〜戦帝vs魔神〜
先ほど玉座の部屋の前に現れた男——《パンドラ》の団員、リート=ジン。
その存在を前に、皇帝カルライは内心、冷や汗を垂らしていた。
理由は単純だった。
この男が、少しも自分に威圧されていない。
聖アストリア帝国の皇帝は、代々「人を威圧する固有魔法」を受け継ぐ。
その力に耐えられる者など、これまで存在しなかった。
——だが、目の前の男には通じない。
(まさか……我より格上の存在なのか?)
そう思った瞬間、リートがゆっくりと口を開く。
「この肌を刺すようなピリピリした感覚……」
視線を皇帝に向け、部屋にゆっくりと入りながら言葉を続ける。
「なるほど、アストリアの皇帝に伝わる固有魔法か。」
カルライはわずかに間を置き、堂々と答えた。
「その通りだ。これは《エンペラー・グレア(皇帝の風格)》、アストリア家に代々伝わる魔法だ。……それが効かぬとは、大したものだな。」
リートは唇の端を吊り上げ、ニヤリと笑う。
その態度が、かえってカルライの興味を煽った。
「だが、それだけで貴様が《パンドラ》の団員と証明されたわけではない。」
「おっしゃる通りでございます、陛下。」
リートはわざとらしい敬語を使い、皇帝の心を見透かすように笑った。
「では、どうすれば信じていただけますか?」
——カルライの目が光る。
「簡単な話だ。——私が見極める。」
その言葉と同時に、カルライの手には剣が握られていた。
すでに騎士団長ロロイが、次を読み剣を渡していた。
リートも腰の小刀を抜く。
「——《ヘル・ダガー(業火の短剣)》。」
瞬間、刀身が赤く輝き、炎が立ちのぼる。
その光景にカルライは高揚し、叫んだ。
「面白い! 受けてみよ!」
斬撃が走る。
皇帝カルライは幼少より剣を学び、民から“戦帝”と称えられる実力を持つ。
しかし、その渾身の一撃を——リートは片手で受け止めた。
「なっ……!」
リートは刃を押し返しながら、まるで雑談のように言う。
「まだやるか?」
カルライのこめかみに血管が浮かぶ。
「まだまだ足りぬわ!」
跳び上がると同時に叫ぶ。
「——《エンペラー・デイモス(恐怖の皇帝)》!」
己の魔力を極限まで高め、格上の者すら一瞬で封じる秘技。
玉座の間の空気が一瞬で重くなった。
リートの動きが一瞬、止まる。
(もらった——!)
その刹那、リートが低く呟いた。
「——《ヘル・ウォール(業火の壁)》。」
赤い閃光が爆ぜ、熱風が部屋中を焼く。
リートの全身から吹き出す炎が、カルライを包み込んだ。
衝撃で吹き飛ばされながらも、皇帝は剣を支えに立ち上がる。
そこへ歩み寄ったリートが、静かに問う。
「……これで、納得してもらえますか?」
カルライはしばし沈黙し、そして深く息を吐いた。
「たしかに……古代の文献に記されていた“炎の魔神”そのものだ。その力、間違いないだろう。伝説の騎士団の団員なのだ。寿命を伸ばす術でも持っていたのだろう。」
やがて皇帝は、ゆっくりと膝をついた。
「どうか、我らに力を貸してくれ。《パンドラ》の炎の魔神、リート=ジンよ。」
リートは微笑み、片手で炎を握り潰す。
「もちろんだ、陛下。」
***
ーー炎は静まった。
焦げた大理石の床から、まだ白い煙が立ちのぼっている。
玉座の間を包んでいた熱気が、ようやく現実の温度を取り戻していた。
カルライ=アストリアは、重い呼吸を整えながら立ち上がる。
視線の先には、まるで何事もなかったかのように立つ男——リート=ジン。
カルライは戦いを見守っていたロロイとクリウスに視線を向け、低く命じた。
「少し外してくれ。二人で話す——」
ロロイは無言で一礼し、静かに部屋を後にする。
それに続いてクリウスも部屋を出た。
扉が閉まる音が響くと、玉座の間には炎の残り香と静寂だけが残った。
カルライは再びリートへと視線を戻す。
「場所を変えたい。……ついてきてくれ。」
皇帝は背を向け、廊下へと歩き出した。
リートは無言のまま、その後に続く。
——長い石造りの回廊を抜け、二人は城壁の高みへと出た。
眼下には聖都デラークの街並みが広がり、朝の光が屋根瓦を照らしている。
「綺麗な景色だろ」
カルライは手すりに手を置きながら、静かに口を開いた。
「この景色が今見られるのも、貴様らが千年前に命を懸けて戦ってくれたおかげだ。……皆に代わって礼を言おう。」
リートは街を見下ろしたまま、穏やかに答えた。
「いや、感謝を述べるのはこちらです。千年前、俺たち《パンドラ》が戦えたのは、陛下の祖先——ネロ陛下のおかげですから。」
カルライはふっと笑みを漏らす。
「感謝しているのは我々だ。……謙遜するな。」
しばし、二人のあいだに沈黙が落ちた。
風が吹き抜け、衣の裾を揺らす。
やがてリートが、静かに口を開いた。
「陛下。……あなたは、まだ生きている《パンドラ》の団員を知っていますね?」
カルライの眉がわずかに動く。
「なぜそう思う?」
「そうでもなければ、突然現れた男が“千年前から生きている”などとは、信じられませんので。」
皇帝は目を細め、問い返す。
「だが、貴様が連れてきた見習い騎士は、信じていたではないか。」
リートは口元に笑みを浮かべる。
「あれは責任がない分、騙されていても“騙されていた”で済む。……ですが、あなたは皇帝です。あなたの判断は国家の決断となる。そう易々と信じるはずがない。」
カルライは思わず吹き出した。
「……なるほど。伊達に千年は生きておらんというわけか。」
リートも軽く笑い、そして問う。
「——マリザ=サイネリアスですね?」
その名を聞いた瞬間、カルライの表情が真剣に戻る。
「ああ……彼女は“聖女”と呼ばれるネフィリム(半人間・半天使)だ。天使信仰の厚いこの国では、皇帝のみがその居場所を知らされている。」
リートはゆっくりと頷き、遠くを見つめた。
「やはりそうでしたか。あいつは、この国の信仰そのものだからな……」
リートが続ける。
「それと陛下、各地で起こっている悪魔の襲撃——これがどういう意味か、お分かりですね?」
カルライは静かに頷いた。
「皆はわかっていないだろうがな……真実の歴史を細かく継承してきたアストリア家のみが、その重大さを理解している。」
それを聞いたリートが、重く口を開く。
「そう……魔界が“統率”されたようです。今現れている悪魔は、その先行部隊といったところでしょう。」
リートは視線をカルライに向けた。
「魔界と現世では時間の流れが違います。ですが——あと半年も経たないうちに、悪魔軍は本格的に現世へ攻め入ってくるでしょう。」
カルライは腕を組み、少し考えるような表情を見せた。
「……そのための対策として、《パンドラ》の生き残りを集めたい。そういうことだな。」
「ええ。」
リートが静かに答えると、カルライは深く息を吐き、続けた。
「急がねばならぬことは分かっている。“聖女”の居場所を教えよう。」
リートは軽く一礼する。
「話が早くて助かります、陛下。」
カルライは視線を遠くに向けた。
「彼女がいるのは、帝国領の南端——“神の眠る場所”だ。」
——夏の炎のように熱い風が、二人の肌をかすめていった。
それはまるで、これから燃え上がる運命を告げる風のようだった。




