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【第一幕・完】灯火の誓い〜炎を宿す少年は、名を奪われた少女と雪の大陸を逃げる〜  作者: 水瀬 理音
第三章 風を抱く郷(前編)― 灯火に揺れる

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第十七話 癒しの代償

 外に出ると、エリシアはマシュラの後に続いた。

 前を歩く戦士は、エリシアより頭ひとつ分ほど背が高い。小柄に見えたのは、あの戦士たちの中にいたからだろう。

 ふと視線を向けてきた金色の瞳が、エリシアを捉える。


 口の端がわずかに上がった。

「あんた、やるね。見た目によらず肝が据わってた」

 その笑みに、どこか親しみやすい空気がにじむ。さっきの静かな言葉とは違う印象に、エリシアは少し驚いた。

「私はマシュラ。よろしく」

「エリシアです」


 マシュラは小さくうなずくと、それきり余計なことは言わず、前を向いた。

 エリシアも黙って、その背を追った。

 小屋が見えてくると、先を歩いていたマシュラが足を止めた。

 その横で、マルヤが静かに口を開く。


「中にいるのはナディル。見習い狩人よ。昨日の訓練で蛇に噛まれて、昨夜までは落ち着いていたんだけど……今日になって急に悪くなって。今は、意識もないの」

 声は落ち着いていたが、どこか焦りがにじんでいた。

「手は尽くしたわ。でも、私の用意したどの毒消しも効かなくて」

「私が一緒にいたのに、ナディルに悪いことをした」

 マシュラが視線を落とした。


「とにかく、最善を尽くしましょう。フェルドが間に合うといいのだけど」

「あの、フェルドさんって……」

「フェルドはこの郷の癒し手よ。昔から、病も怪我も彼が治してきた。でも、最近はかなり無理がきかなくなってるの。だから、どうしてもって時にだけ頼ることになってる」

「癒し手……」


「エリシアを見て思ったの。もしかして同じ力なんじゃないかなって……。とにかく、一緒にみてちょうだい」

 治癒小屋は、先ほどまでエリシアがいた小屋のすぐ隣だった。

 扉を開けると、数人の患者が横たわっていた。包帯を巻いた戦士や、青白い顔の病人が寝かせられている。


 その奥の寝台には、赤銅色の髪の十代半ばの少年が横たわっていた。

 まだ幼さの残る顔が、強ばったまま動かない。額には汗がにじみ、閉じられたまぶたの下で、痛みをこらえるように眉がかすかに寄っている。唇はわずかに開いていて、苦しげな呼吸が続いていた。


 その傍らには、白髪混じりの老人が座っており、心配そうにナディルの手を握っていた。

 また、少し離れた場所では、若い男性が薬草を煎じている。

 エリシアはその顔を見つめながら、不思議と胸の奥が疼くのを感じた。

 狩人というにはまだ幼い顔つきで、余計に痛々しく映った。昔、村で仲良くしていた誰かを思い出したのかもしれない。

 胸が痛んだ。


「ナディル……」

 マシュラが寝台に駆け寄って膝をついた。

「私がついていながら、こんなことに……」

 ナディルと呼ばれた少年には聞こえていなかった。ただ苦しそうな呼吸が続くだけだった。ナディルの横で手を握っていた老人が、ぽつりと言った。


「さっきまで、受け答えはできていたんだ。急に、苦しみだして……。手は尽くしたが、どうしたものか、マルヤ。

 ナディルは……ナディルは儂の息子同然だ。なんとか助けられないか」

「……急に毒が回り出したんだと思う。トルマは十分よくやってくれたわ。でも、急がないと、毒が内臓まで回ったら、もうもたない。トルマ、この子は癒しの力があるエリシアだよ。見せてみてもいい?」


 トルマは驚いたようにじっとエリシアを見つめた。しかし、やがて、頷いた。

 エリシアは一瞬だけ躊躇した。

 さっきは勢いで診ると言ってしまったけれど、癒しの力はリセルに使ったのが初めてで、まして毒に侵された患者を見たことはない。

 リセルの全身を癒して倒れてしまったのだ。今度は毒を治せるだろうか。また治せたとして、どのくらい消耗するかは未知数だった。


 ――それでも

 ナディルを見た瞬間、リセルを牢から出してもらうためという目的は、どこかへ消えていた。

 目の前で苦しむ人を見たら放ってなどいられない。

 ――母が、そうだったように。

「……やってみます」

 エリシアは大きく深呼吸して、ナディルの前に身を寄せた。

 ナディルの右足には、膝下から包帯が巻かれていた。患部は布越しにも腫れているのがわかる。軽く触れると、わずかに呻くような息が漏れた。


 ――意識があるのか、それとも、ただ痛みに反応しただけなのか。

 見ていられないほどの苦悶の表情に、エリシアの胸が締めつけられた。

 エリシアは傷口に手をかざした。

 柔らかな光の粒子が霧のように広がり、傷口を覆っていく。

 体に満ちている泉のようなエネルギーが、急激にナディルの体へ流れ込んでいく。

 エリシアは、思わず歯を食いしばった。あのときと同じだ。

 リセルの傷を治したときも、傷の大きさに力が吸い取られるようだった。でもこれは想像以上だった。


 もしかして、毒のほうが力を使うの?

 一瞬、怯む。

 だが、もう力の流出は止められない。乾いた砂に水が浸透するように、傷に溶け込んでいく。

「これは……驚いた。フェルドと同じ力だ」

 トルマが感嘆の声を上げた。

 マシュラも、マルヤもその場で息を呑んだ。


 指先が震える。

 体の力が抜け、エリシアはその場に膝を落とした。

 これ以上はもう無理と思った瞬間、ナディルの傷口の腫れが引き始め、ナディルの表情が和らいだ。力が流れ出る感覚も弱まっていく。

 毒で澱んだエネルギーの流れが、浄化されていく感覚がした。

 エリシアの手のひらの光が少しずつ消えていく。


「……これでもう大丈夫」

 エリシアの声は、掠れながらも確かな響きを持っていた。

 ナディルの顔から、苦悶の色がゆっくりと消えていく。

 眉間のしわがほぐれ、まつげがかすかに揺れた。


「……ナディル……?」

 トルマが手を握ったまま呼びかけると、

 ナディルはわずかにまぶたを動かした。

「……ん……」

 かすかな声が漏れる。けれど、目はまだ開かない。

 それでも、それだけで十分だった。


 トルマは目を潤ませながら、ナディルの手を包み込んだ。

 マシュラもほっとした顔をして微かに笑った。

「すごい……」

「エリシア……あなた……本当に……」

 マルヤが目に涙を浮かべ声を詰まらせた。


 そのとき。

 扉の外でわずかな足音が止まった。

 誰かが――静かに見守っていたのかもしれない。

 けれど、エリシアの意識にはもうその気配すら届かなかった。

 声も、ざわめきも、ゆっくりと遠ざかっていく。


(苦しい。めまいがする。頭が割れそう――)

 それでも、エリシアは自分の中で誰かの笑顔を探していた。

 思い浮かんだのは、まだ小さかった頃の母の笑顔。

 誰かを癒すたびに、陽ざしのようにあたたかく笑っていた。

「よかったね」と言いながら、そっと頭を撫でる母の手。

(……母さん……)


 次に浮かんだのは、リセルの顔。

 どうして、出会ったばかりなのに、あんなに助けてくれるのってそう思ってた。

 自分の身も投げ出して。いつも傷だらけにさせてしまって。


(……でも、そうか。みんなただ、誰かを――)


 世界が傾いていく。何かを手渡した気がした。

 光も、音も、やわらかな温もりも、すべてがゆっくりと遠ざかっていった。


 最後に残ったのは、誰かの手が、自分の手を取ってくれたような感覚。

 あたたかくて、優しかった。

 その感触を抱いたまま、エリシアの意識は静かに沈んでいった。


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