(9)命令違反
「どういうことだよ!」
そう叫んだのは水原であった。
眞理子はシフト表に目を通しながら、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「言った通りだ。命令違反の罰則として、結城・水原両名は始末書の提出と一週間の内勤を命ずる。共同で倉庫の備品整理と本部内の清掃、朝晩の装備点検にあたるように。以上だ」
山開き第二週――この日は立て続けに出動要請が入る。
おまけに、結城と新人二人が起こした問題も絡んで、南は麓の警察病院に向かったきりだ。幸い大きな問題には至らなかったが……。結城と水原はしでかした明らかな命令違反を、眞理子は処分しないわけにはいかない。
「待てよ、何で処罰なんだ!? 俺らは人を助けただけだぞ!」
玄関ホールでの終礼を終え、落ち込む結城とは逆に、水原は眞理子に噛み付いたのだった。
~*~*~*~*~
それは本日午後の出来事だ。眞理子は結城・島崎と組んで、須走口から頂上までを巡回パトロールにあたっていた。
このルートは下山道として利用されるほうが多く、八合目で吉田口との分岐点がある。看板は出ているのだが、ここを誤って静岡県側に下りてしまうケースがこの時期後を絶たない。中には、下山道を引き返そうとする無謀な人間もいて、軽微な事故も多発していた。
七月に入り、山開きそのものが“安全宣言”の扱いだ。この期間は、よほど急激な天候悪化でなければ登頂禁止命令など出せない。
もともと禁止と言っても、山全体にバリアを張っている訳ではない。登山計画書を提出せずに登れば、フルシーズン無断で登山は可能なのだ。
ある意味、真正面から怒鳴り込んでくる“議員様”より悪質だろう。もちろん、まともな登山家はそんな真似はしない。だが、まともでない人間は何処の世界にもいるものである。
この日は、下山ルートで起こった実際の滑落現場での訓練を行う予定にしていた。
だが、ちょうどその付近で、下山途中に迷子になりかけた四人のパーティを保護する。いずれも五十~六十代の男性二人女性二人であった。危険性は少なかったが、眞理子は結城に下山ルートへの誘導だけでなく、新五合目までの同行を命令した。
一方、道案内は結城に任せて、眞理子と島崎は訓練を続行。
直線距離約十メートルの位置に要救助者がいると想定して、下降器を使って訓練を行う。使用する下降器は、エイト環といわれる八の字の形をした器具だ。手順通り下降していたはずが、残り一メートルとなった時にトラブルが発生した。
島崎の中で、もう飛び降りることも出来る高さだ……そんな思いがミスを誘発した。だが“飛び降りる”のと“落ちる”のはわけが違う。彼が制動操作を誤り、岩場に激突しかけた瞬間――眞理子が補助ロープで急制動を掛けた。急な動作は体に思わぬ負担を掛ける。眞理子は島崎を須走口の新五合目から下山させ、病院に行かせたのだった。
その後、五合本部に戻った眞理子の元に滑落者発生の一報が入る。富士宮口からさらに西、七合目と八合目の間であった。緊急出動要請のため、水原を結城に任せ、眞理子と南で出動することに。
「万一、出動指令があったときはすぐに連絡するように。間違っても二人で出動はするな」
しかし、間が悪いことにアクシデントは重なるものだ。
更に出動事案が発生してしまい……。無線で報告を受けた眞理子は、即刻出動停止命令を出すが二人は無視した。
そして現場に到着した後――
『三合目のハイキングコースなんです。子供が滑り落ちたということで、怪我も大したことないみたいで……。登攀が必要な崖でもありませんし……。おそらく、素人でも可能な高さかと。ただ付き添ってるのが子供の祖父母ということで』
結城の報告は全く要領を得ない。完全に及び腰というべきだろう。水原が強引に連れ出したらしい。
眞理子は無線で怒鳴るような真似はせず、
『事情は判った。七原・佐々木がすでにそちらに向かっている。到着に一時間程度は掛かるが、日没までには余裕で間に合う。その間、お前たちは保護者を落ち着かせ、子供を励まして七原らの到着を待て。いいな、命令だ』
そして、隊長命令は再び無視されたのだった。
~*~*~*~
結城が無線を切り振り返った時、水原はすでにロープを張って崖下に下りようとしていた。
下で待つのは七歳の少年、小学二年生だという。
「水原さん! あんた、いい加減にしろよ。隊長命令に逆らったらクビだぞ!」
「あんな女の命令が聞けるか!」
「貴様!」
結城は先輩だが、年齢も登攀技術も水原より下だ。おまけに、眞理子を挟んで険悪な二人である。意見など合うはずもない。
そんな二人に、横から遭難者の祖父が詰め寄った。
「どうして助けに行かんのだ!? 孫はほら、すぐそこじゃないか。わしらには無理でも、あんたらみたいに若ければいくらでも行けるだろうに。孫を見殺しにする気か!」
その言葉に、結城の水原を引き止める腕に迷いが生じる。水原は結城の腕を振り払い、とうとう一人で子供を助けに向かったのだった。
確かに、結城の目にも水原の動きは的確で素早い。
心配された遭難者の救助方法も、ここ十日あまり南の特訓を受け、目覚しく上達している。結城は老夫婦の視線を感じ、ボンヤリと立ち尽くす自分が恥ずかしく思えた。その結果、連絡も忘れて水原のフォローにあたってしまい……。
一時間後、七原・佐々木組が到着した時、老夫婦はレスキュー隊に感謝して山を下りて行く所であった。子供は富士宮市内の警察病院で検査を受けた結果、無傷と診断された。
~*~*~*~*~
眞理子は追い縋る水原ではなく、結城を見て訊ねた。
「結城もそう思うのか?」
「……申し訳ありませんでした」
顔を上げることもせず、結城は謝罪する。
その姿を見て、さらに怒りを燃やしたのが水原だ。
「なんで謝るんだ。じいさんもばあさんも、あんなに感謝して下りていったろ? 第一、お前は何もしてないだろ? 俺を止めようとしただけなのに、処分されるのは不当だって言えよ!」
「水原――私は出動するなと言ったんだ。現場に出た時点で命令違反だ。結城は待機の命令も無視し、連絡も怠った。この次やったら、強制的に山を下りて貰う。以上だ。全員解散」
眞理子の厳しい声が玄関ホールに響き、全員が疲れた表情を引き締めたのだった。
時計はもう二十二時を廻っている。
南は警察病院に、今日救助した怪我人の確認と、島崎を迎えに下りていた。
今夜の当直は眞理子だ。『異常なし』の定時連絡が主な仕事だが、出動要請があった場合は、五合本部と宿舎内に警報を鳴らし、全員を叩き起こすのが役目である。
(……食事は副長が戻ってからだな)
すきっ腹にコーヒーでも流し込もうとカップを手にした時、背後に人の気配を感じた。直後、振り返る間もなく、いきなり後ろから両腕を押さえ込まれ――。