第十五話 扉越しの再会
温かいお湯で体を拭き、衣服を着替えると、急に体が重くなった。
そのまま寝台に身を沈め、エリシアはいつのまにか眠っていた。
目を覚ますと、窓から西陽が差し込んでいた。体を動かしてみても、違和感はない。
干上がっていたはずの内側に、静かに力が戻ってきているのがわかった。
エリシアには、生まれつき癒しの力があった。
少しの傷なら、自分の体はすぐに癒える。体の奥から、淡い光が滲み出るような感覚があった。
それが、他人にも及ぶのだと知ったのは、幼い頃。
母が村の子どもの怪我を治したときだった。
朝霧のような、淡い光が傷にそっと差し込む。
傷が塞がると、子どもは驚いて顔を上げた。
母は、ふわりと微笑んだ。
「ほら、これでもう大丈夫。でも、内緒だからね」
そのときの母の笑顔を、今でもよく覚えている。
自分の体に限っては、傷が塞がるのは当たり前だった。
傷が治ることが聖堂に知られてからは、叩かれることも珍しくなかった。
どうせ治るのだからと、痛みさえ感じないもののように扱われた。
痕は残らない、と誰かが言った。
都合がいいと、彼らは笑った。
ただ、あのとき。
崖から落ちて、リセルが横で倒れているのを見た瞬間、気が動転して――
気づいたら、傷口に手をかざしていた。
やり方を知っていたわけじゃない。
ただ、母のあの面影を思い出して、夢中だった。
――癒しの力は、自分の中にある泉から、水を注ぐような感覚だった。
力は、相手の傷に吸い寄せられていく。
目の前のリセルに、目一杯それを注いだ瞬間、内側が、からりと乾いた。
次の瞬間、胃がひっくり返るような吐き気と、視界が白くなる眩暈がきて、そのまま倒れた。
――そこから先のことは、覚えていない。
目を覚ましたとき、自分が治癒の途中で意識を失ったのだと知った。
……矢傷は、きっとまだ残っていたはずだ。
リセルを、完全には治せていなかった。
それどころか、自分の力が本当に彼の傷を癒せていたのかどうかさえ、はっきりとはわからなかった。
倒れた自分を背負って歩いていたことは、マルヤから聞いた話だ。
マルヤは、ほかにも怪我人や病人を抱えているからと、薬草作りに出ていた。
* * *
窓から差す西陽をぼんやりと眺めていると、扉を叩く音が響いた。
小さな音だったので、聞き間違いなのか、それとも、どうぞと言うべきか悩み半身を起こす。
すると、遠慮がちに扉が開いて、小柄な少女がひょこっと顔を出した。
少女は十代前半に見えた。
華奢で可憐な印象の彼女は、柔らかい茶色の髪を後ろでゆるく束ね、草木色の衣服を身に纏っている。
瞳は、森の深緑のような落ち着いた光を放っていた。
おずおずと手に持った食事を見せながら、か細い声で言う。
「マルヤが、食事を持っていってあげてって。これ、私が作ったんだけど……気分はどう? 食べられそう?」
「ありがとう」
エリシアがぎこちなく微笑むと、
少女は緊張が解けたように、にっこりと笑った。
「私、シェマよ。あなたは?」
「エリシア。エリシアって呼んでね」
シェマは湯気の立つスープとパンが乗った盆を持って、エリシアの寝台のそばの椅子に座り、膝の上に置いた。
「あの、マルヤさんは?」
「マルヤなら、まだナディルの……郷の狩人見習いの子のところよ。昨日から熱が出てて、今日になって倒れたって聞いたの。それまでは話もできてたみたいだけど……急に悪くなったらしくて。私も心配で」
「そうなの……」
「だから、私が来たんだよ。私、火を起こすのと料理は得意だから、守り手たちみんなのご飯を作ることも多いんだ。この後も食事を届けに行くよ。そんなことよりも、さ、温かいうちにどうぞ」
そう言って人懐っこい顔で笑う。
エリシアはシェマの笑顔に、心が溶けていく気がした。
スプーンで掬って、スープを飲む。
じんわりと身体が温まる。
そこで、初めて自分が空腹だったことに気がついた。
「エリシアは、外から来たんだよね。この郷に人が来たのは久しぶりだよ。珍しい髪の色と瞳だね。灯りが差すと、紫も見えてすごく綺麗」
シェマという少女は、まるで壁を感じさせない、昔からの友達のような感覚さえした。
それは、エリシアに、故郷で仲が良かった少女たちを思わせた。
「ありがとう……シェマ。スープ、すごく美味しい。料理上手なんだね」
「ほんと? 嬉しい」
シェマは両手を胸の前で合わせて、嬉しそうに笑った。
「ねぇ、シェマ。リセル……私と一緒だった男の子は、今どうしてるかな?」
シェマの表情が、固まった。
「……まだ牢に入れられたままだよ」
「そんな……リセルは、何もしてないに」
シェマは、困ったように笑った。
「守り手たちが警戒してる。あの人は、火の民の末裔だって。森の中で炎を出して、獣を追い払ったって聞いたよ。だから、郷ではすぐに受け入れてあげられないみたいなの」
「リセルが、火の民? 火の民って、あの言い伝えのユーファの民のこと?」
火の民――ラファスでは、災いをもたらす者として恐れられている。
けれど。
リセルは、あのとき自分を守ってくれた。何も奪おうとしなかった。
「うん。エリシアとその人は、兄妹じゃないの? 火を操ることは知らなかったの?」
エリシアは首を横に振った。
「……わからない。でも、リセルは追われていた私を助けてくれた。
崖から落ちるときも私を庇って、大けがをしたの」
エリシアの頭に、傷だらけのリセルが浮かんだ。
ところどころ打ち、血を吐いていた。
エリシアの顔が暗くなるのを見て、シェマは励ますように、そっと背中に手を置いた。
「大丈夫よ。その人も、しばらく様子を見て、何もないってわかったら、きっと出してもらえるよ。私、後で見張りの守り手に様子を聞いてみるね」
「あの、シェマ……この後、もしかして牢にも食事を運ぶの?」
「うん。牢の見張りをしてるトヴァルのところにも届けるよ。そのリセルって人の分も、ちゃんと運ぶから安心してね」
エリシアは、シェマの手を取った。
「会ったばかりなのに、こんなお願いをしていいかわからないけど」
「うん?」
「食事を運ぶなら、私もリセルのところに連れて行って!」
「えっ! それは、できないよ。あなたはここで、休むように言われてる」
「お願い! 私、崖から落ちてから、まだ話もできてないの。リセルが無事かどうかだけでも、確かめたいの!」
困惑するシェマに、エリシアは嘆願した。
「何もしないって約束する。だから、せめて、扉越しでもいいから話をさせて」
エリシアの熱心な様子に、シェマはついに折れた。
「わかった。でも、私にできるのは牢まで一緒に行くことだけだよ。そこからは、自分で話せる?」
少し間を置いて、続ける。
「みんな気が立ってたから、怖い思いするかも……特に、トヴァルはちょっと……。私は怒られたことがあるから、怖くて……」
シェマは何かを思い浮かべたのか、身震いした。
「連れてってくれるだけでいい。あとは私が話すから」
エリシアは、まっすぐにシェマを見て言った。
シェマは、その気迫に押されて、うなずいた。
* * *
シェマが食事の入った籠を運び、エリシアはその後ろを追った。
あたりは日が落ち、薄暗い森の中に不気味に石牢の輪郭が浮かび上がる。
(こんなところに閉じ込められてるなんて)
エリシアの中で、何かが弾けた。
近づくと、石牢の前に、まるで風景の一部のように戦士が立っていた。
背が高く、がっしりとした体格。灰色の髪を短く刈り込み、無表情のままエリシアを見据える。岩のような重みを感じさせる佇まいだった。
まるでその場の空気ごと支配するような、無言の圧があった。
エリシアは、ごくりと唾を飲み込んだ。
少し前を行くシェマが、怯えるようにぎゅっと籠を抱きしめた。
「シェマ、何をしている?」
「あ、あの、えっと」
エリシアが一歩前に出ると、灰色の髪の戦士が向き直り、鋭い眼光を向けた。
「お前、どうしてここに来た。シェマ、お前が連れ出したのか?」
シェマはびくっと肩をこわばらせ、助けを求めるようにエリシアを見る。
エリシアは、シェマを庇うように腕を差し出した。
そして、毅然と言った。
「私が頼んだの。リセルと、話をさせて」
「だめだ。今は誰とも接触させるなと言われている」
近くで見ると、無表情で淡々とした態度の戦士は、余計に恐ろしく見えた。
精悍な顔立ちに、太くしっかりした眉が、頑固さを物語っているかのようだった。
「扉越しでいいの。少しだけ時間をください。崖から落ちて、ひどい怪我をしていたの。私は途中で意識を失って……彼の様子を知りたいんです」
「崖から落ちて、あの程度で済むはずがない。応急処置は終わっている」
戦士の声はあくまで冷静だったが、わずかに眉が動いたのを、エリシアは見逃さなかった。
「傷は……私が、癒したんです。全部は無理だったけど、できる限りのことはした。だから、無事なのか、知りたい。信じて下さい」
トヴァルは、しばらく黙ってエリシアを見据えた。
シェマが不安そうに、エリシアの袖を握る。
「癒した? よく分からんが……。様子を見るだけなら、いいだろう。ただし、扉越しに一言二言だけだ。すぐに戻れ」
それだけ言うと、トヴァルは踵を返して、ついてくるように促した。
「この扉から話せ。少しだけだ」
扉には、ほんの小さな小窓があった。その奥に、かすかな灯りが揺れている。
まだ、彼はここにいる。
胸の奥で、鼓動が跳ねた。
「リセル……!」
エリシアは扉に身を寄せ、声をかけた。
しばらく、返事はなかった。
リセルは――壁に背を預けて、膝を立てたまま座っていた。
一見すると、まだ眠っているか、気力が抜けているようにも見えた。
ぼんやりとしたオレンジ色の光に照らされ、その横顔はやつれていた。
それでも、最後に見た――蒼白な顔や、血に染まった口元よりは、ずっとましだった。
気になっていた脚の矢傷も、包帯が巻かれている。エリシアはほっと胸をなでおろした。
彼はエリシアに気づくと、脚をかばうようにゆっくりと立ち上がり、扉越しに身を寄せた。
「……エリシア! 無事か?」
「私は大丈夫。それよりも、リセルは?」
「俺も大丈夫だ。……目が覚めたら、体が動くようになってた。あれは、エリシアがやったんだろ?」
「……うん。でも、本当にできてるか、すごく不安だったの。初めて使ったから。それに、矢も抜いてあげられなくて――」
「いや……命拾いしたよ。お前のおかげだ」
「よかった。今は何ともない?」
「ああ。でも、エリシアが倒れたのは、きっとそのせいなんだろ?」
「……わからない。でも、あの時は必死で。気づいたら、気を失ってた」
「もう無茶しないでくれ……でも、エリシアが、無事でよかった」
エリシアは、はっと顔を上げた。
一瞬、泣いているように見えた。
いや、泣いてはいない。ただ、眉根を寄せていただけだ。
どうして、そんな顔をするんだろう。
崖から落ちて、大けがをしたのはリセルだ。
背負う必要のない“荷物”を背負って逃げて、矢傷を負って。
命を落としかけて。
今はこうして、牢に入れられて。
静かに、波立つように、何かが心の中であふれ出していた。
胸の奥で、何かがせり上がる。
聖堂に閉じ込められたときとも、違う。
――これは、怒りだ。
理不尽に罰を受けたときでさえ、こんなふうに、沸き立つような憤りを感じたことはなかった。
「おい! 時間だ」
後ろで、トヴァルが腕を組み、厳しい顔をしていた。
「……リセル。待ってて。絶対、ここから出してあげるから!」
「エリシア?」
リセルは聞き返した。
けれど、エリシアは硬い表情で、リセルにうなずいてみせるだけだった。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
(次は、私が――)




