第一話 名もなき少女
石造りの冷たい聖堂。
いつものように、薄い礼服一枚で部屋に座らされ、祈りを捧げるよう言われていた。
祈りとは、何に。
ふと、笑いそうになった。
誰に祈れというのだろう。
故郷から遠く離れた、雪深いこのラファス王国の外縁にある小さな聖堂。その薄暗い部屋で、まるで存在すら許されないように閉じ込められて。声も届かず、息づかいすら凍るような静寂のなかで。
その答えは見えなかった。
祈りが届くのだとしたら、自分はとっくにここから自由になっている。
石壁の隙間から漏れ入る冷気に思わず身震いした。
いつまでこんなことを続けるの?
窓もない締め切られた部屋で、ほんの少し漏れ入る光に目を向けた。すると次第に、その光に混じって、煙が上がってきたのに気づいた。燻したような煙の匂い。
ふと、外が騒がしくなっているのに気がついた。叫び声や慌ただしく人が走る気配。
――おかしい。
聖堂の中では、静寂こそが常だった。回廊を走ることも、話し声を立てることも禁じられている。そんな場所に、今は人の足音とざわめきが響いている。
少しずつ大きくなっていく人の喧騒にただならぬ気配を感じて、彼女は木の扉に近づいて、耳を当てた。
「――逃げろ! 民が暴動を起こした! 聖堂に火が広がる前に!」
途切れ途切れに聞こえてくる叫び声が、そう告げていた。
(暴動? 火?)
彼女は息を呑んだ。
そんな、閉じ込められて出られないのに。
徐々に濃くなっていく煙の匂いに恐怖を感じた。
ここにいたら、危ない。頭の中で警鐘が鳴り響く――。
彼女は両手で板戸を叩き、声を限りに叫んだ。
「誰か――! ここを開けて! お願いだから!」
必死に叫んだが、外の騒がしさに、声はかき消されていった。扉の外は騒がしくなるばかりで、自分の声は何かに飲まれていくようだった。
どのくらい叫んでいたのだろう。喉が枯れて、もう、大声が出せない――。
石の隙間から煙がいよいよ充満して息苦しくなってきた。
煙に撒かれて、死んでしまう。
あの日、ただ、母といつものように畑で野菜を収穫していた。明るく揺れる麦畑の金色の絨毯。母の明るい笑顔が、脳裏をよぎった。
どうしてなの?
彼女は煙を吸い込んで咳き込んだ。そして、扉の前に膝をついて、うずくまった。
ここでは、自分の名前を名乗ることさえ許されなかった。
いつからか、本当の自分を、どこかに置き忘れてしまった気がしていた。
その時だった。
ガチャリ――という音と共に、扉が開いた。
驚いて見上げると、青ざめた顔をした中年の聖堂女がいた。
「逃げなさい。――あなたは、ここにいるべきじゃない。」
彼女の声は震えていて、その目は周りを神経質に見回していた。
「今なら、誰も気にしないわ。さぁ」
「でも、私は――」
「いいから、急いで!」
聖堂女は彼女の腕を掴みそっと引き上げた。
「でも、私がいなくなったら、あなたが罰を――」
「この騒ぎで、誰が鍵を開けたかなんてバレないわ。とにかく、行きなさい。裏の林から逃げて」
聖堂女は、それでも呆然とした顔で動かない少女に、ふいににっこりと笑った。
「あなたには、ちゃんと名前がある。もっと早くにこうするべきだった……」
「……ありがとう」
少女は聖堂の裏から、逃げ出した。暴動の声が渦巻くなか、彼女の檻を後にした――。
* * *
外に出ると、ひんやりとした空気に雪の匂いが混じっていた。
吐く息は白く、その白さごと、雪の匂いがふわりと自分を包み込むような感覚。
いつも聖堂の中で感じていた雪の微かな匂いが、今は全身を覆っている。
――ああ、外ってこんなに寒かったっけ。
走りながら、彼女はどこか冷静な頭でそう思った。
それでも、冷気の中には、雪解けの匂いが混じっていた。
春になると、微かな水の気配が風に混じる。
いくらイースが四大陸の中でもとびきり寒い土地でも――
『この匂いがすると、春が来たって感じがするね』
昔、母がかじかんだ手で野菜を洗いながらそう言って笑っていた。
寒さが少し和らぐ季節とはいえ、礼服一枚、薄布を纏っただけの体には、風が刺すように冷たかった。
逃げるときに煤けたその礼服も、どこかで擦れて裾が破れている。
だが、そんなことを気にする余裕はなかった。ただ、目の前の泥を含んだ雪の上を、ひたすらに踏み締めていた。一歩踏み出すごとに、布製の靴の中に冷たい雪が染み込む。指先の感覚がなくなっていく。それでも、ふらふらと、でも確実に歩みを踏み出した。薄れていく暴動の声、でも立ち止まったら、追いつかれてしまうかもしれない。
その恐怖が彼女を動かした。どのくらい歩いたのかわからない。気づけば、空は藍色に染まり、木々が影のように連なった林を歩いていた。
もう、だめ――。
彼女は雪の残る地面に膝をつき、それから体を横たえていた。
もう、歩けない。
風が木々を揺らして、不気味な音を立てた。
* * *
目を開けると、あたりは明るくなっていた。
あれ、そっか、私……逃げて、それで歩けなくなって。
気がついた時にはうつ伏せに倒れていた。
かろうじて顔を横にずらして、あたりをぼんやりと見た。
一晩、気を失ってしまっていたんだ。
でも、もう一歩も動けない。体の感覚がない。
頬を濡らす熱が、すぐに冷たい跡を残した。
私は、どこに行こうとしたのだろう。
もう帰る場所なんて、とっくの昔になくなったのに。
そして――母さんも、もう……。
ふと自分を呼ぶ柔らかい声が聞こえた気がした。
ああ、誰か、 もう一度だけでいい。
本当の私の名前を――
……誰か、お願い。




