第十四話 逃れ民
――あの日の風の音が、今も耳に残っている。
地吹雪が舞い上がるような、激しい吹雪の夜だった。
〈オルグ〉と呼ばれる円形の天幕の中。獣毛に覆われたその内側で、中心で爆ぜる団火を囲むように、父と母がいた。
幼かった俺は、よく母さんの膝に寄りかかって、小さな炎がゆらゆらと揺れるのを見つめていた。まだ、〈カイラ〉と呼ばれる移動の民だった頃のことだ。
ユーファの民――火を操る者たち。
災いを呼ぶと恐れられ、ずっと昔にラファスに滅ぼされた。
けれど、父さんと母さんはこう言っていた。
『“守りの戦士”って呼ばれてたんだよ。紛争を止めて、人を守るために戦ってた――昔はね』
まるで誰かの記憶を借りているような、昔話のように――穏やかに。
それ以上は語られなかった。
ただひとつ。
赤髪と琥珀色の目は目立つから、隠すようにと――それだけは繰り返し言われていた。
あの日、イースガルド連盟の兵が、吹雪の夜に集落を襲った。
『隠れてろ』
そう言われて、俺はオルグの隙間に潜り込んだ。
目を閉じ、耳をふさいでも、火の爆ぜる音、悲鳴、剣の音――それだけは消えてくれなかった。
やがて、焼け落ちた集落から、ただ逃げるしかなかった。
……俺は、あの時、家族を見捨てて逃げたんだ――。
フィンが、俺を拾ってくれた。何も聞かず、ただ一緒にいてくれた。
もう追手は来ないと思った。あの場所で暮らせる。やっと、居場所を見つけた気がした。だけど――奴らは、またやってきた。
そして、今度はフィンが……俺をかばって倒れた。
その瞬間。
声は出なかった。ただ、自分の中で何かが張り裂けて音を立てるような感覚があった。
体が熱い。視界が赤く染まっていく。奥底で、堰を切ったように何かがあふれ出した。
兵士に。世界に。そして何より――自分自身に。止められなかった怒りと後悔が、声にならない叫びになって、焼け焦げた空へとぶつけられる。
身体が粉々になっていくような感覚。粒子になって、熱に飲み込まれていくような、不確かな感覚。炎が体から吹き出す。雪が蒸発し、焼け焦げた地面がむき出しになる。
黒い炎が、俺とフィンの周囲に立ち上がった。そこだけが、世界からぽっかりと切り離されたようだった。
兵士たちは「化け物だ」と叫んで逃げていった。
それから、ずっと一人だった。
フィンの「生きろ」という言葉だけを支えに、俺は逃げ続けた。
でも――俺は、化け物なんかじゃない。
どうして炎が出たのかも、わからなかった。
ただ、怖かった。炎になって、自分が消えてしまいそうだった。
誰にも見せられない。見せたら、全部壊れてしまうような気がして――。
――でも、今回だけは違った。
エリシアを守るために出した炎だった。
今度は、間に合った。
少しだけ、前に進めた気がした。
……ほんの少しだけ。あそこから、動き出せた気がしたんだ。
それなのに――。
胸の奥に、重たい氷が沈みこむ。
* * *
洞窟の中のようなしんと冷たい空気の中、目を覚ました。
肩の奥にじくりとした痛み。肌にまとわりつく、こもった湿気。
目を上げると、石造りの天井がぼんやりと見えた。
どこかで水が滴る音がして、鉄と苔の匂いが鼻を刺した。
頭の奥で風の音がかすかに響いている――いや、それは隙間風のヒューヒューという音だった。
ああ――ここは、牢だ。
後ろ手に縛られた両手には、厚手の革の拘束具。木の椅子に座らされたまま、さらに上からもきつく縛られている。射られた肩の矢は抜かれ、包帯が巻かれていた。脚の傷も、止血されている。気を失っている間に、手当てだけはされたらしい。
ぼんやりと霞んでいた意識が、少しずつ輪郭を取り戻す。ふいに、抱き上げられる直前のエリシアの蒼白な顔が、脳裏をかすめた。
「エリシア……!」
リセルは縛られたまま、体を反射的に動かした。
ガタン、と椅子が傾く。そのままバランスを崩し、椅子ごと横倒しになる。頬を石にしたたか打ちつけ、呻きながらもがいたが、荒縄の拘束では起き上がることもできなかった。
「……くそ」
そのとき、扉の向こうで足音が止まり、錠の外れる音がした。
きぃ、と軋む音とともに扉が開く。
こげ茶色の無造作な短髪の男が、顔をのぞかせた。
少しの間があって、呆れとも苦笑ともつかない声が返ってくる。
「……何やってんだ、お前」
リセルは返事ができず、石の床に転がったまま、ただ睨み返すしかなかった。
* * *
「寝てる間に椅子に座ってりゃあ、そりゃあ、そうなるわな」
男は呆れたように言いながら、転がったリセルを椅子ごとそっと起こした。その手は意外に丁寧で、肩の傷に負担がかからないように支えている。
「……ちょっと矢じりの薬の加減、間違ったかもな。なかなか起きないから、どうしたもんかと思ってたとこだ。――まあ、あれ、熊用の矢だしな。効きすぎたか?」
リセルは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに問いを返す。
「……ここは、どこなんだ?」
「質問には答えられない。あとで俺たちの戦士長が来る。その人の問いに、まずお前が答える番だ」
リセルは唇を噛んだ。
「……俺と一緒にいた子は、無事なのか?」
男は頭をかきながら、やれやれと言わんばかりに言う。
「あの子は別の場所にいる。もう何も聞くな。俺は見張りを頼まれただけだ」
「あの子に何かしたら、許さない」
「――炎でも出すのか?」
男は肩をすくめるだけで、まったく取り合わなかった。
その言葉が、胸の奥の何かを、無理やりこじ開けるように突き刺さった。
リセルはゆっくりと顔を上げ、男を睨みながら言った。
「そんなことは、しない。でも、あの子に何かしたら、絶対に許さない」
男は一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。
「ふーん。大事なんだな」
からかいにも取れる口調だったが、どこか感心しているようにも聞こえた。
沈黙が落ちる。
視線を交わしたまま、二人は動かない。リセルはそっと拳を握りしめた。
そのとき、鉄扉が軋んで開く音が響いた。
粗野な革鎧をまとった戦士たちが数人、無言で中に入ってくる。背格好や雰囲気はまちまちだ。ひとり、切れ長の目をした戦士がリセルを一瞥し、わずかに眉をひそめる。肩からこぼれた黒髪を、乱暴に払いのけた。
もう一人の小柄な戦士は、リセルの腕にかけられた縄に目をとめ、束ねた髪の影が肩に落ちるのも構わず、何かを言いかけたが、唇を引き結んで黙り込んだ。一団の中で先頭に立ったのは、大柄な男だった。
「ライハン、また余計なことを言っていないだろうな」
低く、よく通る声だった。意識を失う直前に聞いた声――。
黒髪、左頬の深い古傷。
「信用ないな、ヴァシュ。今、目を覚ましたとこだよ」
軽口をたたく男が苦笑いを浮かべ、肩をすくめて振り返る。
「ガルザ。こいつは森で炎を出していた。危険と判断し、拘束してある」
ヴァシュは隣に立つ男に言った。
ガルザ――と呼ばれた男は、明らかにこの場を仕切る戦士長だった。
四十代ほど。短く整えた茶髪を後ろに流し、険しい顔の額には深い古傷が刻まれている。
「外から人が入ってきたのは久しぶりだな……それも、“火の民”の末裔とは」
他の戦士たちは壁際に立ち、ガルザはリセルの前に椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「で――お前はどこから入ってきた?」
腕を組み、真正面からリセルを見据える。その視線だけで、押し潰されそうな威圧感があった。
「……崖から落ちた」
「崖から、落ちた?」
ガルザは目を細める。
「だが、傷は矢傷だけのようだがな」
「それは……」
エリシアが――たぶん、癒してくれた。
気を失っていたはずなのに、目を覚ましたときには、血を吐いたほどの痛みも、打ちつけた体の傷も、どこにもなかった。
ただ、兵士に放たれた矢は、まだ脚に刺さったままだった。それだけが、手つかずのまま残っていた。
自然に治るはずがない。誰かが――彼女が、癒したとしか思えなかった。
けれど、彼女はその力のことを、誰にも話したがらないように見えた。
だから、自分がここで言うべきことじゃない。
軽々しく、彼女のことを口にしていい場面じゃない――そう思った。
「言いたくないなら、それでもいい。では――お前たちは何者だ」
「ただの放浪者だ」
「ただの放浪者が、炎を操るのか?」
ガルザは顎に手を当てて、じっとリセルを見つめた。
「その髪、その目――どう見てもユーファの特徴だろう」
その言葉に、リセルはあのときの感覚を思い出した。
崖を転がり落ちたとき、抱えたエリシアを守るので精一杯で――帽子はいつの間にか風に吹き飛んでいた。
旅の荷も、ユルンも、バラバラに砕けた。
守れたものは、ひとつだけだった。
胸にしがみついていた、あの小さな体だけ。
今さら隠し通せるわけがない。
――もう、何も隠すものは残っていない。
背筋に冷たいものが走った。
「だったらどうする? どっかの国に突き出すか?」
「冗談じゃない。あんな連中に関わる気はない。俺たちは北にも南にも関わりたくない」
ライハンが横で肩をすくめた。
「……どういうことだ? ここはヴェルナじゃないのか?」
男たちは沈黙した。やがて、ガルザが口を開いた。
「知る必要はない。火を操るなら、ここから出すわけにはいかん」
「俺には、操るほどの力はない」
「なおさら危険だな。制御できない力ほど、暴発するものだ」
「……」
「お前をどうするかは、こっちで決める。それまでは、ここにいてもらう」
ガルザの言葉に、リセルは押し黙った。
肩に残る痛みと、焦燥が交錯する。
それでも――言わずにはいられなかった。
「……あの子は、どうなった?」
ガルザはしばし黙ってリセルを見つめ、やがて小さく息をついた。
「あの娘は、別のところにいる」
「エリシアは、ユーファの末裔じゃない。危険じゃない。ちゃんと、手当してやってくれ」
「……背負って歩いていたそうだな。兄妹か?」
「違う。けど――」
「逃れ民か」
「逃れ、びと?」
「俺たちの言い方だ。国に追われたもの、国を捨てた者。その総称だ。ここは、国境の狭間にある。そういう奴らが、よく流れ着く」
ライハンが両手を頭の後ろで組み、にやりと笑った。
「お前たちも、そうだったんじゃないのか?」
「……逃れ民……」
「ここでは、兵士と、危険因子は排除される。お前がどちらか、見極めさせてもらう。それまでは、ここにいろ」
ガルザは立ち上がった。それを合図に、戦士たちは牢を後にした。
残ったライハンが、黙って縄を解いた。
「しばらくここにいてもらうが、縄はほどいといてやる。だが、覚えておけ。逃亡者に待っているのは、死だけだ」
「……エリシアは、助けてくれるんだろ?」
「あの子は、エリシアっていうのか。……まぁそれも、お前次第だな」
そう言い残し、ライハンも扉の向こうへ去っていった。
錠の閉まる音が、石の壁に乾いた音を残す。
すぐに隙間風が頬を撫で、その冷たさが、胸の奥までじわりと染みていった。
* * *
まぶたの裏に、やわらかな灯りが差している気がした。遠くで、今にも消えそうな小さな灯が、ゆらゆらと揺れている。弱々しくても、たしかにそこにある光――。その光に意識が引き寄せられるように、エリシアはぼんやりとまぶたを開けた。
誰かのやさしい手が、温かい湯で髪を洗ってくれていた。心地よくて、体の力がゆっくり抜けていく気がした。洗い終わると、布でそっと髪をぬぐい、次に濡れた布で体を拭いてくれる。湯気が頬を撫で、まぶたの奥まで、じんわりと温かさがしみ込んだ。
――昔、母に髪を洗ってもらったことがある。
あのときも、こんなふうに湯気に包まれながら、ほっとした。忘れかけていたけれど、たしかに、そんな記憶がある。
「……私」
「目が覚めた? 身体が泥だらけで、冷えていたからね。温かい湯で拭かせてもらっていたの。驚かせたかな。でも大丈夫、ここには女しかいないから、恥ずかしがることはないわ」
ふくよかで、上品な顔立ちの女性が、やさしく顔を拭きながら微笑んだ。
「……きっと、大変な思いをしてきたのね。ここには、そういう風にたどり着く人が、たまにいるのよ。……守り手たちは、目が覚めたら尋問するなんて言ってたけれど、こんなに弱ってる子に何を聞くっていうのかしらね」
その声は静かでやわらかい。けれど、どこか芯が通っていた。
「見ればわかる。ここに来るまで、ずいぶん苦労したのでしょう。……ゆっくり休みなさい。あとで、何か温かいものを食べましょうね」
その声に、胸がきゅっとなった。こんなふうにやさしく労われたのは、いつ以来だろう。
「それにしても驚いたわ。さっきまであった擦り傷や瘡蓋が、もうきれいになってる」
エリシアは息をのみ、顔をこわばらせた。
――見られた。
こんなふうに治っているのを見られたら、変だと思われる。
「ふふ、怯えなくていいのよ。この郷には、あなたみたいなのがもう一人いるの。初めてじゃないから」
「え……」
「フェルディエルっていう、年配の人がいるの。もう何十年も前からこの村にいてね……あなたと同じように、遠くから逃れてきた人よ。不思議な力がある人でね。その人は、自分の傷だけじゃなく、人の傷も治せちゃうのよ」
思わず目を丸くした。
そんな人が他にもいるなんて、考えたこともなかった。けれど、今はそれよりも、気になることがある。
「あの、私と一緒だった男の子は……リセルっていうの。リセルも怪我をしてたはずです。彼は、今どこに?」
「……あの子は今ごろ、離れの牢に入れられてるわ」
女性は、申し訳なさそうに言った。
「……そんな。リセルが何をしたっていうんですか? 私たちは、ただ、迷い込んだだけなのに……」
「そうなんだろうね。ごめんね。うちの守り手は少しばかり警戒心が強くて。でも、その子だって何もしてないなら、そのうち、ちゃんと出してもらえるよ」
「そのうちって……」
「さあさあ、とにかく、あなたは自分の身体を治すのが先。……あなた……」
言いかけて、女性はふっと眉を寄せた。
「あら、ごめんなさい。そういえば、まだ名前を聞いてなかったわね。私はマルヤ。この郷の治癒師よ。あなたは、なんて言うの?」
「……エリシアです」
「じゃあ、エリシアって呼ばせてもらうわね。安心して、今は休みなさい。――さあ、終わったわ」
そう言って、マルヤは新しい衣服をエリシアに着せてくれた。袖を通すと、清潔な布の香りがして、ふんわりと心地よかった。
「ここは“エルカの郷”。困っている人は、見捨てない。逃れてきた人も、受け入れる。昔から、そうやって助け合って生きてきたの。山の神様に恥ずかしくないようにね。もう大丈夫よ。ここまで来たんだもの。誰も、あなたを追ってこないからね」
マルヤは優しく微笑んだ。
その顔が、遠い記憶の中――母が癒しの後に「もう大丈夫」といって笑いかけたあの笑顔と重なった。それは、何の見返りも求めない、ただそこに在る、灯火のようなぬくもりだった。




