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Pandora  作者: アカイヒト
伝説再来篇
8/21

〜静寂の裂け目〜

あたりを土煙が包み込む。

先ほどまでの馬車でのゆっくりとした時は、突如として終わりを告げた。

 

リートが大声でクリウスに告げる。

「庇いながらは無理だ! 遠くに逃げろ、クリウス!」

いつものおちゃらけた表情は抜け、

その瞳は目の前の悪魔——アンドラスを鋭く睨みつけていた。

 

悪魔もまた、リートを見つめ返し、口を開く。

「久しい気配だ……。まだ生きていたか、かつての煉獄の王よ。」

知り合いのように語りかけるその声音に、クリウスは息を呑む。

(煉獄の王……?)

 

クリウスは剣を構えた。

ここで逃げれば、もう自分は騎士とは名乗れない——

そんな気がしたのだ。

 

「援護する!」

悪魔をまっすぐに見据えるクリウス。

だが、その目ではアンドラスの動きを捉えきれなかった。

 

——カチンッ。

金属がぶつかる音が鳴り響く。

と同時に、クリウスの目の前で、悪魔の巨大な爪を小刀で受け止めるリートの姿が現れた。

 

「マリザ!」

リートが叫ぶ。

「わかってるわよ。」

マリザは尻餅をついているクリウスへと手をかざした。

その瞬間、マリザとクリウスの体は小高い丘の上へと転移する。

 

「マリザ様! 私も戦います!」

クリウスの必死の声に、マリザは静かに諭した。

「あなた、あの悪魔の動きも見えないでしょ?

 あなたがあの場にいたら、リートが守らないといけない。邪魔なだけよ。」

 

“聖女”の辛辣な言葉に、クリウスは唇を噛み、下を向く。

マリザはそんな彼を静かに見つめ、ぽつりとつぶやいた。

「自ら命を捨てるということは、勇敢でも何でもないのよ。

 今生きて——強くなりなさい。」

 

クリウスは悔しさを押し殺した。

マリザが詠唱する。

「《オムニシエント(全知)》」

マリザが乗っていた雲に戦況が映し出される。

動きは早く、ところどころしか見えないが——

それでも、リートと悪魔はほぼ互角。

クリウスはそう感じた。

 

「《ヘル・ダガー(業火の短剣)》!」

リートが掌を短剣にかざす。

刀身からは炎が燻り、やがて大炎となって刀を包んだ。

アンドラスはそれを見て、ニヤリと笑う。

「炎の力は健在……だが弱い! 遥かに!」

勝利を確信したように、低く笑い声を上げ、

口から煙を吐き出した。

煙は瞬く間に広がり、二人の周りを覆い尽くす。

 

霧の中からアンドラスの低い囁きが聞こえた。

「《サウンドレス・ワールド(音のない世界)》。」

 

リートは目の前の白い霧を睨みつける。

「思い出したよ、引きこもりのアンドラスか。」

冷や汗を浮かべながら笑う。

「お前は、せこい戦いしかできないんだよな!」

霧の全方位から、嘲るような声が返る。

「見栄をはるな、かつての王よ。

 人間と“同化”などしたのがお前の敗因だ。」

 

リートは背後を振り返り、霧を切り裂く。

だが、手応えはなく、空振りに終わった。

 

「我の固有魔法は音を自在に消せる。

 忘れたわけではあるまい? この霧の中、お前は我を見ることもなく死ぬ。」

 

声が終わると同時に——

リートの背中から、音もなく血飛沫が上がった。

しかし彼は、反応しない。そのまま目を閉じ、ただ立ち尽くす。

 

四方八方から襲いかかる無音の斬撃。

しばらくして、リートはゆっくりと目を開けた。


「——お前たちが動き出してんだ。

 出し惜しみは、しないほうがいいよな。」

 

その口元に、いつもの笑みが浮かぶ。

「アンドラス! ここからは命をかける!」

ボロボロの上着を脱ぎ捨てたリートの心臓部には、黒い闇が広がっていた。

闇から亀裂が走り、胸から左目へと伸びていく——。

 

——ボッ。

リートの全身が、炎の帯に包まれた。

「っ……!」

アンドラスが霧の中から姿を現す。

だが、その霧はリートの熱によって、一瞬で拡散した。

 

「これで、どこにも隠れることはできねぇな。」

リートの左目は怪しく光り、悪魔の瞳へと変貌していた。

 

「それがどうしたッ!」

雄叫びを上げ、アンドラスは爪を振り下ろす。

だが、次の瞬間——

 

「お前は、所詮こんなもんだ。」

アンドラスの腕は、地面へと落ちていた。

断面からは、真紅の炎がゆらめいている。

 

「”ソロモン“にまた席が空くな。」

リートはそう呟き、

腕の断面を呆然と見つめるアンドラスへと歩み寄った。

 

「く、くるなぁ……!」

アンドラスは気づいた。

目の前にいるこの男は、自分をいつでも殺せる——。

 

瞬時に腕を再生し、翼を広げて空へと逃げる。

だが、その上空から——まばゆい光が降り注いだ。

 

「《テーミス・レイ(裁きの光線)》!」

アンドラスが見上げると、

“聖女”マリザが微笑みを浮かべ、手を掲げていた。

 

光はアンドラスを貫き、その身を削っていく。

「ぐぁぁぁぁぁ!!!」

やがて光が収まると、アンドラスは黒焦げとなり、

空から落下した。

 

横たわる悪魔が、かすかに首を動かす。

視線の先には、ゆっくりと歩いてくるリートの姿。

 

「アンドラス、最後に言いたいことはあるか?」

 

アンドラスは小さな声を絞り出した。

「それでも……お前たちでは……勝てないぞ……。」

 

リートは冷たい表情で見下ろし、低く呟く。

「それでも、約束なんだよ。」

——ザクッ。

小刀を突き刺すと、アンドラスの体はチリへと変わり、空へと舞い上がっていった。

 

クリウスは静かに、リートのそばへ歩み寄る。

悪魔の目は元に戻り、全身に広がった黒いヒビは心臓の闇へと沈んでいった。

 

だが——

クリウスはこの男の中にある“悪魔”を目の当たりにし、驚きを隠せなかった。

悪魔がいた場所を見下ろすリートは、どこか悲しげな表情を浮かべた。

   

*  * *

 

 聖アストリア帝国からはるか南の森——

木の葉が揺れる枝の下で、一人の男が目を開けた。男は静かに耳を澄ませ、囁く。


「君の炎は、まだ消えていないようだね。」


男は口元に笑みを浮かべ、木の葉が作り出す、幻想的な光を見つめる。


「——待ってるよ。」


男は再び目を閉じて眠りについた。

風が木々を揺らし、古の記憶を運んでいった

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