第十七話 癒しの代償
外に出ると、エリシアはマシュラの後に続いた。
前を歩く戦士は、エリシアより頭ひとつ分ほど背が高い。小柄に見えたのは、あの戦士たちの中にいたからだろう。
ふと視線を向けてきた金色の瞳が、エリシアを捉える。
口の端がわずかに上がった。
「あんた、やるね。見た目によらず肝が据わってた」
その笑みに、どこか親しみやすい空気がにじむ。さっきの静かな言葉とは違う印象に、エリシアは少し驚いた。
「私はマシュラ。よろしく」
「エリシアです」
マシュラは小さくうなずくと、それきり余計なことは言わず、前を向いた。
エリシアも黙って、その背を追った。
小屋が見えてくると、先を歩いていたマシュラが足を止めた。
その横で、マルヤが静かに口を開く。
「中にいるのはナディル。見習い狩人よ。昨日の訓練で蛇に噛まれて、昨夜までは落ち着いていたんだけど……今日になって急に悪くなって。今は、意識もないの」
声は落ち着いていたが、どこか焦りがにじんでいた。
「手は尽くしたわ。でも、私の用意したどの毒消しも効かなくて」
「私が一緒にいたのに、ナディルに悪いことをした」
マシュラが視線を落とした。
「とにかく、最善を尽くしましょう。フェルドが間に合うといいのだけど」
「あの、フェルドさんって……」
「フェルドはこの郷の癒し手よ。昔から、病も怪我も彼が治してきた。でも、最近はかなり無理がきかなくなってるの。だから、どうしてもって時にだけ頼ることになってる」
「癒し手……」
「エリシアを見て思ったの。もしかして同じ力なんじゃないかなって……。とにかく、一緒にみてちょうだい」
治癒小屋は、先ほどまでエリシアがいた小屋のすぐ隣だった。
扉を開けると、数人の患者が横たわっていた。包帯を巻いた戦士や、青白い顔の病人が寝かせられている。
その奥の寝台には、赤銅色の髪の十代半ばの少年が横たわっていた。
まだ幼さの残る顔が、強ばったまま動かない。額には汗がにじみ、閉じられたまぶたの下で、痛みをこらえるように眉がかすかに寄っている。唇はわずかに開いていて、苦しげな呼吸が続いていた。
その傍らには、白髪混じりの老人が座っており、心配そうにナディルの手を握っていた。
また、少し離れた場所では、若い男性が薬草を煎じている。
エリシアはその顔を見つめながら、不思議と胸の奥が疼くのを感じた。
狩人というにはまだ幼い顔つきで、余計に痛々しく映った。昔、村で仲良くしていた誰かを思い出したのかもしれない。
胸が痛んだ。
「ナディル……」
マシュラが寝台に駆け寄って膝をついた。
「私がついていながら、こんなことに……」
ナディルと呼ばれた少年には聞こえていなかった。ただ苦しそうな呼吸が続くだけだった。ナディルの横で手を握っていた老人が、ぽつりと言った。
「さっきまで、受け答えはできていたんだ。急に、苦しみだして……。手は尽くしたが、どうしたものか、マルヤ。
ナディルは……ナディルは儂の息子同然だ。なんとか助けられないか」
「……急に毒が回り出したんだと思う。トルマは十分よくやってくれたわ。でも、急がないと、毒が内臓まで回ったら、もうもたない。トルマ、この子は癒しの力があるエリシアだよ。見せてみてもいい?」
トルマは驚いたようにじっとエリシアを見つめた。しかし、やがて、頷いた。
エリシアは一瞬だけ躊躇した。
さっきは勢いで診ると言ってしまったけれど、癒しの力はリセルに使ったのが初めてで、まして毒に侵された患者を見たことはない。
リセルの全身を癒して倒れてしまったのだ。今度は毒を治せるだろうか。また治せたとして、どのくらい消耗するかは未知数だった。
――それでも
ナディルを見た瞬間、リセルを牢から出してもらうためという目的は、どこかへ消えていた。
目の前で苦しむ人を見たら放ってなどいられない。
――母が、そうだったように。
「……やってみます」
エリシアは大きく深呼吸して、ナディルの前に身を寄せた。
ナディルの右足には、膝下から包帯が巻かれていた。患部は布越しにも腫れているのがわかる。軽く触れると、わずかに呻くような息が漏れた。
――意識があるのか、それとも、ただ痛みに反応しただけなのか。
見ていられないほどの苦悶の表情に、エリシアの胸が締めつけられた。
エリシアは傷口に手をかざした。
柔らかな光の粒子が霧のように広がり、傷口を覆っていく。
体に満ちている泉のようなエネルギーが、急激にナディルの体へ流れ込んでいく。
エリシアは、思わず歯を食いしばった。あのときと同じだ。
リセルの傷を治したときも、傷の大きさに力が吸い取られるようだった。でもこれは想像以上だった。
もしかして、毒のほうが力を使うの?
一瞬、怯む。
だが、もう力の流出は止められない。乾いた砂に水が浸透するように、傷に溶け込んでいく。
「これは……驚いた。フェルドと同じ力だ」
トルマが感嘆の声を上げた。
マシュラも、マルヤもその場で息を呑んだ。
指先が震える。
体の力が抜け、エリシアはその場に膝を落とした。
これ以上はもう無理と思った瞬間、ナディルの傷口の腫れが引き始め、ナディルの表情が和らいだ。力が流れ出る感覚も弱まっていく。
毒で澱んだエネルギーの流れが、浄化されていく感覚がした。
エリシアの手のひらの光が少しずつ消えていく。
「……これでもう大丈夫」
エリシアの声は、掠れながらも確かな響きを持っていた。
ナディルの顔から、苦悶の色がゆっくりと消えていく。
眉間のしわがほぐれ、まつげがかすかに揺れた。
「……ナディル……?」
トルマが手を握ったまま呼びかけると、
ナディルはわずかにまぶたを動かした。
「……ん……」
かすかな声が漏れる。けれど、目はまだ開かない。
それでも、それだけで十分だった。
トルマは目を潤ませながら、ナディルの手を包み込んだ。
マシュラもほっとした顔をして微かに笑った。
「すごい……」
「エリシア……あなた……本当に……」
マルヤが目に涙を浮かべ声を詰まらせた。
そのとき。
扉の外でわずかな足音が止まった。
誰かが――静かに見守っていたのかもしれない。
けれど、エリシアの意識にはもうその気配すら届かなかった。
声も、ざわめきも、ゆっくりと遠ざかっていく。
(苦しい。めまいがする。頭が割れそう――)
それでも、エリシアは自分の中で誰かの笑顔を探していた。
思い浮かんだのは、まだ小さかった頃の母の笑顔。
誰かを癒すたびに、陽ざしのようにあたたかく笑っていた。
「よかったね」と言いながら、そっと頭を撫でる母の手。
(……母さん……)
次に浮かんだのは、リセルの顔。
どうして、出会ったばかりなのに、あんなに助けてくれるのってそう思ってた。
自分の身も投げ出して。いつも傷だらけにさせてしまって。
(……でも、そうか。みんなただ、誰かを――)
世界が傾いていく。何かを手渡した気がした。
光も、音も、やわらかな温もりも、すべてがゆっくりと遠ざかっていった。
最後に残ったのは、誰かの手が、自分の手を取ってくれたような感覚。
あたたかくて、優しかった。
その感触を抱いたまま、エリシアの意識は静かに沈んでいった。




