〜残火〜
さっきまで死ぬ覚悟をしていたのに、今はこうして自分の生まれ育った家で飯を食っている。
人生とは、まるで悪戯好きの神が描いた戯曲みたいだ。
——そう考える間もなく、目の前の男が口を開いた。
「なぁ、酒はないのか?」
鉄製のキセルをふかしながら、旅芸人がぼやく。
その煙は薄暗い囲炉裏の火に照らされ、赤く揺れて見えた。
「あぁ、今この家には置いてないんだ。近くの店も閉まってる。すまないが今日は諦めてくれ。」
俺はそう答えながら、視線を男に向ける。
この男——リート=ジン。
先ほど俺の命を救い、この村を地獄から引き戻した張本人だ。
悪魔を倒した後、避難していた村人たちが戻り、村はいつもの静けさを取り戻した。
だが俺だけはまだ、目の前の現実を信じ切れずにいた。
「えっと……クリウス君だったな?」
リートが煙を吐きながら尋ねる。
その煙は一瞬、炎のような赤を帯びて弾けた気がした。
「ああそうだ。先ほどは本当にありがとう。
正直……命を諦めていたよ。」
リートはニヤリと笑った。
「顔を見ればわかったよ。」
囲炉裏の火がパチ、と弾けた。
赤い光がリートの横顔を照らす。
その瞳の奥——一瞬、何かが燃えたように見えた。
* * *
夜が明ける。
昨日は命の恩人に礼を言い、リートを家に泊めた。
だが俺は一睡もできなかった。
対照的に、隣ではリートがだらしなく寝息を立てている。
大口を開け、豪快にいびきをかいて。
これが本当に伝説の騎士団の一員だというのなら、笑うしかない。
「んぉ? 朝か?」
目をこすりながらリートが起き上がる。
「よく眠れたか?」
そう俺が問うと、彼は悪戯っぽく笑った。
「お前こそ眠れてねぇ顔してるな、クリウス君よ。」
——まったく、憎めない男だ。
「少し話したいことがある。いいか?」
急に真面目な声色になり、リートが窓際の椅子を指した。
二人で向かい合って座る。
朝の光が差し込み、囲炉裏の煙がゆらゆらと揺れた。
しばらくの沈黙。
リートはキセルをくゆらせ、一息ついてから口を開く。
「昨日も言ったが、俺は《パンドラ》の一員だ。」
「確認なんだが、あんたの言う《パンドラ》って……
千年前、“英雄デラク”が率いていたあの伝説の騎士団のことか?」
「ああ、その通りだ。信じられねぇだろうがな。」
「たしかに信じ難い話だ。だが……」
俺は昨日の戦いを思い出す。
あの悪魔を一瞬で屠った男。
帝国騎士団の上位でも苦戦する相手を、だ。
「信じるだけの根拠をくれ。」
リートはニヤリと笑う。
「簡単な話だ。俺がまだ生きてるのは、人間じゃねぇからだ。」
「は?」
思わず声が漏れる。
「人間じゃねぇなら、なんなんだ?」
俺の顔を見て、リートは愉快そうに笑った。
「自然な反応だな。だが、話すにはちょっと順番がある。
……お前、“英雄デラクと魔王サタンの戦い”を知ってるか?」
「ああ、当然だ。千年前、人類を救った伝説の戦い。
知らない者はこの大陸にいない。」
リートは懐かしそうに目を細めた。
「あいつ有名になってんだな。」
“あいつ”と呼ぶその口調に、俺は息をのむ。
「まさか、お前——」
「サタンと戦ったのは、デラクだけじゃない。
あの時俺もいた。」
俺の顔に驚きの表情が浮かぶ。
「なんだって? そんな話、歴史には残っていない。」
リートは少しだけ笑い、そして低く続けた。
「あの戦いで、俺は死にかけた。
そこで悪魔と契約したんだ。
だから、天使信仰のこの大陸じゃ都合が悪かった。
教会の連中が、時間をかけて俺の存在を消したんだろう。」
「……なるほどな。筋は通る。」
俺は腕を組む。
「だが、なぜ千年も生きていられる? 悪魔との取引か?」
「取引ってほど綺麗なもんじゃねぇさ。」
リートは窓の外へ目をやった。
「俺は“同化”したんだ。悪魔と、魂ごと。」
キセルの先から、赤い火がゆらめく。
「つまり、俺は悪魔でもあり、人間でもある。
だから、寿命という概念が、もうほとんどねぇ。」
俺は呆然としたまま、口を開く。
「お前まさか……“炎の魔神”か?」
リートがこちらを向いた。少し驚いた顔だ。
「まだ、その名前残ってんのか。」
「ああ。《パンドラ》の伝承の中で語られている。
“炎を自在に操る魔神のような男”。
教会の古い教本にも、そう呼ばれていた騎士がいたのを今思い出した。」
リートは静かに息をついた。
窓の外で、朝の光が霧を照らす。
「そうか……消されちゃいなかったんだな。」
その言葉には、どこか安堵の色があった。
長い年月を経て、自分の存在がまだ世界のどこかに残っていた。
——その事実が、彼の胸に小さな灯をともしたように見えた。
そして静かに立ち上がり、扉の方を向いた。
「クリウス、俺は《パンドラ》の生き残りを探そうと思っている。」
え?
「何言ってるんだ。《パンドラ》は千年前の騎士団だろ?
あんたみたいなイレギュラーでもない限り、生き残りなんているわけがない。」
リートはニヤリと笑う。
「俺達は総勢で約八千人の騎士団だった。その中には俺以上のイレギュラーもいっぱいいたんだぞ?」
苦笑しながら言葉を出す。
「まじか……」
リートは肩から腰に巻いていたベルトを締め直し、
なぜか肩だけにつけていた鎧の一部もしっかり整えた。
「それでは聖都に案内してもらおうか。
今の皇帝に会いに行ってやるとしよう、クリウス君。」
彼のニヤリとした笑い方が、より深みを増した。




