第十三話 霧に潜む影
進むほどに、噂が現実になっていく気がした。
この森は、霧を吐く獣が出るだとか、一度入ったら戻れないだとか――そんな曖昧な言い伝えばかりが広がっていた。
リセルもどこまで本当かはわからなかった。だが今、こうして踏み入れてみると――肌の内側を、小さな針で撫でられるような不快感が走った。
風も音も消えて、ただ冷たい空気だけが首筋にまとわりつく。
いつもなら吹き抜けてくるはずの風が、この森にだけは背を向けている気がした。まるで、入るのを拒んでいるかのように――。
山に近い森では、風は“兆し”を運ぶといわれていた。異変の前触れ、あるいは竜の気配――そんな伝承を思い出して、リセルは喉の奥がひりつくのを感じた。
霧が深く立ちこめ、雪の残る土を踏む音さえ、空気に吸い込まれていく。
(本当に、奥に進んでよかったのか?)
リセルはずり落ちるエリシアの体をそっと背負いなおし、森の木々の合間から見える山の稜線に目を逸らした。冬の間〈背運び〉をやってきたのだ。山の形を見れば、方向が分かる。
(方向は、きっと合ってる。でも……)
この森が本当にヴェルナ側に抜ける山道に繋がっているかは、わからなかった。
崖下に落ちた以上、地形も狂っている可能性がある。進んでも行き止まりなら、すべて無駄になる。
最悪の想像を振り払えず、かといって戻ることもできず、リセルは黙々と歩き続けた。
(せめて、水場が見つかれば)
まずは水の確保が最優先だ。
滑落でユルンは飛び散ったが、幸い、野営道具は荷袋に残っていた。
そのとき――リセルはふと足を止めた。
霧の奥から、視線のようなものを感じた。
目を凝らす。だが、深い霧に包まれた木々の間には何も見えない。
ただ、確かに――
獣の息遣い。葉擦れの音。気配がある。霧の向こうで、大きな影が動いた。
しまった、と思ったときにはもう遅い。
巨大な黒い塊が、木々の隙間から現れ、唸り声をあげながら姿をあらわす。
(……熊? でも、普通の熊じゃない。毛並みが荒く、目が異様に赤い……。それに、でかい!)
黒々とした毛皮に包まれたその巨体は、リセルの背丈の倍はありそうだった。
(こんな大きさってあるかよ。山奥だからか?)
本能的に後ずさる。背中のエリシアを支える腕に、力がこもる。
(逃げられない。背を向けたら、その瞬間やられる)
体は全身で逃げたがってる。でも、逃げられない。立ち尽くし、睨むしかなかった。
熊は牙をむいて唸り、じわじわと間合いを詰めてくる。
その口元に、べっとりとした唾液が糸を引いて垂れていた。
ついにはリセルの目の前まで来て、前足を高く掲げ、威嚇するように立ち上がった。
振り下ろされる――。
「……っ!」
(だめだ、このままじゃ……)
その瞬間、リセルの中で封じた記憶が一気にあふれた。
あのときは間に合わなかった。
血に染まったフィンの背中。焦げた匂い、焼けた雪原。
すべてが、いつも遅すぎた。
もう、そんなのは嫌だ――。
今度は、失う前に
――せめて、守るために使いたい。
あのときは、フィンが倒れたあとだった。
炎が出たのは、そのあとだった。
ただ立ち尽くし、何もできなかった。
リセルは素早くしゃがみこみ、エリシアをそっと地面に下ろす。
そして、反射のように両手を前に突き出していた。
次の瞬間――
橙色の炎が、彼の手から爆ぜた。
光が弾け、熊との間に一瞬で炎の壁が立ち上がる。
熊はその炎に怯んだ。
吠え声をあげ、後退し、やがて森の奥へと走り去った。
「……これ、俺の……?」
オレンジの炎が、揺れていた。
黒くない――あの時とは違う。
あの時は、全身がばらばらになって――
感情ごと、火の粒になっていくようだった。
今は違う。ここにいる。ちゃんと、俺が、いる。
炎を出すのは、フィンの時以来だ。
あの時は、怒りにまかせて爆発しただけで、自分が何をしたかも、よくわからなかった。
全身が熱くて、怒りもろとも、自分ごと燃えてしまうような感覚だった。
でも今は――
俺の意志で、出せた火だ。
そう思った、そのとき。
――パシッ。
乾いた音とともに、何かが顔をかすめる。
次の瞬間、右肩に強烈な衝撃。矢が突き刺さっていた。
「くっ……!」
反射的に、覆いかぶさるように彼女をかばい伏せた。
だが、追撃はこない。
(誰だ……? やっぱり兵士か……?)
周囲を見渡すと、いつの間にか、複数の人影が霧の中に立っていた。
草木色の装束に身を包み、顔を隠した戦士たちが、無言でリセルを囲む。
矢をつがえたまま、息をひそめるように。
左右に影が動いた気がした。三人……いや、五、六人はいる。
無駄のない足音が近づいてくる。知らぬ間に包囲はとっくに終わっていたのだ。
(ラファス兵……じゃない?)
肩の痛みが全身に広がっていく。
意識が揺らぎ、視界がぼやけていく。
遠のく耳に、会話が落ちてきた。
「あーあ、やっちまったかな。……思ったより、若いな」
どこか軽く、ぶっきらぼうな声だった。
湿った地面を踏む足音がすぐ傍で止まる。
「よく見たら傷だらけじゃねぇか……しかも女の子かばってる。お前、毒熊にやられなくて命拾いしたな」
さっきと同じ男の声だ。
「ライハン、悪い癖だ。情で判断するな。……炎を出した。それだけで危険だ」
今度は別の男の声。低く、冷たい。感情の混じらない語調が、場の空気を凍らせた。
「……炎を出すとはね。"あの時"と同じってことか?」
最初の男が、ぽつりと呟く。さっきよりも低い声。心のどこかで思い出すものがあるのか、重たい間が落ちる。
「判断はガルザに任せる。俺たち運ぶだけだ」
断ち切るような声。命令を実行するだけの兵士の、それ以上でもそれ以下でもない響きだった。
「……お前たち、誰なんだ……」
リセルは、かすれた声で問いかけた。
「ん? まだ喋れたのか? 寝とけ」
返ってきたのは、最初の男の声。乱暴にも聞こえるが、不思議とどこか、茶化すような余裕を含んでいた。
「村へ運ぶぞ」
短く、冷たい一言。誰かが命令のように言い放つ。
「……ったく。バイラのばあさんが『風が来る』なんて言うから、何かあると思って出たが……正解だったな」
苦笑まじりの声が、霧の向こうに溶けていく。
どこか、口調だけは軽いままだったが――もうその声がどれだけ近くにいるのか、リセルにはわからなかった。
(危険? 俺が……? 違う、俺は守ろうとしたんだ)
靄の奥で、誰かがエリシアの方へ近づくのが見えた。
伸ばされた手が、彼女に触れようとする。
(やめろ……)
声にならない。
喉が焼けついて動かない。体も動かない。
(さわるな……エリシアは何もしてない)
目だけが、必死にその手を追っていた。
でも、手は止まらず、ただ静かに――彼女を抱き上げる。
(……俺が……背負う)
声を出すことも、手を伸ばすこともできない。
怪我のせいではなかった。矢が刺さったところから、じわじわと、全身の感覚が薄れていく――。
呼吸はある。痛みもある。
でも、声が出ない。指先が動かない。
(これは……なんだ?)
音もなく、足音が遠ざかっていく。
それを追いたいのに、体が言うことをきかない。
目も、声も、意識までも――霧の中に沈んでいった。




