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灯火の誓い〜もう奪われたくない。ひとりで生きることを選んだ少年は、 雪解けの道で、行き倒れた少女に出会う  作者: 水瀬 理音
第二章 追跡の影

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第十一話 塞がれた道

 粉塵が舞い上がり、視界が白く煙る。

 兵士たちの怒声に混じって、咳き込む声が響いた。

「くそ、あいつら!」

「どこへ行った?!」

 その様子を、ヴァルデン・レオガルドは尾根筋の高所から静かに見下ろしていた。


 王命を受けて動く直属の軍司令官。黒い外套に銀の鎧――王の意志を背負う者。彼に付き従う兵もまた、同じ装いで揃えられている。

 ラファスにおいて〈アシュガルド〉――別名〈黒衛(こくえい)〉と呼ばれるその部隊は、王の“意志”を直接体現する存在だった。


 国境に姿を現すことは滅多にない。だが、彼が来たとなれば、誰もが従うしかなかった。ヴァルデン本人の素性を知る者は少ないが、その名を聞くだけで、兵たちは一歩引く。命令以上の重みがあった。

 黒い外套の裾が、乾いた風に踊り、揺れた。

 その姿には、ひとかけらの感情も感じられない。


「焦るな」

 静かに言い放つと、隣に控えていた兵士がびくりと身を震わせた。

 ヴァルデンは粉塵の向こう、かすかに揺れる影を捉える。

 山の斜面を下った先に、霧が薄く立ちこめる一帯――あの崖の手前に、二人の影があった。  


「……案の定、裏道へ向かったな」

 その言葉に、兵士が困惑したように聞き返す。  

「しかし、姿を見失えば……」

 ヴァルデンは、一瞥しただけで兵士の言葉を封じた。


「それでいい」

 低く告げると、兵士は戸惑いながらも口を閉じた。

 ヴァルデンは微かに唇を歪める。

「逃げ道なら――とっくに塞いである」  

 山腹を駆け、崖縁を目指す二人の姿――。

(裏道をふさいだ。崖まで追い込まれているな)


「矢を構えろ」

 冷静な声が、風より鋭く響く。

 近衛の兵たちが、尾根筋で静かに弓を構えた。緊張が一瞬、場の空気を支配する。

 だが、ヴァルデンの目はすでに山腹の斜面を捉えていた。

 そこには、前線の部隊――目標を直接追っている兵たちがいる。


「前線の部隊に伝えろ。威嚇でいい、足元を狙え」

 そう言い終わるより早く、伝令兵が馬を駆って駆け下りていく。

 ヴァルデンは、その背を見送りながら目を細めた。

 斜面の途中、前線の兵たちが動き出すのが視界の端に映った。

 崖縁に追い詰められる影――もう逃げ場はない。


「終わりだな。……俺が出るまでもなかったな」  

 積み上げてきたものが、肝心なところで欠けた。  

 だが、黒衛まで動かす話ではなかった。  

 それでも、王命だ。  

 ヴァルデンは谷を見下ろしたまま、息を吐いた。

 逃げ道など、最初から存在しなかった。

 声には、勝利と呼ぶほどの手応えすらない冷酷さが滲んでいた。


 * * *


 二人は必死で山岳を駆けた。兵士たちの怒声が背後から迫る。

「待て!」

「あいつらだ!」

「止まらないと、撃つぞ!」

 弓を引く音。弓兵が四方から弓を構えていた。


 ――妙に、動きが揃っている。

 怒号の裏で、誰かが全体を束ねている気配があった。

 背後だけじゃない。

 尾根の上でも、弦が鳴った。

 視界の端を、黒い影がかすめる。

 尾根筋を横切る、黒い外套。銀の鎧が陽光に反射した。

 黒聖じゃない。

 ――もっと、別の何かだ。


「リセル! 止まって! 止まらないと、撃たれちゃう――!」

 エリシアは息を切らせながら叫んだ。

 リセルは無言でエリシアの腕を引いた。

 けれど、エリシアは両手でリセルの腕をぐっと引っ張って踏ん張った。

「お願い、止まって。ほんとに撃たれちゃう……!」

 リセルは振り向いた。


 ――私を助けないで、逃げられる?


 胸の奥で、あの時の声がよみがえった。

 それを聞いて、自分は――どうするつもりだった?

 気づくと、足が止まっていた。

 背後には――崖。

 すでにそこへ、誘い込まれていた。


「私が戻れば、撃ってこない。言ったよね、こうなったら、逃げてって」

 そう言ってエリシアは笑おうとした。頬はこわばったままだった。

「お前だって、逃げたいんじゃなかったのかよ」

 なんて答えたらいいか分からなかった。ただ、吐き捨てるように言っていた。


「……そうだよ! でも、リセルは――巻き込みたくないの」

 なんで、そんなことが言えるんだよ。

 また閉じ込められるんだろ? そんなことで、簡単に諦めるのか?

 リセルの胸の奥で、何かが引きちぎれる音がした。

 ――自分から、手を差し伸べたくせに。手放すしかないのか。


 リセルの指先から、力が抜けていく。

 エリシアはその変化に気づいたように、静かに彼の手を包み込むと、そっと自分の腕を解いた。

 それから、彼女はゆっくりと兵士たちに向き直った。


 その瞬間、兵士の間にわずかなざわめきが走る。

 弓を構えた者たちが、ほんの少し緊張を解く。

 戻るつもりなら、もう威嚇は必要ない。

 兵士たちの間に、風がひと筋抜けた。


「戻るから、だから撃たないで……!」

 しかし、次の瞬間――。

 前へ出ようとする彼女の腕を、リセルが反射的に掴んでいた。


(――行くな)


 そう叫びたかったのに、声は喉の奥に張りついたままだった。  

 言いたいのに、言えない。止めたくても、止められない。

 ただ、彼女の腕を握る手に、力が込められた。


「リセル?」

 エリシアが驚いたように振り返る。しかし、次の瞬間、兵士の一人が片手を上げて合図した。

「邪魔だ。脚を狙え」

 矢がリセルの太ももをかすめた。衝撃と熱が一気に脚を貫いた。呼吸が詰まり、視界の端がかすむ。

「だめ!」

 矢を受けた衝撃で、脚に力が入らず、わずかにぐらついた。

 足元の土が音を立てて崩れた。体が後ろへ傾く――。


「リセル、危ないっ!」

 エリシアがとっさに腕を掴む。

 ――その瞬間、崖縁の土が音を立てて崩れた。

「――っ!」

 二人の体が宙へと浮く。


 咄嗟にリセルはエリシアを抱き寄せた。

 その細い体を、庇うように。

 風が耳を裂き、視界が反転した。


 地と空の境目が消えていく。世界が遠ざかる音だけが残った。

 二人の影は、森の深い谷底へと吸い込まれていった。

 風の音すら届かない、深い谷だった。


 * * *


 兵士たちがざわめき、誰かが叫んだ。

「——落ちました!」

 兵の一人が谷を覗き込み、霧の中に向かって叫んだ。

 ヴァルデンは無言で崖縁へ歩み寄り、じっと眼下を見下ろす。


「……面倒な場所に落ちたな」

 呟いた声に、苛立ちでも焦りでもない、冷めた現実感があった。

 ヴァルデンは、矢をつがえていた若い兵士へ、ちらりと視線を流した。

 兵は反射的に背筋を伸ばし、息を殺した。

 すぐ横に控えていた部下へと、視線を戻す。


「即死もありえる。まあ、運が悪ければの話だ」

 口調は淡々としていた。

「追いますか?」

「必要ない。あの先は“禁忌の森”だ。地図に載っていない国境の境目だ。ヴェルナでは不可侵の聖域……管轄外だ。深入りすれば、ヴェルナと面倒になる」


 ――“禁忌の森”。


 霧が満ち、獣と噂ばかりが生き延びている場所だ。

 ヴェルナの聖域とされ、例えラファスの兵であっても、踏み込めば国家間の問題になりかねない。

 実際、過去に中へ入った兵士が戻らなかったこともある。

 兵たちはその名を口にすることさえためらい、ただ黙した。


「とはいえ――生死は確認できていない。“事故”としての処理は可能だが……」

 彼はわずかに視線を南方の山影へと移した。

「万が一、生き延びていた場合は、ヴェルナ方面へ抜ける可能性がある。小隊を二組配置し、一週間待機。動きがなければ撤収でいい」

 一拍置いて、言い切った。

「あの森の奥まで踏み荒らし、問題を大きくすることは――陛下も望まない」


 再び谷を見下ろしたその顔に、影が差した。

(それにしても、あの少年……)

 一瞬だけ、遠目に映ったあの動きを思い出す。

 崖へ向かうまでの動きが、妙に迷いがなかった。


(追われ慣れている。普通の少年じゃない。……少年の生死はともかく、あの娘なら――即死でなければ、簡単には死なないはずだ)

 報告書の記述が、脳裏をかすめた。


「……生きていれば、いずれ引っかかる」


 その言葉は、何かを追うためではなく、すでに張られた網を確かめるような静けさで、谷の霧に溶けた。



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