第九話 追う者、逃げる者
木製の詰所に、重たい鉄靴の音が響く。内装は簡素だが、壁にかけられた地図と密集する兵士の影が、ここが“最前線”であることを示していた。
扉が開き、黒い外套が入ってくる。空気が一段、冷えた。
部屋にいた者たちが一斉に姿勢を正した。誰も“誰か”とは言わない。この場に足を踏み入れた時点で、誰なのかはわかっているのだ。
「指令を伝える。――ヴェルナ方面、山岳検問を強化せよ」
兵士の一人が、地図に目を落とす。
「対象は……?」
「逃亡者二名。白金の髪の少女と、未成年と思われる少年。特に少女は“王命により保護指定”された存在だ」
兵士たちの表情がわずかに緊張する。
“保護”という語が持つ二重の意味を、誰もが察していた。
「民間に紛れて通過を試みる可能性がある。通常検問ではなく、通行名簿と照合せよ。裏道の監視も強化せよ」
「――力の行使は、どこまで許されますか?」
兵士の一人が、静かに口を開く。
「力ずくは不要だ。保護対象を傷つけることは禁ずる。現地対応は私が行う」
「了解!」
ヴァルデンは目を細めた。その瞳には、追跡者の執念ではなく、囲いを閉じていく者の冷静さがあった。
(逃げ道を封じ、孤立させる。選択肢を奪う。“自ら戻る”という一択しか与えない。
それは檻ではない。ただの……“保護”だ)
* * *
泥を踏む音が、春の空気の中に静かに溶けていった。
雪解けの道はぬかるみ、時折、溶け残った雪の塊が足を取る。
リセルは帽子の上からフードを深くかぶり、周囲に目を配りながら、山道を進んでいた。
無意識に指先で帽子の縁を押さえ、髪がはみ出していないかを確かめる。
もう癖になっていた。
空は晴れているのに、張り詰めたような緊張があった。
この道を越えれば、ヴェルナだ。
ヴェルナのほうが、まだましと言える。
ラファスの王は、自らを“神の代行者”とし、秩序に背く者を異端として排除する。
赤髪の民――〈ユーファ〉の末裔も、その対象だった。
(……だから、今しかない)
冬は雪に閉ざされ、夏になれば検問が強化される。雪解けのこの時期だけが、越えられる“間”だった。
後ろを歩くエリシアが、足を止めて空を見上げる。
風に揺れる枝の影が、彼女の髪に踊った。光を受けたその白金の髪は、どこか目を惹いた。
(……自分がどれだけ目立つか、まだ分かってないんだな)
視線を外したはずなのに、また彼女が目に入る。髪が光を反射して揺れた。
リセルは荷袋に手を入れ、折り畳んだ布を取り出した。
風が冷たい。春の光は、まだ山の上までは届いていない。
(越える。何があっても、足を止めるわけにはいかない)
冷たい風が頬を撫でた。
腰に提げた短剣に、無意識に指が触れた。
確かめるように、そこにある重さだけを感じる。
それで、少しだけ息が整った。
一人のときだって、これより楽な道を歩いていたわけじゃない。
踏み外せば滑落する崖道も、凍える夜も、何度も越えてきた。
それなのに――今の方が、苦しい。
背負ってしまった“何か”の重さが、そう感じさせるのかもしれない。
なぜか、あの時、背に感じたエリシアの体温を思い出していた。
* * *
春の風が、泥を含んだ雪解けの匂いを運んできた。
透明な空に、ヴァルト山脈の稜線がくっきりと浮かんでいる。
ここは、ラファス南部の山岳地帯に近い場所だった。
これから越えるのは、ヴェルナへ続く山岳交易路。
冬の厳しさは和らいだが、ぬかるんだ道や雪解け水の増水には、まだ警戒が必要だ。
この季節は、〈背運び〉を雇わず越える者もいる。逆に言えば、越えるなら今しかない。
山脈は天然の国境として、ラファスとヴェルナの間に横たわっていた。
一見、緩やかに見える検問も、異端や逃亡者には容赦ない。
ラファスの王は、“秩序の光”をもたらす唯一神――オルデスの地上代行者とされていた。 秩序を乱す者は異端。〈ユーファ〉はもちろん、移動の民〈カイラ〉でさえ、見えない網に捕らわれている。
リセルは、もう一度フードを深く被り直した。
(……この髪が見られたら終わりだ)
表向き、ヴェルナもオルデス神を信じている。いや、ラファスに従属しているため、信じていると言う必要があった。だが実際には、精霊信仰が根強く、民の移動も受け入れられている。
移動の民〈カイラ〉が季節ごとに交換してくれる物資は村々に重宝され、交流が当たり前だった。少なくとも、この地では生活の一部として受け入れられている。
もっとも、“渡り民”と呼ばれることも多く、その響きが好意ばかりを含むわけではなかったが。
また、ヴェルナ人には赤髪も珍しくはない。そのため、ユーファの末裔は、実際にカイラに紛れて生き延びた者が多い。リセルの両親もそうだった。
それでも、ヴェルナにいたからと言って、安心できるわけではなかった。ヴェルナの地には、ラファスの意志が“同盟”の名で入り込んでいる――〈イースガルド連盟〉がいる。
異端対策を目的に作られた越境組織。だが実態は、秩序を名乗る荒くれども、傭兵崩れの寄せ集めだった。特に中心から離れた部隊ほど腐敗し、赤髪のカイラと見れば、それだけで“ユーファの残党”と決めつけて襲いかかってくることもある。
ラファスではなく、ヴェルナの領内であっても、奴らに目をつけられれば、それで終わりだ。どちらがましかと言えば、ヴェルナだというだけだった。
迷っている余裕はない。
雪解けの季節は短い。それは、もう身に染みている。
山の向こう。澄んだ風の先に、青い山並みが連なっている。まだ、気は抜けない。
リセルはふと足を止め、背後を振り返った。
少し遅れて、エリシアが追いつこうとする姿が見えた。
肩で息をしている。細い身体が、歩き慣れていないのを物語っていた。
(……体力がないのか?)
考え事をしている間に、思ったより距離が空いてしまっていたらしい。少しだけ歩調を緩める。
自分の歩く速さが、誰かに合わせるには速すぎたのだと気づいたのは、そのときだった。
(……なんで、あのとき『一緒に行こう』なんて言ったんだ)
言葉にした。それだけで、彼女はついてきた。
けれど、あの夜の火を思い出すと、やはりあのとき――
言わずにはいられなかった。
リセルはうつむいて、小さく息を吐く。
(本当に二人で越境できるのか?)
不安は、足もとからじわじわと這い上がってくる。
通れなければ、裏手に抜け道がある。
かつて〈背運び〉として越境していたとき、商隊が使っていた荷抜け用の古道だ。
崩れてなければ、まだ通れるはず――。
いや、それは、最後の手段だ。
堂々としていれば、きっと通れる。
今の時期、検問の目は緩い。冬の名残が残っている。
だから、行ける。行けるはずだ。
(黒聖は動かないだろ。あいつらには、越境して異端者を追う権限がない。国境を越えれば、手出しはできない)
けれど、どこか胸騒ぎがしていた。
黒聖の奥にいる、もっと別の“何か”が、すでに動いているのではないか。
それが何かまでは、わからない。
ただ、目の前の道が、ただの道ではないような気がした。
足音が近づき、エリシアがようやく並んだ。
彼女は何も言わずに、少し照れたように笑った。
リセルは顔をそむけ、また歩き出した。
(――とにかく、進まなきゃ。止まったら、戻りたくなる)




