言った。端正な目元に暗い影が落ちる。
「そんなこと言わないで。さぁさ、私はエリシアや他の患者の手当があるんだから、二人とも、お願いね」
ナイラは眉をひそめたが、それは一瞬のことだった。
「着いて来て」
そういうと、踵を返した。
リセルはカイネルに促されて、扉に向かうもエリシアを振り返って言った。
「ちゃんと休んどけよ」
エリシアは小さくうなづいた。
「リセル、これよかったら。息子のだからちょっとだけ大きいかも知れないけど、あったかいわよ」
そう言ってマルヤはリセルに着替えを渡してくれた。
* * *
前方にナイラ。やや後方にカイネル。
リセルを挟む形で、歩幅を合わせる。
どちらかが一歩速めれば、もう一方がわずかに位置を調整する。
視線は動かない。
逃げ道だけが、きれいに塞がれていた。
ナイラの背中を追いながら、村の道を歩く。
朝のひんやりとした空気に土の匂いが混ざっていた。
石と木でできた家々の間を抜けていくと、薪を割る乾いた音が聞こえる。
振り下ろされた斧の音と、ぱきんと響く薪の裂ける音。
家畜の世話をしている年配の男が、こちらを一瞥したが、何も言わずに視線を戻した。
炊事小屋の方からは、炭が燃える匂いが流れてきた。焦げかけた魚の匂いと、湯を沸かす鉄の匂いが混じる――朝の生活の匂い。どこかで鶏の声が聞こえた。
肩越しに感じる視線。物珍しそうな目、警戒する目――好奇心を隠さない子供の目。まるで、見せ物にでもなった気がして居心地が悪かった。
ナイラは相変わらず何も言わず、足音だけを残して進んでいく。
彼女の細く編み込まれた三つ編みが、光を受けて揺れていた。
村を抜けると、木々の影が濃くなる。
木漏れ日が葉の隙間から細い線となって差し込み、足元の土に光の模様を描いている。
空気が一段ひんやりとする。
谷へ向かう坂を下りながら、岩肌の影が広がり、湿った苔の匂いが鼻をくすぐった。そして、遠くから川の流れる音が聞こえ始める。
「この先に、男が使う泉がある。私に覗きの趣味はないから、林にいる。この先はカイネルと行ってきて」
そう言って、ナイラは二人を見送った。
奥に向かうと、岩の影に小さな泉があった。
川から別れた清流がそこに流れ込み、澄んだ水が静かに音を立てていた。
「じゃあ、俺もそこにいるから。水は結構冷たい。風邪ひくなよ」
カイネルはそう言って近くの木に背を預け、腕を組んで空を見上げた。
リセルはちらりと彼を見たが、やがて静かに服を脱ぎ、泉に入った。
肌に触れた水の冷たさに、思わず息を呑む。
それでも顔を洗うと、目の奥まで冴えるような感覚があった。
「あの火、どうやって出したんだ?」
ふいに声がかかる。カイネルは相変わらず木に寄りかかったまま、空を見ていた。
「……知らない。勝手に出た」
「ふーん」
少し間を置いてから、カイネルは呟くように言った。
「でも、俺は見たよ。あのとき。お前と獣の間に火の壁が立ち上がって……後ろの女の子を守るみたいに広がった。
所構わず焼くような、そんな火には見えなかった」
リセルは黙って水をすくい、首筋をぬぐった。
「あのとき居合わせた班の奴らはびびってた。昔、火の民が郷で炎を暴走させたのを見た奴は尚更だ。けど俺には、あの火はただ、守っているように見えた」
その言葉に、リセルはふと彼の方を見た。
けれどカイネルは目を合わせず、つぶやくように続けた。
「まぁ、どちらにしても、お前もあの子も、もうここからは出られない。この郷はそういう場所なんだ」
リセルの動きが止まる。
「どういうことだ?」
「外から来た者は、生き残ってもここで生きるしかない。俺たちに見つかった時点で、ここで生きるか、処分されるかしか選択肢がないってことだ」
カイネルはそれがまるで当たり前のことのように言った。彼にとっては説明に過ぎなかったのかもしれない。
しかし、リセルの中には静かに冷たい水が落ちたような感覚があった。
「……ずいぶん乱暴な掟だな」
「そう思うか? それでも、この郷ではそれが当たり前だ」
カイネルの声は自嘲気味な響きがあった。
ただ、どこか遠くを見るような口調だった。
リセルは黙って泉に手を沈め、水面を見つめた。
冷たい水の中に、自分の輪郭がぼやけて揺れていた。
(出られないってどういうことだ?)
生かすか、処分か。それが選択肢だと?
そんなのは、選択とは呼べない――。
村人たちは穏やかそうに見える。でも、戦士の監視がついている。
命をすぐに奪われることはない……それでも、静かに柵の中に閉じ込められていく。
それでは、石の牢と何が違う。
冷たい水が心までひんやりと浸透してきた。まるで、この郷にただよう見えない霧のように。
霧が晴れないのは、道がないからじゃない。
――出ることを、最初から許されていないからだ。
* * *
水浴びを終えると、リセルとカイネルは村の方へと向かった。
木の影から、音もなくナイラが姿を表した。
「終わった? じゃあマルヤのとこに戻ろうか」
ナイラはそう言って先に立ち、リセルは黙ってその背中について歩き出した。
カイネルは変わらず、無言で後方を歩いてくる。
しばらく歩いたあと、ナイラがふいに肩越しに振り返った。
「さっきより、顔が強ばってるね」
その口調は軽いようでいて、どこか探るような響きがあった。
「カイネルが何を言ったかは知らないけど……逃げようなんて、思わないでね。それに、一度受け入れられたら、ここから出て行きたいなんて、そうそう思わない。
この郷には、もともと逃れ民だった人がたくさんいる」
ナイラは静かに言った。
「みんな、行く場所がなくて、ここに流れ着いた。……私の祖父も、そうだった」
リセルは答えず、歩みを進める。
「エリシアって子が助けたナディルもね。物心つく前に、ここに来た。カイラの集落から逃げてきた人たちの、生き残りだ」
リセルがわずかに足を止める。
「……入ったら出られないって聞いた。どういうことだ?」
「そのままの意味よ」
ナイラは立ち止まり、振り返った。
「この郷は、外からは知られていない。私たちは郷から麓に人を出さない。そうやって、郷を守ってきた」
そのまま、じろりとリセルを冷たく見た。
「あんたみたいに、“火を出す”奴が来たのは、十五年ぶりだけどね」
一瞬、足が止まりかけたが――何も言わずに歩き出す。
後ろからカイネルの声が届いた。
「……だからこそ、警戒してるんだ」
リセルは振り向かず、低く呟いた。
「そいつは……何をした?」
ふたりは沈黙した。
ナイラの目が、わずかに陰る。
やがて、ナイラは足を止め、リセルのほうにまっすぐ視線を向けた。
「郷の一部を焼いた。……そして、自分の出した炎に飲まれて、消えた」
その言葉に、リセルは思わず息を呑んだ。
あのとき、気づけば炎が立ち上がっていた。
自分たちの周りを囲むように。
雪原は焼け、黒く斑になった。
あのときも、湧き上がった。
怒りと、悲しみと――そして、恐怖。
感情が炎にのまれていく。
自分が消えてしまう。
輪郭が、ぼやけていく。
ただ身がすくんだ。
――あの日。
急に、氷を飲み込んだみたいに芯から冷えていく気がした。
でも、一つだけ言える。
「……俺は、違う」
その言葉に、ナイラの瞳が細くなる。
「口だけなら、何とでも言える」
リセルは言葉に詰まり、ふいに視線を逸らした。
胸の奥に、得体の知れないざらつきが広がっていく。
ナイラは歩き出し、言い捨てた。
「だから、しばらくは見てる。あんたが“災い”か――ただの逃れ民か」
後ろをついてくるカイネルの足音が、土を踏む音に混ざって響いた。




