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【第一幕・完】灯火の誓い〜炎を宿す少年は、名を奪われた少女と雪の大陸を逃げる〜  作者: 水瀬 理音
第三章 風を抱く郷(前編)― 灯火に揺れる

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第十八話 見えない柵

 エリシアは、遠くで水の流れるような音を聞いた気がした。

 どこかで鳥がさえずっていた。体が、暖かいものに包まれている。


 ふわりとした感覚。


 ゆっくりと目を開けると、視界の隅に誰かの姿があった。椅子に座ったまま、眠っているようだった。

 無造作な橙色がかった赤い髪が、額に影を落としている。俯いた横顔。まつ毛が意外と長い。

 温かい手が、自分の手を握っている。

「……リセル?」


 エリシアの小さな声に、俯いていたリセルがぴくりと反応し、顔を上げた。

 無言でじっと見つめたあと、何か言いたそうに唇がわずかに震えたが、また口を閉じた。

 エリシアはまだぼんやりとした頭で曖昧に笑った。

「あれ、ナディルは……大丈夫だったの? リセルは牢から出してもらえたの?」


「ナディルって見習いの子は無事だ。隣の小屋でまだ安静にしてる。俺は、牢から出してもらえた。とりあえず、な」

「そう……。よかった。食事もちゃんとさせてもらえたよね?」

 その言葉に、リセルの瞳がわずかに揺れた。

 そして次の瞬間、握られていた手に、ぎゅっと力が込められる。


 エリシアが驚いて見上げると、リセルは視線を落としたまま、ぽつりと呟いた。

「……もう、使うな」

「え?」

「よくわかんないけど……体に負担がかかるんだろ? その力。そんなふうに……身を削ってまで、助けようとするな」

 言葉の途中で、声が少しだけ震えた気がした。


 エリシアは、その声がいつもより少しだけ硬いことに気がついた。低く、途中でわずかに詰まった。

「でも、リセルを助けたかったから。ナディルもまだ子どもなのに、すごく苦しそうで見てられなかった」

「……みんな、驚いてたよ。お前がいなかったら、助からなかったって。俺も、お前に助けられてばっかりだ。お前が、交渉してくれたってマルヤが言ってた。だけど――」


 そこでリセルは言葉を切った。

「俺は、こんな風にお前に苦しんでほしくない」

 その時、扉が開く音がした。

「エリシア、目が覚めたの?」

 柔らかい声がしてマルヤが薬草の入ったカゴを抱えて、入ってきた。

「リセル。肩の傷の包帯替えてあげるから、すぐそこの泉で水浴びでもしておいで。脚の方の傷は水に濡らしすぎないようにね。

 それから、監視付きなんだって? 外でナイラとカイネルが待機してるから、連れてってもらうといいよ」


「監視付きって?」

 エリシアが目を丸くしてマルヤを見る。

 次にリセルへ顔を向けると、当の本人は困ったように肩をすくめた。

 代わりにマルヤが答えた。


「この郷は慎重なのよ。まだリセルの力に警戒してるの。ナイラ、カイネル! 入って!」

 マルヤが小屋の外の二人に呼びかけた。

 すると、長い黒髪をきっちり三つ編みにした無表情の戦士と、栗色の短髪で、快活な印象の戦士が入ってきた。二人ともまだ若い戦士だったが、隙が感じられない。


「リセルを泉に案内してあげて。そのあと、包帯を替えるから」

「マルヤ、私達は監視であって案内人じゃないわ」

 黒髪の戦士は、にこりともせずに淡々と言った。端正な目元に暗い影が落ちる。


「そんなこと言わないで。さぁさ、私はエリシアや他の患者の手当があるんだから、二人とも、お願いね」

 ナイラは眉をひそめたが、それは一瞬のことだった。

「着いて来て」

 そういうと、踵を返した。


 リセルはカイネルに促されて、扉に向かうもエリシアを振り返って言った。

「ちゃんと休んどけよ」

 エリシアは小さくうなづいた。

「リセル、これよかったら。息子のだからちょっとだけ大きいかも知れないけど、あったかいわよ」

 そう言ってマルヤはリセルに着替えを渡してくれた。


 * * *


 前方にナイラ。やや後方にカイネル。

 リセルを挟む形で、歩幅を合わせる。

 どちらかが一歩速めれば、もう一方がわずかに位置を調整する。

 視線は動かない。

 逃げ道だけが、きれいに塞がれていた。


 ナイラの背中を追いながら、村の道を歩く。

 朝のひんやりとした空気に土の匂いが混ざっていた。


 石と木でできた家々の間を抜けていくと、薪を割る乾いた音が聞こえる。

 振り下ろされた斧の音と、ぱきんと響く薪の裂ける音。

 家畜の世話をしている年配の男が、こちらを一瞥したが、何も言わずに視線を戻した。


 炊事小屋の方からは、炭が燃える匂いが流れてきた。焦げかけた魚の匂いと、湯を沸かす鉄の匂いが混じる――朝の生活の匂い。どこかで鶏の声が聞こえた。

 肩越しに感じる視線。物珍しそうな目、警戒する目――好奇心を隠さない子供の目。まるで、見せ物にでもなった気がして居心地が悪かった。


 ナイラは相変わらず何も言わず、足音だけを残して進んでいく。

 彼女の細く編み込まれた三つ編みが、光を受けて揺れていた。

 村を抜けると、木々の影が濃くなる。

 木漏れ日が葉の隙間から細い線となって差し込み、足元の土に光の模様を描いている。


 空気が一段ひんやりとする。

 谷へ向かう坂を下りながら、岩肌の影が広がり、湿った苔の匂いが鼻をくすぐった。そして、遠くから川の流れる音が聞こえ始める。

「この先に、男が使う泉がある。私に覗きの趣味はないから、林にいる。この先はカイネルと行ってきて」

 そう言って、ナイラは二人を見送った。


 奥に向かうと、岩の影に小さな泉があった。

 川から別れた清流がそこに流れ込み、澄んだ水が静かに音を立てていた。

「じゃあ、俺もそこにいるから。水は結構冷たい。風邪ひくなよ」

 カイネルはそう言って近くの木に背を預け、腕を組んで空を見上げた。


 リセルはちらりと彼を見たが、やがて静かに服を脱ぎ、泉に入った。

 肌に触れた水の冷たさに、思わず息を呑む。

 それでも顔を洗うと、目の奥まで冴えるような感覚があった。 

「あの火、どうやって出したんだ?」

 ふいに声がかかる。カイネルは相変わらず木に寄りかかったまま、空を見ていた。


「……知らない。勝手に出た」

「ふーん」

 少し間を置いてから、カイネルは呟くように言った。

「でも、俺は見たよ。あのとき。お前と獣の間に火の壁が立ち上がって……後ろの女の子を守るみたいに広がった。

 所構わず焼くような、そんな火には見えなかった」

 リセルは黙って水をすくい、首筋をぬぐった。


「あのとき居合わせた班の奴らはびびってた。昔、火の民が郷で炎を暴走させたのを見た奴は尚更だ。けど俺には、あの火はただ、守っているように見えた」

 その言葉に、リセルはふと彼の方を見た。

 けれどカイネルは目を合わせず、つぶやくように続けた。


「まぁ、どちらにしても、お前もあの子も、もうここからは出られない。この郷はそういう場所なんだ」

 リセルの動きが止まる。

「どういうことだ?」


「外から来た者は、生き残ってもここで生きるしかない。俺たちに見つかった時点で、ここで生きるか、処分されるかしか選択肢がないってことだ」

 カイネルはそれがまるで当たり前のことのように言った。彼にとっては説明に過ぎなかったのかもしれない。


 しかし、リセルの中には静かに冷たい水が落ちたような感覚があった。

「……ずいぶん乱暴な掟だな」

「そう思うか? それでも、この郷ではそれが当たり前だ」

 カイネルの声は自嘲気味な響きがあった。

 ただ、どこか遠くを見るような口調だった。


 リセルは黙って泉に手を沈め、水面を見つめた。

 冷たい水の中に、自分の輪郭がぼやけて揺れていた。

(出られないってどういうことだ?) 

 生かすか、処分か。それが選択肢だと?

 そんなのは、選択とは呼べない――。


 村人たちは穏やかそうに見える。でも、戦士の監視がついている。

 命をすぐに奪われることはない……それでも、静かに柵の中に閉じ込められていく。

 それでは、石の牢と何が違う。

 冷たい水が心までひんやりと浸透してきた。まるで、この郷にただよう見えない霧のように。


 霧が晴れないのは、道がないからじゃない。

 ――出ることを、最初から許されていないからだ。


 * * *


 水浴びを終えると、リセルとカイネルは村の方へと向かった。

 木の影から、音もなくナイラが姿を表した。

「終わった? じゃあマルヤのとこに戻ろうか」

 ナイラはそう言って先に立ち、リセルは黙ってその背中について歩き出した。

 カイネルは変わらず、無言で後方を歩いてくる。

 しばらく歩いたあと、ナイラがふいに肩越しに振り返った。


「さっきより、顔が強ばってるね」

 その口調は軽いようでいて、どこか探るような響きがあった。

「カイネルが何を言ったかは知らないけど……逃げようなんて、思わないでね。それに、一度受け入れられたら、ここから出て行きたいなんて、そうそう思わない。

 この郷には、もともとのがびとだった人がたくさんいる」


 ナイラは静かに言った。

「みんな、行く場所がなくて、ここに流れ着いた。……私の祖父も、そうだった」

 リセルは答えず、歩みを進める。

「エリシアって子が助けたナディルもね。物心つく前に、ここに来た。カイラの集落から逃げてきた人たちの、生き残りだ」


 リセルがわずかに足を止める。

「……入ったら出られないって聞いた。どういうことだ?」

「そのままの意味よ」

 ナイラは立ち止まり、振り返った。

「この郷は、外からは知られていない。私たちは郷から麓に人を出さない。そうやって、郷を守ってきた」


 そのまま、じろりとリセルを冷たく見た。

「あんたみたいに、“火を出す”奴が来たのは、十五年ぶりだけどね」

 一瞬、足が止まりかけたが――何も言わずに歩き出す。

 後ろからカイネルの声が届いた。

「……だからこそ、警戒してるんだ」


 リセルは振り向かず、低く呟いた。

「そいつは……何をした?」

 ふたりは沈黙した。

 ナイラの目が、わずかに陰る。

 やがて、ナイラは足を止め、リセルのほうにまっすぐ視線を向けた。

「郷の一部を焼いた。……そして、自分の出した炎に飲まれて、消えた」


 その言葉に、リセルは思わず息を呑んだ。

 あのとき、気づけば炎が立ち上がっていた。

 自分たちの周りを囲むように。

 雪原は焼け、黒く斑になった。


 あのときも、湧き上がった。

 怒りと、悲しみと――そして、恐怖。


 感情が炎にのまれていく。

 自分が消えてしまう。

 輪郭が、ぼやけていく。


 ただ身がすくんだ。

 ――あの日。


 急に、氷を飲み込んだみたいに芯から冷えていく気がした。

 でも、一つだけ言える。

「……俺は、違う」

 その言葉に、ナイラの瞳が細くなる。

「口だけなら、何とでも言える」

 リセルは言葉に詰まり、ふいに視線を逸らした。


 胸の奥に、得体の知れないざらつきが広がっていく。

 ナイラは歩き出し、言い捨てた。

「だから、しばらくは見てる。あんたが“災い”か――ただの逃れ民か」


 後ろをついてくるカイネルの足音が、土を踏む音に混ざって響いた。



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