七十二節 騎士1
彩眼、というのは便利であると同時に、恐ろしいものです。
兄上が浮かべた紫が少しずつ薄らいでいく。
光さんが意識でしょうか?正気と言えばよろしいのでしょうか?
とりあえず平静を取り戻されたところで、私は視線を動かしました。
急に静かになった『蝕毒』を見ます。
ずっと叫んでいたその物体は、人の形をしたまま、動かなくなりました。
まるで、落ち着きを取り戻したかのように、座ったまま。
「……川上 瑠璃子と言う名を知っておりますか?」
光さんの澄んだ声がその場に響き渡りました。
私も、兄上も、そして、誰よりも昆明が息を呑みました。
「……どこでその名を?」
兄上の声が少し低くなりました。
「……記憶を見てしまいました」
静かな光さんの言葉に、澪さんが息を呑みました。咄嗟に澪さんは光さんに顔を両手で固定して、視線を合わせながら「大丈夫?」と聞いています。
「光、共鳴は?」
「解けたけどまだ繋がっている」
澪さんが焦るように光さんの手を握りました。
けれども、光さんはその手をそっと離し、首を左右に振りました。
「川上 瑠璃子は禁術によってあの姿になってしまったそうです」
光さんに言葉に私たちは何とも言えない気持ちで視線を向け合いました。
ええ、兄上からしても二つ上の先輩でしたし、何よりも――。
そう思ってチラリと昆明を見ました。
浮かべた色は紫と黒、そして赤。
混乱、不安、そして怒り――。
「父に憧れ、慈しまれ。
友を得て、切磋琢磨し、そして戦場に出ました」
光さんの通る声は何処か悲しそうな声色でした。
でも浮かべる色が透き通るような青。
彼女の言葉が真実だと、彩眼が伝えてくるのです。
「そして、戦場で捕虜となりました」
不思議と、結界内に風が吹きました。
まるで優しく『蝕毒』を撫でるような風は何処から吹いたのかわかりません。
「希望を持ち続けていたのに、仲間に裏切られ、彼女は禁術であの姿になりました」
その言葉を最後に、光さんが口を一の字にして黙りました。
同時に昆明が真っ黒い色を浮かべて小さく口をお動かしました。
「……姉上の、親友だった方です」
昆明が静かに答えた言葉に光さんが悲しそうな顔をされました。
「やっぱり、そうなのですね。
学生の頃、仲が良かったようですね。『百合』さんという方と三人で。」
そう言いながら、光さんが立ち上がりました。
私たちはハッとします。
光さんには『冷泉 百合子』の存在を伝えていないのに、彼女の口からその名が出たのです。
ガシャ、ガシャと瓦礫の上で歩く音が妙に生々しく感じました。
光さんは落とした剣を拾い上げながら、前に出て歩いていく。
「彼女が、その川上 瑠璃子だそうです」
そう言いながら、光さんは剣を鞘に戻した。
『ゴオ、ジデ』
『蝕毒』から奇声が発せられた。
光さんは悲しげな表情で口を開いた。
「殺してくれ、と叫んでいます」
まだ、何かに乗っ取られるように、光さんの足取りがふらついている。
でも、何故か動くことが出来ない。
「こんな状態になっても自我を保って、そして抗おうとし続けた貴女を心の底から尊敬します」
光さんがそう言いながらジャリ、ガシャと瓦礫の上を歩きながら近づいていく。
誰も、動けなくなるほど、静かで、神々しい光景に見えた。
人型に近いその『蝕毒』は結界に手を伸ばした。
それが、まるで助けを求める人間のようで、なんとも言えなくなった。
『あげご、ど、ゆり、お゛、どめで』
女の声で確実に人間の言葉に近づいている。
そして、私も昆明も、そして兄上も、彼女が伝えようとしている言葉を理解した。
『“朱子と百合を止めて”』
「……貴女の親友二人を止めるには、貴女が逝かないと、無理です」
まるで光さんは心が読めるかのように『蝕毒』の目の前に立った。
『蝕毒』は座る人間のように上体を起こした。
起き上がった身体は、完全に皮のない筋肉の筋が露わな状態だが、
そのシルエットは完全に女人の身体に見える。
『わがっで、る』
「貴女の言葉が二人のトリガーになりました」
『わがっで、る。だ、がら、どめだい』
光さんの淡々とした言葉に、『蝕毒』は答えた。
どうやら、朱子殿下と百合子さんがこのような大それた『掃討戦』を行ったきっかけは、この『蝕毒』……いいえ、『彼女』だったのでしょう。
『ぜん゛ぶ、あだじのぜい』
――全部私の所為。
その言葉に思わず私も手を握りしめてしまいました。
『彼女』の所為なんかではない、と叫びそうになりました。
でも、その言葉を『彼女』が望んでいないのも分かります。
グッと、口を閉じるしかできませんでした。
「そう。望みはありますか?」
『げんで、じにだい』
――剣で死にたい。
光さんが鞘ごと腰から抜いた剣の柄を『彼女』に向けた。
その柄を差し出す手が少し、震えた。
浮かび上がらせた色が紫。平然として見えて、光さんが迷っているのだと、気が付かされました。
「光!」
澪さんの叫び声に、光さんは唇に指をあてて黙るように伝えます。
剣を構えたままの澪さんはぐっと抑え込みました。
「澪、大丈夫。飲まれているわけじゃない。
この人に自分で選んでもらいたいだけ。」
静かな光さんの言葉に誰もが黙りました。
『彼女』は迷わずに、その柄に手を伸ばした。
いつの間にか、『彼女』の触手は、手になっている。
まるで手慣れたように『彼女』はその剣を抜いて、自分の方に刃先を向けた。
『あげご、ゆり、に、ごめん、で、つだえで』
「分かりました。止められるかはわかりませんが、伝言はいたしましょう」
『あ゛ど、だいずぎ、っで、』
光さんの言葉に何故か『彼女』が笑ったように見えた。
『大好き』
その言葉は知り合い程度の私ですら、いつも言っていた言葉だと知っている。
『あの人』が朱子殿下や、百合子さんにその言葉を言いながら、笑顔で抱き着いていたのを何度となく、見た。
最早、士官学校時代の、三歳年上の先輩であった三人の、恒例行事のような光景。
思わず奥歯をぐっと噛んだ。
抑え込まないと、叫んでしまいそうだ。
ジュシャッと肉にめり込む音。
『彼女』が剣を握りしめて、光り輝く『核』ごと自分を貫いた。
騎士らしく、一度貫いた後に、もう一度、剣を奥に差し込む。
ジュジュット焼けるような音が響く。
『彼女』の液体が、昆明の結界に当たり、焼ける音。
錆の匂いが充満する中、『彼女』は目を細める。
『あ゛りがどう』
そう言った瞬間だろうか、黒い靄のようなものが『彼女』から解き放たれた。
日々の入った核が、赤黒い色から、綺麗な赤に光り輝く。
まるで呪縛から逃れたかのように、『彼女』から黒さが消える。
言うなれば皮のない人間のような彼女の肌が、少しずつ人間の肌に近づいていく。
ふわりとなびいたのは、赤茶色の髪。
ニコリと笑う細められた目は、綺麗な瑠璃色。
『騎士として、死なせて、くれて、ありがとう』
はっきりと、言葉が聞こえた。
その声に、聞き覚えがあった。
そして、その姿は――川上 瑠璃子そのものだった。
サラサラっとまるで灰が風に吹かれるように体が崩れていく『彼女』。
カランカラン、と響いたのは剣が転がる音。
気配が、無くなった。
自然と涙がこぼれた。
息の仕方が分からなくなるほど、悔しさ、悲しさが押し寄せてくる。
同時に、隣を見た。
紫、黒、赤、青、色んな感情をグルグルと巡らせた昆明が、
涙をそのまま溢して前を見ていた。
昆明は何も言わずに結界を解いた。
バラバラと崩れ落ちる黄色い結界は、まるで『彼女』を送り出す餞のようにも見えた。
ジャリ、ガチャ、と瓦礫を踏みしめる音が響いた。
「……さあ、止めに参りましょう。彼女が望んだように」
落ち着いた光さんの声が響く。
彼女は落ちた剣を拾って、鞘に納めて腰に戻す。
握った柄を持つ手に、青筋が立っているのに気が付いた。
その指先が白くなるほど握りしめている。
光さんが浮き上がらせた色は黒煙の中に赤い稲妻。
ビューっと強い風が私たちの間を駆け抜けた。
『彼女』だったものはその風が、空まで運んでくれるだろう。
光さんが浮かべた色はまるで伝染するように、兄上、澪さんと同じ色を浮かべていく。
いや、私も、同じ色を浮かべているだろう。
穏やかな怒りお抑え込んだ全員が見た先は、喜哉の外だった。




