八十九節 望郷
Side 一条 光
静まり返った室内。
全く音を立てずに動く影を見た。
その影の方向ではなく、カーテンで覆われた窓を見た。
空が少しずつ白み始めたのを伝えるように、空の色が全てを飲みこむ黒から濃紺へと変わる。
朝。
昔はこの時間が何よりも嫌いだった。
音もなくその影が病室の外に向かった。
私は着替えることなく、その後を追った。
その影が向かった先は、この建物の屋上。
互に足音を立てずに階段を上がれば、ヒュウと冷たい風が身体を凍えさせた。
病院の屋上は平らになっている。
そこで、影の主……澪は振り返った。
「おはよう光」
ニコッといつも通りに笑う澪。
「おはよう澪」
いつものように笑う私。
「帰るの?」
私の言葉に澪は笑う。
黒い軍服。
腰には彼女の愛刀。
そして腰にぶら下がる緑の組紐……サッシュは彼女が鷹司の人間ではなく篠宮の人間になったことを示すものだ。
「光は……戦争を終わらせるまで帰るの我慢してね」
「ふふっ、私はそんなに子供じゃないよ」
「それでも、光は私の従妹だからね」
そう言いながら彼女を見た。
「……帰ったら、篠宮さんにも、従兄さんにも怒られるだろうね」
「だろうね……みんなに怒られそう」
「澪、篠宮さんに監禁されない?」
冗談めかして言えば、少し渋い顔をしてから小さな声で「多分」と答える澪。
このやり取りが、物凄く懐かしく感じた。
「ねえ、光」
「なに、澪」
「冬の国に、春の風が吹いたよ」
ニコリと笑う澪はどこか楽しそうで、どこか切なそうだった。
「春の風?」
「うん。光の妹が運んだ春の風。私たちの『帝』が立ち上がった」
澪の言葉に思わず目を丸くした。
私の妹……春の国で育った香。
ただ、澪の言葉を訳すならば……。
香が春の国の空気を伝え、第二皇子殿下が決意なされた。
そう思うと、ふふっ、と笑いを漏らした。
「ねえ、澪」
「な~に?」
「香は……どんな子だった?」
「天真爛漫……でもあの子の明るさは寂しさを隠す仮面」
「私と一緒か」
「そうだね」
「一瞬だけね、会えるんだって」
私は何とも言えない気持ちで、そう言った。
人質交換の一瞬、私は生き別れた妹と会える。
ただ、その一瞬だけ。
「うん、『殿下』から聞いている」
澪は何とも言えなそうな顔でそう答えた。
彼女の指す『殿下』が第二皇子殿下だとすぐに分かった。
「香って、どんな子なんだろうって、ずっと思っていた」
「変わらない。光から聞いていた香と同じだったよ」
「そう……」
そこで空を見た。
濃紺から徐々に青さか勝ち始める。
もうすぐ――日の出。
「ねえ、光」
「なに、澪」
「お前も、覚悟を決めな」
すっと表情が変わる澪。
厳しい視線にいつもの柔らかさはない。
元・第四師団の副団長であった鷹司 澪の頃の表情だ。
「覚悟?」
「殿下が立つ覚悟を決めた。篠宮も、鷹司も、殿下に付く」
「……そう」
「あのクズの嫁になる前に足掻きなよ。自分の気持ちを押し通すなら」
澪はジッと私を見ながらそう言う。
まるで私の迷いを見透かすようだった。
「……家の為にアレと結婚するのが最善だと思っていた」
「違うね、なら国の為にアレと結婚するな」
ニッと笑う澪に、思わず私も笑う。
「そうね……」
「あ、日が昇っちゃいそうだからそろそろ行くね」
そう言いながら澪は空を見た。
もう少しで青空が訪れる。
日の光が顔を出すのはもう少し先だろう。
「光、一つだけ回避する手があるの、分かっているよね?」
「自分の価値を下げればいい」
「うん、あとは……後悔しないで」
そう言った澪はそのまま屋上から飛び降りた。華麗な身のこなしで、喜哉の高い建物の屋根をトン、トンと飛び越えていく。
その姿が城壁の上に行くまでは見た。
そして私は振り返る。
「……盗み聞きはあまりよくありませんよ」
そう言って、屋上から降りる階段に視線を向けた。
「おや、バレましたか?」
「澪も気づいていましたよ」
宵闇に紛れていた男は足音を立てて私の前まで歩いて来た。
私よりも頭一個分ほど大きな男。
春の国の第二騎士団の騎士団長――朝比奈 清澄。
彼は私と同じように病院の患者が纏う服を着ていた。
手に持っていたブランケットのような毛布をふわりと広げ、私の肩に掛ける。
「この早朝では冷えますからね」
「お気遣い、ありがとうございます」
そう言って私が向けた視線の先、喜哉の城壁に彼も視線を向けた。
「澪さんは帰られたのですね」
「ええ、『一条 光』は二人もいりません」
「そうですね、貴女だけです」
そう言いながら彼の温かい手が私の頬に触れた。
温もりが、妙に心地いい。
「本音を……聞いてもよろしいですか?」
彼が真剣な声でそう尋ねて来た。
するりと頬から離れる手を、名残惜しいと思う。
なんとなく――いや、彼の向ける視線の意味に気が付いていた。
「本音」
「……貴女は、冬の国に帰りたいですか?」
単刀直入……いや、ある意味では彼はオブラートに包んだ言い方をしている。
帰りたいか、帰りたくないかで言えば、帰りたい。
正確に言うならば、家族に会いたい。
でも、彼の聞いている言葉の意味は違う。
『私の隣に居てもらえませんか?』
策士である彼らしい言葉でもある。
思わず笑った。
「腹を割りましょうか、清澄さん」
そう言って笑いかければ、彼も笑った。
徐々に明るさを増す屋上で、彼の虹色の瞳がフッと和らいだ。
「そうですね、光さん。
――私は貴女に惹かれています」
想像通りの言葉に思わず笑った。
初めて――人からの好意を嬉しいと思った。
「私が、敵国の将校でも?」
「ええ、それが問題なのですよ」
「現実的ですね」
「貴女もでしょう?」
「そうですね……」
そう言って思わずため息を吐いた。
「……私が、もしも春の国で生まれて、何も知らずに貴方と出会って、何も知らずに貴方と共闘していれば、私は素直に貴方に好意を伝えられたでしょう」
私の言葉に清澄さんは一瞬驚いたように目を丸くしてからまた、フッと笑う。
「素直には、言ってくださらないですね」
「今は無理です」
「今は?」
私の言葉を正確に捉えた彼は復唱してくれた。
「私は多くの友が冬の国に居ます。そして春の国の空気を知った私はそのままにできません」
自分の想いを全て彼にぶつけることにした。
あとは、彼の答えを聞く。
「私は……母国を変えるつもりです」
はっきりと言い切った言葉に清澄さんは柔らかく笑った。
「我が国の女の扱い、貧富の格差、皇族の絶対権力。全てがおかしいと感じるようになりました」
私の言葉に彼は何も言わない。
「国を、変えてきます。」
「大変でしょうね」
「大変だと思います。でも不可能ではない」
そう言ったところで、私は深呼吸をしました。
「……待っていて、下さいますか?」
私の言葉に、彼の手が私の頬を包む。
その表情は楽しそうで、どことなく、従兄や篠宮さんが妻たちを見る目を思い出させる。
同時に、父が母を見ていた目を思い出した。
「私はこう見えて、名家の次期当主です」
「ええ、存じ上げています」
即答したけれども、彼は『血統魔法』を繋がなければならい存在だ。
私もまた、本来はそうであった。
でも、今はそうしたくない自分がいる。
「ですので、長くは待てません」
「そうでしょうね」
「なので、三年、私が待てる限界でしょう」
思ったよりも短いな、なんて思ったけれども、彼が従兄や篠宮さんと同じ年と思えば、当然なのかもしれない、と納得した。
「三年過ぎたら連れ去ります」
「え?」
思わぬ言葉に驚きながら彼を見た。
楽しそうに笑う彼はそのまま頬に当てた手で私と視線を合わせる。
「だから、全力で頑張ってください」
「なっ!?」
私の反論は彼によって塞がれた。
鮮やかな赤い日の光が青い空を染めていく。
私の彼の影が混ざり合ったのを、見るものはいないだろう。
ただ、私は唇の穏やかな違和感に、そっと目を閉じるだけだった。




