〜大樹林のパン〜
“精霊の大樹林”へと足を踏み入れたクリウスとマリザは、かつてない脅威と相対していた。
六大魔王の一角――ベルゼブブ。
ソロモン72柱の最上位悪魔のひとりにして、“聖女”であるマリザすら恐れる相手。
当然、クリウスの胸中は穏やかではなかった。
――ザッ
無意識に足が一歩、後ろへ下がる。
(……死ぬ。ここで。)
本能が告げる。
だが、マリザの瞳にはまだ希望の光が宿っていた。
「久しぶりね、ベルゼブブ。戦いを好まないあなたらしくないわ。」
額に汗を滲ませながらも、声は震えない。
「ええ、私も不本意なのですが……“闇の王”直々の命令ですので。」
闇の王――誰を指すのかクリウスには分からない。
だがマリザの表情を見るに、あまり嬉しくはない相手らしい。
沈黙が落ちる。
「クリウス!後ろに!」
マリザの叫びと同時に、クリウスは反射的に跳び退いた。
「《アポカリウス・サウンド(終末の音)》!」
掲げた手の先で、ベルゼブブの周りに光の幕が生まれる。
「――《第六サウンド・ミカエル》!」
振り下ろされた手から、凄まじい光柱がベルゼブブを飲み込んだ。
「なんちゅう魔法だよ……」
クリウスは凄まじい光の魔法をただ見ているしかてきなかった。
(さすがの魔王でも……今のは効いたんじゃ......)
十秒ほどして光が薄れていく――
そこに立っていたのは。
「相変わらず素晴らしい攻撃魔法です。咄嗟に防御しなければ危なかったかもしれません。」
ベルゼブブは無傷で立っていた。
まるで彼の頭上に不可視の壁があるかのように、光は彼を避けていた。
マリザは肩をすくめた。
「……やっぱり、これじゃ無理よね。」
次の瞬間、ベルゼブブが消えた。
――ザシュッ
「……っ!」
マリザの首元から血が散る。
クリウスは駆け寄ろうと踏み出すが――
「大丈夫! それより離れてて!」
手から光を溢れさせ、マリザは傷を一瞬で塞いだ。
「さすが、天使の血を引くだけあります。」
ベルゼブブはそう言い、空へ舞い上がる。
掌から透明な雫がゆっくりと落ちた。
「《グラトニー・ゲイル(暴食の強風)》。」
――ドガァァァン!!
雫が触れた地面から、破壊的な風が爆散した。
大地を削り、森を裂き、クリウスとマリザの肉を削りながら吹き飛ばしていく。
◆
意識を取り戻すと、クリウスは木の枝にぶら下がっていた。
「っ……マリザ様!」
すぐに彼女を探す。
遠くには誰かの影。
「無事ですか!」
安堵して駆け寄った――だが。
そこに広がっていたのは、信じがたい光景だった。
悠然と立つベルゼブブ。
その足元には、ぴくりとも動かない“聖女”マリザの姿があった――。
クリウスは一瞬で思考が止まる。
——だが、ここで救えるのは自分だけなのだ。
そう言い聞かせながら震える足を鼓舞した。
その時、クリウスの背後で声が響いた。
「マリザ、よく頑張りましたね。」
振り返るとそこには、緑のローブを被る長身の男が立っていた。男の周りだけは削れたはずの大地が緑色の草や花に彩られている。
クリウスは悟る。この人が“大樹林のパン“なのだと。
パンは穏やかに口を開いた。
「この森に足を踏み入れたのは間違いでしたね。“風の王ベルゼブブ“」
クリウスはすがるしかなかった。現れてくれた一筋の希望へと——。




