〜祈り〜
白い霧が漂う古い神殿。その奥に、一人の女性が静かに立っていた。
淡い銀髪と透き通る瞳。肌は雪のように白く、どこか人ならざる気配をまとっている。
彼女の名は――マリザ=サイネリアス。
別名、“聖女“。
天使信仰が根付くこの国で、彼女を知らぬ者はいない。
天使と人間の間に生まれた《ネフィリム》。
人と天の世界をつなぐ、唯一の存在だった。
「千年ぶりになんの用かしら?」
柔らかく微笑みながら、マリザが尋ねた。
「お前の神器で全部わかってんだろ。説明がめんどくせぇよ。それより――」
リートは顔をしかめ、ずかずかと歩み寄る。
そして、次の瞬間。
「いきなり攻撃すんな!」
マリザの頭をペシッと叩いた。
(……聖女だぞ!?)
クリウスは目を見開いた。
だがマリザは、まるで天使のような微笑を浮かべて言う。
「相変わらず乱暴ね、リート。」
「聖女様!」
クリウスが慌てて膝をつき、深く頭を下げた。
「私は聖アストリア帝国より参りました。現在、世界は悪魔の危機に晒されております。どうか、お力添えを!」
マリザは興味深そうに彼を見つめる。
「ふふ、真面目な人間ね。」
リートがぼそりと呟いた。
「どこが“聖女”だよ……。」
次の瞬間、空気が変わった。
周囲に漂っていた霧が一気に収束し、巨大な雲の巨人が形を成す。
その拳がリートを捉え――。
ドゴォンッ!
リートの体は遥か彼方まで吹き飛んだ。
地響きと共に、遠くで砂煙が上がる。
マリザは涼しい顔で微笑んだ。
「さあ、ようやく落ち着いて話ができるわね。」
(いや、落ち着けねぇよ……!)
クリウスは冷や汗を流した。
「マ、マリザ様。先ほども申した通り、我々アストリアは《パンドラ》の復活を目指しております。どうかお力を……。」
クリウスは懐から一通の封書を取り出す。
「こちらはカルライ陛下からのお手紙でございます。」
マリザは手紙を受け取り、しばし見つめた。
「手紙で頼むなんて……カルちゃんも偉くなったわね。」
皇帝を“ちゃん付け”することに、クリウスは思わず固まった。
「あなたの力がなければ、《パンドラ》の再結成は難航します。どうか――!」
マリザは微笑み、封書を胸にしまった。
「いいわよ。」
あまりに簡単に引き受けてくれたことにクリウスは面食らった。
「そんなアッサリと!?」
その瞬間、遠くから声が響く。
「おいコラァ!マジで一回殺すぞ!!」
土まみれのリートが、怒りながら帰ってきた。
「あら、あなたは私にたくさん借りがあるはずよ?」
マリザが微笑む。
「そ、それとこれとは別だ!」
リートはむくれながらも、マリザを睨んだ。
そんな二人を見て、クリウスは小さく首をかしげた。
(……どんな借りなんだ?)
「それでは一度、聖都に戻りましょう。陛下への報告もありますし。」
クリウスが促すと、マリザは右手を軽く掲げた。
すると、先ほどの雲の巨人がゆっくりと形を変え――馬車になった。
「歩くより速いわよ。」
「便利なもんだな……。」
リートは体の土を払いながらぼやいた。
「マリザ、その前に聞きたいんだが――今、生き残ってるのは何人だ?」
クリウスはピクリと反応した。
(《パンドラ》の団員のことか……?)
マリザは少しだけ目を伏せて答えた。
「私とあなたを含めて、五人ね。」
「五人……ずいぶん減ったな。」
「えぇ。長寿の者でも、戦いや病で命を落とした人が多いの。」
リートは腕を組み、静かに考え込む。
「ってことは……俺とお前、パンは確実に生きてるとして……ダイロスと、もう一人は誰だ?」
「ジェド=アーク。」
マリザがその名を口にした瞬間、リートの表情が凍りついた。
「嫌なのか?」とクリウス。
「……嫌じゃねぇけど、会った瞬間殺されるな!」
「何したんだよ!」
「覚えてねぇよ!」
マリザがくすりと笑い、馬車の扉を指さす。
「さあ、早く乗りなさい。聖都は遠いわ。」
こうして、三人を乗せた雲の馬車はゆっくりと浮かび上がり、聖都へと進み出した。
馬車の中はふわりと柔らかく、まるで風に包まれているようだった。
さっきまで巨人だった雲が人の姿になり、今は雲の馬を牽いて進んでいる。
淡い光が差し込み、空の中を進む音が心地いい。
リートはというと、マリザと同じ空間に居たくないのか、
馬車の天井の上に寝転がっていた。
一息ついたところで、クリウスが口を開く。
「マリザ様、次はどなたを探しに行くおつもりですか?」
マリザは窓の外を見つめながら答えた。
「んー……パンね。」
「パン様ですか? なぜパン様から?」
「近いから。」
(そんだけかよ……)
クリウスは心の中でため息をついた。
リートといいマリザといい、《パンドラ》という組織は皆こんな調子なのだろうか。
「ち、近い方が! いいですもんね!」
聖女相手に失言はできないと、引きつった笑顔で返す。
すると上から、寝転がったままのリートの声が降ってきた。
「こいつ、適当すぎるよなー?」
マリザは恐ろしいほど優雅な微笑みを浮かべ、右手をすっと上へ伸ばした。
その瞬間、天井の雲が勢いよく凹み――
ドガッ!!
「ぐおおおおっ!?」
リートの叫びが空に響いた。
クリウスは何も見ていないふりをして話を続けた。
「パン様とは、どんな方なのでしょうか?」
もちろん、名前くらいは知っている。《パンドラ》の伝説には欠かせない人物の一人だ。
「あなたはパンをどのくらい知ってるの?」
「“大樹林のパン”と呼ばれていて、植物を操る方……。悪魔との戦いでは大活躍したと聞いています。」
「そうね。さっき“近いから”って言ったけど、それだけじゃないの。」
マリザの表情が少しだけ柔らいだ。
「彼は《緑の民》なのよ。」
「緑の民……?」
クリウスは首を傾げる。
「そう、この時代ではもう存在すら知られていない種族。何億年も前から生き続ける、精霊に近い存在よ。」
マリザは指先で窓をなぞる。
「彼は多くを知っている。だから最初に会うべきなの。」
そして、ふっと笑みをこぼした。
「それに――彼はリートに礼儀や文字を教えた先生でもあるの。」
(礼儀……? 本当に教わったのか?)
クリウスは無意識にリートを見上げた。
「ヨッと。」
ちょうどその時、リートが窓から中へと入ってきた。
どうやら上は危険地帯だと悟ったらしい。
「パンか、懐かしいなー。」
リートは笑みを浮かべた。どこか嬉しそうな、子どものような表情だった。
「そろそろ着くわね。」
「もうですか!?」
クリウスは驚いて窓から外を覗いた。
雲の切れ間から見えたのは、懐かしい聖都の尖塔。
ほんの数時間しか経っていないのに、何年も離れていたような錯覚を覚えた。
その時だった。
――パリン。
音もなく、馬車の壁に亀裂が走る。
次の瞬間、雲の車体が一気に弾けた。
「な、なんだ!?」
クリウスは反射的に受け身を取り、外へと飛び出した。
目の前で、雲の馬が悲鳴のように霧散していく。
クリウスは急いで周囲を見渡した。
砂煙が立ち、雲の馬車が静かに消えかけている。
見上げた空の中、太陽を背にした“影”がゆっくりと降りてきた。
逆光のせいで姿ははっきりしない。ただ、肌の奥に刺さるような悪寒だけが確かだった。
「……上です!」
クリウスの声に、リートとマリザは同時に視線を上げる。
二人とも、すでに戦闘の構えを取っていた。
影が地上に近づくにつれ、輪郭が崩れていく。
ツノが生えた鳥の頭蓋を被ったような異形の顔。
腕と脚は人間のものだが、胴は黒い鱗で覆われ、背からは裂けたような翼が広がっている。
その存在は、見る者の理性を削るほどの“異質”だった。
砂の上に降り立つと、悪魔は唇のない口を開いた。
「……我は、ソロモン七十二の柱――第六十三序列アンドラス。」
低く、世界そのものを震わせるような声だった。




