第十一話 塞がれた道
粉塵が舞い上がり、視界が白く煙る。
兵士たちの怒声に混じって、咳き込む声が響いた。
「くそ、あいつら!」
「どこへ行った?!」
その様子を、ヴァルデン・レオガルドは尾根筋の高所から静かに見下ろしていた。
王命を受けて動く直属の軍司令官。黒い外套に銀の鎧――王の意志を背負う者。彼に付き従う兵もまた、同じ装いで揃えられている。
ラファスにおいて〈アシュガルド〉――別名〈黒衛〉と呼ばれるその部隊は、王の“意志”を直接体現する存在だった。
国境に姿を現すことは滅多にない。だが、彼が来たとなれば、誰もが従うしかなかった。ヴァルデン本人の素性を知る者は少ないが、その名を聞くだけで、兵たちは一歩引く。命令以上の重みがあった。
黒い外套の裾が、乾いた風に踊り、揺れた。
その姿には、ひとかけらの感情も感じられない。
「焦るな」
静かに言い放つと、隣に控えていた兵士がびくりと身を震わせた。
ヴァルデンは粉塵の向こう、かすかに揺れる影を捉える。
山の斜面を下った先に、霧が薄く立ちこめる一帯――あの崖の手前に、二人の影があった。
「……案の定、裏道へ向かったな」
その言葉に、兵士が困惑したように聞き返す。
「しかし、姿を見失えば……」
ヴァルデンは、一瞥しただけで兵士の言葉を封じた。
「それでいい」
低く告げると、兵士は戸惑いながらも口を閉じた。
ヴァルデンは微かに唇を歪める。
「逃げ道なら――とっくに塞いである」
山腹を駆け、崖縁を目指す二人の姿――。
(裏道をふさいだ。崖まで追い込まれているな)
「矢を構えろ」
冷静な声が、風より鋭く響く。
近衛の兵たちが、尾根筋で静かに弓を構えた。緊張が一瞬、場の空気を支配する。
だが、ヴァルデンの目はすでに山腹の斜面を捉えていた。
そこには、前線の部隊――目標を直接追っている兵たちがいる。
「前線の部隊に伝えろ。威嚇でいい、足元を狙え」
そう言い終わるより早く、伝令兵が馬を駆って駆け下りていく。
ヴァルデンは、その背を見送りながら目を細めた。
斜面の途中、前線の兵たちが動き出すのが視界の端に映った。
崖縁に追い詰められる影――もう逃げ場はない。
「終わりだな。……俺が出るまでもなかったな」
積み上げてきたものが、肝心なところで欠けた。
だが、黒衛まで動かす話ではなかった。
それでも、王命だ。
ヴァルデンは谷を見下ろしたまま、息を吐いた。
逃げ道など、最初から存在しなかった。
声には、勝利と呼ぶほどの手応えすらない冷酷さが滲んでいた。
* * *
二人は必死で山岳を駆けた。兵士たちの怒声が背後から迫る。
「待て!」
「あいつらだ!」
「止まらないと、撃つぞ!」
弓を引く音。弓兵が四方から弓を構えていた。
――妙に、動きが揃っている。
怒号の裏で、誰かが全体を束ねている気配があった。
背後だけじゃない。
尾根の上でも、弦が鳴った。
視界の端を、黒い影がかすめる。
尾根筋を横切る、黒い外套。銀の鎧が陽光に反射した。
黒聖じゃない。
――もっと、別の何かだ。
「リセル! 止まって! 止まらないと、撃たれちゃう――!」
エリシアは息を切らせながら叫んだ。
リセルは無言でエリシアの腕を引いた。
けれど、エリシアは両手でリセルの腕をぐっと引っ張って踏ん張った。
「お願い、止まって。ほんとに撃たれちゃう……!」
リセルは振り向いた。
――私を助けないで、逃げられる?
胸の奥で、あの時の声がよみがえった。
それを聞いて、自分は――どうするつもりだった?
気づくと、足が止まっていた。
背後には――崖。
すでにそこへ、誘い込まれていた。
「私が戻れば、撃ってこない。言ったよね、こうなったら、逃げてって」
そう言ってエリシアは笑おうとした。頬はこわばったままだった。
「お前だって、逃げたいんじゃなかったのかよ」
なんて答えたらいいか分からなかった。ただ、吐き捨てるように言っていた。
「……そうだよ! でも、リセルは――巻き込みたくないの」
なんで、そんなことが言えるんだよ。
また閉じ込められるんだろ? そんなことで、簡単に諦めるのか?
リセルの胸の奥で、何かが引きちぎれる音がした。
――自分から、手を差し伸べたくせに。手放すしかないのか。
リセルの指先から、力が抜けていく。
エリシアはその変化に気づいたように、静かに彼の手を包み込むと、そっと自分の腕を解いた。
それから、彼女はゆっくりと兵士たちに向き直った。
その瞬間、兵士の間にわずかなざわめきが走る。
弓を構えた者たちが、ほんの少し緊張を解く。
戻るつもりなら、もう威嚇は必要ない。
兵士たちの間に、風がひと筋抜けた。
「戻るから、だから撃たないで……!」
しかし、次の瞬間――。
前へ出ようとする彼女の腕を、リセルが反射的に掴んでいた。
(――行くな)
そう叫びたかったのに、声は喉の奥に張りついたままだった。
言いたいのに、言えない。止めたくても、止められない。
ただ、彼女の腕を握る手に、力が込められた。
「リセル?」
エリシアが驚いたように振り返る。しかし、次の瞬間、兵士の一人が片手を上げて合図した。
「邪魔だ。脚を狙え」
矢がリセルの太ももをかすめた。衝撃と熱が一気に脚を貫いた。呼吸が詰まり、視界の端がかすむ。
「だめ!」
矢を受けた衝撃で、脚に力が入らず、わずかにぐらついた。
足元の土が音を立てて崩れた。体が後ろへ傾く――。
「リセル、危ないっ!」
エリシアがとっさに腕を掴む。
――その瞬間、崖縁の土が音を立てて崩れた。
「――っ!」
二人の体が宙へと浮く。
咄嗟にリセルはエリシアを抱き寄せた。
その細い体を、庇うように。
風が耳を裂き、視界が反転した。
地と空の境目が消えていく。世界が遠ざかる音だけが残った。
二人の影は、森の深い谷底へと吸い込まれていった。
風の音すら届かない、深い谷だった。
* * *
兵士たちがざわめき、誰かが叫んだ。
「——落ちました!」
兵の一人が谷を覗き込み、霧の中に向かって叫んだ。
ヴァルデンは無言で崖縁へ歩み寄り、じっと眼下を見下ろす。
「……面倒な場所に落ちたな」
呟いた声に、苛立ちでも焦りでもない、冷めた現実感があった。
ヴァルデンは、矢をつがえていた若い兵士へ、ちらりと視線を流した。
兵は反射的に背筋を伸ばし、息を殺した。
すぐ横に控えていた部下へと、視線を戻す。
「即死もありえる。まあ、運が悪ければの話だ」
口調は淡々としていた。
「追いますか?」
「必要ない。あの先は“禁忌の森”だ。地図に載っていない国境の境目だ。ヴェルナでは不可侵の聖域……管轄外だ。深入りすれば、ヴェルナと面倒になる」
――“禁忌の森”。
霧が満ち、獣と噂ばかりが生き延びている場所だ。
ヴェルナの聖域とされ、例えラファスの兵であっても、踏み込めば国家間の問題になりかねない。
実際、過去に中へ入った兵士が戻らなかったこともある。
兵たちはその名を口にすることさえためらい、ただ黙した。
「とはいえ――生死は確認できていない。“事故”としての処理は可能だが……」
彼はわずかに視線を南方の山影へと移した。
「万が一、生き延びていた場合は、ヴェルナ方面へ抜ける可能性がある。小隊を二組配置し、一週間待機。動きがなければ撤収でいい」
一拍置いて、言い切った。
「あの森の奥まで踏み荒らし、問題を大きくすることは――陛下も望まない」
再び谷を見下ろしたその顔に、影が差した。
(それにしても、あの少年……)
一瞬だけ、遠目に映ったあの動きを思い出す。
崖へ向かうまでの動きが、妙に迷いがなかった。
(追われ慣れている。普通の少年じゃない。……少年の生死はともかく、あの娘なら――即死でなければ、簡単には死なないはずだ)
報告書の記述が、脳裏をかすめた。
「……生きていれば、いずれ引っかかる」
その言葉は、何かを追うためではなく、すでに張られた網を確かめるような静けさで、谷の霧に溶けた。




