〜世界樹の怒り〜
大樹林に響いた低く柔らかな声。
その声ひとつで、世界そのものが深呼吸したかのように、空気が震えた。
振り返ったクリウスの目に映ったのは、
深緑のローブを纏い、肩まで伸びた淡い緑の髪を揺らす男。
その足元だけ、まるで季節が逆流したかのように花が咲き乱れている。
「“大樹林のパン“……」
クリウスの声は自然と漏れた。
「遅くなりすみません。ですが、この森に入った瞬間から、すべてを見させてもらいました。」
パンが振り返り、静かに、しかし確かな声でクリウスへ語りかける。
その声に、クリウスは我に返る。
「パン様! マリザ様が!」
パンはゆっくりとマリザへ視線を移す。
「マリザ、まだ立てますね?」
パンの鋭い問いかけに、クリウスは怪訝な表情を浮かべる。
「見ての通り、マリザ様はもう動けません!」
しかし、その瞬間、マリザがふらりと体を起こす。
「結構しんどいんだけどね」
「えっ!」
クリウスは思わず声をあげる。
見下ろしていたベルゼブブの表情には、少しの驚きが混ざった。
「ほう、まだ動けるのですか。少し舐めすぎていましたね。」
マリザはパンの横へと素早く飛び退いた。
「選手交代よ」
ベルゼブブはなおも余裕の表情を崩さない。
「ふふ、面白い。いつでもどうぞ」
“大樹林のパン“は微動だにせず、一歩前へ踏み出す。
左手を前に突き出し、低く唱える。
「神器“ユングラシルの蔓“」
深緑のローブから腕をつたう蔓が、まるで生き物のように伸び、鞭の形へ変わった。
同時に、パンとベルゼブブは宙へ跳躍する。
「今度は容赦しませんよ」
ベルゼブブが魔法を放つ前に、パンのムチが猛スピードで迫り、相手を捉える。
バコォォン!
ベルゼブブは勢いよく叩きつけられるも、倒れることなく踏みとどまった。
杖を高く掲げ、宙を払う。
「《シムーン・アロー(死風の矢)》」
杖から放たれた無数の風の矢が、頭上のパンへ一直線に突撃する。
しかし、パンは微動だにせず、落下しながら掌を突き出す。
「《怪樹》」
突如、掌から異形の樹木が飛び出し、矢の奔流を払う。
「マリザ様……パン様だけで大丈夫なのでは?」
クリウスが隣のマリザへ問いかける。
「うーん、確かにパンは負けない。でも勝つとも難しいわね。」
「なぜです?」
クリウスの声には戸惑いが混じる。
その問いにマリザはあっさり返答した。
「ベルゼブブは本気を出してないもの」
クリウスは慌てて戦場へ視線を戻す。
(これが本気じゃないって……!?)
マリザはゆっくりと空中に浮かび、パンに呼びかけた。
「パン!」
パンは一瞬マリザに視線を移し、再びベルゼブブへ。
「らちがあかないですね。どうでしょう、ベルゼブブ、私たちの本気の攻撃を受けてみませんか?」
ベルゼブブは少し考え興味深げに笑う。
「んふふふふ、いいでしょう。やってみてください」
マリザとパン、二人の目が鋭く光る。
「《グレイプニル(絶対的拘束)》」
マリザの呪文と同時に、地面から無数の鎖が現れ、ベルゼブブを縛り上げる。
「ほう……」
ベルゼブブの表情に焦りはない。
「今よ!」
マリザが叫ぶ。
「《パンラス(世界樹の怒り)》」
パンが両腕を地に突くと、地面が激しく揺れだし、後方の“世界樹“が動き出した。
マリザはクリウスを素早く雲の上に引き上げる。
「早く離れるわよ!」
クリウスとマリザが空中に舞い上がると、城ほどの幅の巨大な”世界樹“の根がベルゼブブめがけて降り注ぐ。
ドガァァァァン!!
衝撃が収まると、ベルゼブブの周囲は荒地と化していた。
世界樹の根はゆっくりと地面に戻る。
「規格外すぎる……」
クリウスが漏らす。
マリザは静かに雲を下ろし、先ほどいた場所に降り立った。
クリウスが隣を見ると、何事もなかったかのように、パンも同じ位置に立っていた。
土煙が晴れ、視界がクリアになる。
「流石は“大樹林“……本当に危なかった.....」
身体中に傷を負い、両腕を失っても、ベルゼブブはまだ立っていた。
パンとマリザは瞬時に構える。
しかしベルゼブブはため息をつくと、疲れたように口を開いた。
「今日のところはあなた方の勝ちでいいでしょう」
突風が辺りを吹き抜ける。
クリウスが反射的に目を塞いだ。
再び目を開けると、“風の王“は消えていたーー。




