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【第一幕・完】灯火の誓い〜炎を宿す少年は、名を奪われた少女と雪の大陸を逃げる〜  作者: 水瀬 理音
第二章 追跡の影

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挿話 越境前夜

※本話は一章最終話直後の挿話です。

 街道を抜け、検問所の手前にある小さな宿場町に立ち寄った。

 泥水に浸かった食料はもう使えない。外套も、替えが要った。

 山越えに備え、必要なものだけを手早く買いそろえる。


 宿屋の裏手で井戸水を借りるのに、銅貨を払った。

 湯は贅沢だ。国境付近の宿場町に長居するつもりもない。

 水桶で体を洗わせてもらうだけで十分だった。


 身支度を整え、二人は町を後にした。


 * * *


 町から少し離れた林の中で、リセルは獣毛の折り畳み簡易テント――〈ユルン〉を張った。獣毛は水を弾き、冷えた夜気を遮る。雪深いイースでも、今夜くらいなら、これで眠れる。

 枝を集め、火打石で火を起こす。


 エリシアは木の根に腰を下ろし、その様子をじっと見ていた。

 火が安定すると、石を積んで簡易の炉を作り、鍋を置く。

 水を張り、湯が沸くのを待つあいだに、短剣で燻製肉を切り、食べやすい大きさにする。乾燥きのこ、香草とともに、沸いた湯へ放り込んだ。


 旅では新鮮な野菜はあまり持ち歩けない。日持ちしないから、どうしても乾燥したものが多くなる。

 やがて湯気が立ち、匂いが変わった。

 乾いた食材でも、塩と香草で整えれば食えないことはない。


「なんでリセルは、なんでもできるの?」

 木の椀を渡しながら、リセルは一瞬エリシアを見た。

「火を起こして、食えるものを作る。普通だろ。……生きるために、やってるだけだ」

 言葉のあと、火をくべる手が一拍遅れた。


 エリシアは、少し身をすくめるようにして視線を落とした。

「……私、何もできないんだ。火も起こせないし、料理も……母さんが」

 何と言えばいいのか分からず、視線を鍋に戻す。

 少し考えて、記憶の底に残っていた、あいつの声をなぞった。


「……できないことは、やればできるようになる。やってみたいことがあるなら、それをやればいい」

 エリシアは、ぱっと顔を上げた。

「……そっか。そうだよね」

「ああ」

 短く答え、リセルもスープを口に運ぶ。

 熱が舌に触れ、思ったより悪くない。口元が緩んだ。


 調達してきたばかりの黒パンを切り、掌に乗せてエリシアに渡した。

 しばらくして、エリシアがぽつりと言った。

「リセルは、あんまり聞かないんだね」

 返事はしなかった。


 ――どうせ越境して、安全を見届けたら別れる。

 ずっと一緒にはいない。

 知って、どうする。


 パンをスープに浸して口に運ぶ。

 乾いたままだと、喉に引っかかる。

 この食べ方のほうが、落ち着く。


 口数の少ない自分が、もどかしく感じたのは久々だった。

 気の利いた言葉は、相変わらず浮かばない。

 だが、エリシアは困った風もなく、同じようにパンをスープに浸しながら笑った。

「……ありがとう。素性もわからない私を助けてくれて」


 リセルは目を逸らし、焚き火の火を見つめた。

「一文なしで彷徨わせたら、くたばるだろ。寝覚めが悪くなる。それだけだ」

 エリシアは、ほんの少しだけ声を出して笑った。


「それでも、ありがとう」

 スープの熱が胃の腑に落ちて、静かに広がる。

 エリシアの笑った顔を見ていると、どうしたらいいのか分からなくなった。


 人との距離の取り方を、忘れてしまっていたせいだ。


 ……それだけだ。


 結局、彼女の素性を、ひとつも聞かなかった。

 ただ、身支度を整え、スープを作った。

 それで十分だと思っていた。


 会話は少ない。

 けれど、気まずさも、なかった。


 エリシアが笑ったとき、胸の奥――体の真ん中あたりが、じんわりと温かくなる。


 どうしてそうなるのかは、分からなかった。

 だから、考えないことにした。


越境前の、短い夜でした。


次回更新より、三章に入ります。

2/5から、週3回(火・木・日)更新予定です。

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