第三十二話 〜合掌〜
神殿の床が裂けた瞬間、
マリザは悟った。
――腕ではない。
――これは、“顔”だ。
その奥で光る眼が、名を持つ災厄の到来を告げていた。
「急いで逃げなさい!」
マリザはオズとナイラーの方へ振り向き、叫ぶ。
ナイラーは、突如地の底から現れた巨大な眼を見つめ、言葉を失った。
胸の奥から、理解不能な恐怖がせり上がる。
(……こんなものが、ずっと下に埋まっていたというのか)
「先生! なんだ、あの化け物は!」
後ずさるオズが、声を震わせて問いかける。
「――テュポンよ。魔界から、サタンが引きずり出した災厄」
マリザの頬を、冷や汗が伝った。
「千年前、パンドラが総動員しても倒せなかった。
……封印するしか、なかった存在よ」
土煙が晴れ、巨大な頭部が地上へと姿を現す。
――恐怖。
ナイラーの心は、その一語に塗り潰された。
焼け爛れた皮膚。
無数の蛇で形作られた髪。
そして何より、異常なまでの“大きさ”。
顔だけで、空に届きそうだった。
ウォォォォォォ――――!!
喉奥まで尖った歯が並ぶ口から、
世界を引き裂くような咆哮が放たれる。
「早く逃げなさい!
この地は封印で閉じられている、外へは出られない!
だから、走って!」
マリザは二人を急かす。
「先生は、どうするんですか!」
恐怖を押し殺し、ナイラーが叫ぶ。
「――“あれ”を止めるわ。
あなた達は、邪魔よ。
喋る暇があるなら、走りなさい!」
マリザは前を向いた。
「《グレイプニル(絶対拘束)》」
無数の光鎖がテュポンの顔へと絡みつく。
だが、巨体が僅かに動いただけで、
鎖は一本、また一本と断ち切られた。
「《アポカリプスサウンド(終末の音)》」
「《第三サウンド・ウリエル》!」
光輪が出現し、天から火柱が降り注ぐ。
グォォォォォォ――!!
大地を震わせる咆哮。
マリザの忘れていた感情が呼び覚まされる。
ー死ー
(効いていない……私だけじゃ封印する暇もない。)
(――どうして、こんな時に他の団員がいないのよ)
マリザは歯を食いしばり、力を込める。
だが、テュポンは体を揺らし、虫を払うかのように炎を振り払う。
(ここまでのようね......でも、時間さえ稼げれば、二人は――)
「先生! 水臭ぇじゃねえか!
少しは頼ってくれよ!」
背後から声がした。
振り向くと、オズとナイラーが並び立っている。
「ここで止めなければ、どうせ未来はありません」
二人は、迷いなくテュポンへ走り出した。
「ダメよ!
あなた達の技じゃ、通用しない!」
叫びは届かない。
黒煙の奥で、再び光る眼がこちらを見た。
走りながら、二人の脳裏に日々がよぎる。
三人で食卓を囲む何気ない日々、マリザに教えられた魔法の数々、初めて教わった魔法を習得できた時の喜びも。
——楽しかった.....。
(わかってる、先生。
こいつは規格外だ。
でも……こいつは先生でも倒せない。)
オズとナイラーは、挟み込むように位置を取る。
2人の瞳は怯えながらも、覚悟を決めていた。
(禁術しかない。
……先生だけは、未来へ)
ナイラーは、覚悟を宿した目でマリザを見た。
「先生!
あなたは世界の希望だ!
ここで、死なせない!」
微笑む。
「いくぞ、ナイラァァァ!」
(――まさか!)
マリザの顔に、焦燥が走る。
「待っ……!」
だが、間に合わなかった。
「《アラハバキ(神封)》!!!」
二人の声が、草原に響き渡る。
マリザは、その場に立ち尽くした。
(……私しか知らない、禁術。
教えるべきじゃ、なかった)
マリザの頬に涙が零れる。
空が、テュポンの頭上から裂ける。
ゴォォォォォォ――――
裂けた空からは巨大な“手”が、降り注ぐ。
「先生……そんな顔しないでくれよ。」
二人の身体が、灰へと変わっていく。
「先に逝くことを、お許しください。
先生……世界を、未来を照らしてください」
笑顔のまま、二人の体が崩れていく。
「《閉掌》!」
光が爆ぜる。
最後の一瞬、
ナイラーとオズは、確かに微笑んでいた。
「……任せなさい」
涙を溢れさせながら、
マリザは、微笑んだ。
――ありがとう。
光が晴れた草原に残っていたのは、
崩れ落ちた神殿の残骸と、
一人、うずくまる女の姿だけだった。




