第十二話 禁忌の森~霧の中に進む~
崖の縁が崩れ、足元が一気に抜け落ちる。
空と地面が逆転し、視界がぐらりと揺れた。
その瞬間、真っ先に目に入ったのは、雲間からのぞく淡い青空だった。
だが、それもほんの一瞬で、体は一気に引き落とされる。
横を見やると、エリシアの顔が青ざめていた。
「エリシア!」
咄嗟に手を伸ばし、体ごと彼女を抱き込む。頭を庇うように、腕をぎゅっと回した。
風が耳元を裂き、幹に背中を打ちつけられる。骨がきしみ、肺から息が漏れた。
それでも声は出ない。
視界が割れ、ぐしゃぐしゃに乱れていく。どこを打ったのかもわからない。
ただ、エリシアを守る――その一点だけが焦点だった。
やがて、崖がすり鉢状の斜面へと変わる。残雪の積もった傾斜を滑り落ちていくなかで、背中のユルンが、岩にぶつかって鈍い音を立てた。木枠が岩に叩きつけられ、裂けた布とともに弾け飛ぶ。
帽子も、いつの間にか吹き飛んでいた。
それでも、エリシアを抱き締めた腕だけは、絶対に緩めなかった。
永遠に思えた滑走の末、谷底の柔らかな雪と土に、辿り着く。
ユルンは散乱した。それが、衝撃をいくらか受け止めたのかもしれなかった。
腰と胸に身につけた荷袋の確かな重みがまだあった。
そして――腕の中には彼女がいた。
リセルは、そっとエリシアを見下ろす。目を閉じたまつ毛が頬に影を落とし、肩が小さく上下している。
かすかな呼吸を感じた瞬間、張り詰めていたものが一気に崩れ、安堵と共に激痛が襲ってきた。
(……っ、息が……)
肺が押しつぶされるように痛む。喉の奥が焼けつき、胸の内側で何かがきしむ。
リセルは、崩れるように体を横に倒した。咳き込むと、喉にこみ上げた血が口から飛び出し、雪に赤い飛沫が広がった。胸の奥が焦げるように痛み、肺が底からひしゃげていく感覚だけが残った。
(……これ、やばい)
そのうち、痛みが遠のき、寒さすら感じなかった。ただ、霞む視界のなかで、エリシアの顔だけがくっきりと焼きついていた。
(……フィン、ごめん。約束守れなくて)
思考が沈んでいく。最後に心に浮かんだのは――
(せめて……お前は、エリシア……)
――もう少し、マシな死に方が、あっただろ。
ふと、自嘲気味に笑った。
でも――
ここが終わりなら、それでもいい。
せめて、守れたものがあると思えた。
(それなら……悪くないだろ、フィン……)
意識は、静かに闇へと沈んでいった。
* * *
目を閉じていても、瞼の奥に感じる淡い光。
眩しくはない、優しい光が、ふんわりと顔を照らしている気がして、リセルはぼんやりと薄目を開けた。
(……朝日?)
でも違う。
もっと近くから照らされているような光だ。柔らかく燃えるランプの灯りにも似ている。
朦朧とする頭で、そう思ったときだった。
じんわりと温かい何かが全身を包んだと思うと、体の奥に少しずつ、まるで雪解けの水みたいに入り込んでいく感覚があった。それは、気持ちのいい、ふわふわした感覚だった。
さっきまでの激痛が嘘のように溶けていく。いつのまにか、呼吸も楽になり、リセルはようやく長い息を吐いた。
(これは、いったい……)
もう少し、その優しい灯りを見ていたかったけれど――瞼は、重く閉じていった。
その目の端で、エリシアが泣いていた気がした。
(……泣くな。助かったんだから。よかった)
それが、最後に思ったことだった。不思議な満足感に包まれ、リセルの意識は、泥に飲まれていくように、沈んでいった。
* * *
目を開けると、あたりは、不思議なほど静まり返っていた。谷底の森の木々の間を、霧が静かにすり抜けていく。
さっきまでの光は、もうどこにも残っていなかった。
見えるのは、深い霧と黒い木々――その向こうに、微かに森の入り口がのぞいていた。
自分のすぐ隣に、小さな身体がうずくまるように横たわっていた。
時間が止まってしまったみたいに、彼女は動かない。
「――エリシア!」
リセルは慌てて、体を起こした。
そこで、自分の体がいつも通りに動かせていることに気づく。
ところどころ打って、骨も折れていたはずだ。呼吸すらできないほど苦しかったことを思い出す。
自分が倒れていた辺りには、雪に広がった血の跡が残っていた。
確かに、さっきまで命を落とす寸前だった――そう、思い知らされる光景だった。
夢なんかじゃない。太ももに、黒い矢が突き刺さったままだった。
(……あのときの……)
矢に気づいた瞬間、鈍い痛みの感覚が駆け抜けた。
矢傷は、そのままだ。でも、他の傷は?
あの時の光が、もしかして、傷を癒した?
(そんな奇跡みたいなことが……あり得るのか?)
しかし、目の前のエリシアは、まるで力尽きたようにうつ伏せに倒れ込んでいる。
「エリシア、……お前が、これを……?」
リセルはうつ伏せに倒れたエリシアを仰向けに抱き起こし、自分の膝の上に横たえた。 白い顔がいっそう青白くなっていた。
「そんな……エリシア、目、開けてくれ。あの光……お前が関係してるのか? まさか、俺を……?」
絞り出すように喘いでいた。
ふと、エリシアの破れた服の合間から見えた手足の傷が目に入った。
その驚くべき光景に息を呑んだ。
エリシアは、確かに傷を負っていた。木の枝や岩で切ったはずの深い切り傷や、打ち付けた打撲の赤黒い跡。そんなものが、エリシアにもところどころあった。
しかし、目を凝らすと、傷の周りだけ、朝霧が淡くまとわりついているように見えた。
雲間から漏れた光が霧に滲み、気づけば、傷口はわずかに塞がりはじめていた。
明らかに意識はないのに、傷だけが静かに癒えていく――まるで、自分の体が自然に回復を始めているような、不思議な光景だった。
(これは……)
リセルは、思考を止めた。
闇の中で感じた、あの温かい光。
それが誰のものだったのか――答えは、もう目の前にあった。
(……さっき、見えた光は――。意識が落ちかけたとき、ほんの一瞬だけ、視界に焼きついた、あれは……。俺の方がひどい怪我だったはずなのに、今、倒れているのはお前の方だ。
もしかして、俺を……? お前はいったい、何者なんだ……)
思わずエリシアの手を握る。手は、氷のように冷たかった。
(あの光のあと、どれくらいの時間が経った? ここにずっといるのは危険だ)
リセルは崖の上を見上げた。すぐには追ってこなかったのだろう。
ここは国境が曖昧な場所で、おそらく――ヴェルナの“聖域”と呼ばれる森の中だ。
この森は、“禁忌の森”と呼ばれていた。〈背運び〉の間でも有名で、常に恐れられる場所だった。
通常よりも大きな獣、火を吐く鹿、霧に紛れる岩熊――そんな御伽話が、まことしやかに語られている。
(きっと、すぐには、ラファス兵も足を踏み入れられない。けど――)
万が一にも追ってきたら、と思うと、黙ってはいられなかった。
(いますぐ、ここから移動しないと……)
そして、どこかでエリシアを休ませないといけない。そう思った。
リセルはエリシアをそっと横たえ、折れた矢に手をかけた。
息を殺し、震える手で一気に引き抜く。
ずるりと矢が抜け、同時に血がじわりと滲んだ。
裂いた腰布を手早く巻きつけ、それから、エリシアをそっと背負った。
そうするのが当たり前みたいに、体が先に動いていた。
独り言のように、ただ口からついた言葉が、虚空に響く。
「エリシア、ごめん、揺れる」
他に頼れるものなんて、どこにもない。
自分が動かなければ、そこに救いはない。
深い霧が、道すらも隠していた。
それでも――“禁忌の森”へ一歩を踏み出す。
もう、後戻りはできなかった。




