挿話 越境前夜
※本話は一章最終話直後の挿話です。
街道を抜け、検問所の手前にある小さな宿場町に立ち寄った。
泥水に浸かった食料はもう使えない。外套も、替えが要った。
山越えに備え、必要なものだけを手早く買いそろえる。
宿屋の裏手で井戸水を借りるのに、銅貨を払った。
湯は贅沢だ。国境付近の宿場町に長居するつもりもない。
水桶で体を洗わせてもらうだけで十分だった。
身支度を整え、二人は町を後にした。
* * *
町から少し離れた林の中で、リセルは獣毛の折り畳み簡易テント――〈ユルン〉を張った。獣毛は水を弾き、冷えた夜気を遮る。雪深いイースでも、今夜くらいなら、これで眠れる。
枝を集め、火打石で火を起こす。
エリシアは木の根に腰を下ろし、その様子をじっと見ていた。
火が安定すると、石を積んで簡易の炉を作り、鍋を置く。
水を張り、湯が沸くのを待つあいだに、短剣で燻製肉を切り、食べやすい大きさにする。乾燥きのこ、香草とともに、沸いた湯へ放り込んだ。
旅では新鮮な野菜はあまり持ち歩けない。日持ちしないから、どうしても乾燥したものが多くなる。
やがて湯気が立ち、匂いが変わった。
乾いた食材でも、塩と香草で整えれば食えないことはない。
「なんでリセルは、なんでもできるの?」
木の椀を渡しながら、リセルは一瞬エリシアを見た。
「火を起こして、食えるものを作る。普通だろ。……生きるために、やってるだけだ」
言葉のあと、火をくべる手が一拍遅れた。
エリシアは、少し身をすくめるようにして視線を落とした。
「……私、何もできないんだ。火も起こせないし、料理も……母さんが」
何と言えばいいのか分からず、視線を鍋に戻す。
少し考えて、記憶の底に残っていた、あいつの声をなぞった。
「……できないことは、やればできるようになる。やってみたいことがあるなら、それをやればいい」
エリシアは、ぱっと顔を上げた。
「……そっか。そうだよね」
「ああ」
短く答え、リセルもスープを口に運ぶ。
熱が舌に触れ、思ったより悪くない。口元が緩んだ。
調達してきたばかりの黒パンを切り、掌に乗せてエリシアに渡した。
しばらくして、エリシアがぽつりと言った。
「リセルは、あんまり聞かないんだね」
返事はしなかった。
――どうせ越境して、安全を見届けたら別れる。
ずっと一緒にはいない。
知って、どうする。
パンをスープに浸して口に運ぶ。
乾いたままだと、喉に引っかかる。
この食べ方のほうが、落ち着く。
口数の少ない自分が、もどかしく感じたのは久々だった。
気の利いた言葉は、相変わらず浮かばない。
だが、エリシアは困った風もなく、同じようにパンをスープに浸しながら笑った。
「……ありがとう。素性もわからない私を助けてくれて」
リセルは目を逸らし、焚き火の火を見つめた。
「一文なしで彷徨わせたら、くたばるだろ。寝覚めが悪くなる。それだけだ」
エリシアは、ほんの少しだけ声を出して笑った。
「それでも、ありがとう」
スープの熱が胃の腑に落ちて、静かに広がる。
エリシアの笑った顔を見ていると、どうしたらいいのか分からなくなった。
人との距離の取り方を、忘れてしまっていたせいだ。
……それだけだ。
結局、彼女の素性を、ひとつも聞かなかった。
ただ、身支度を整え、スープを作った。
それで十分だと思っていた。
会話は少ない。
けれど、気まずさも、なかった。
エリシアが笑ったとき、胸の奥――体の真ん中あたりが、じんわりと温かくなる。
どうしてそうなるのかは、分からなかった。
だから、考えないことにした。
越境前の、短い夜でした。
次回更新より、三章に入ります。
2/5から、週3回(火・木・日)更新予定です。




