(前編)
☆本編の5年前(眞理子24歳)の頃の話になります。
眞理子が富士で過ごす六度目の夏――それは、山じまい直後の出来事だった。
その少し前、彼女は恋人の藤堂潤一郎を伴い鎌倉の実家に戻っていた。もちろん、結婚の許しを得る為だ。十三歳の年齢差を気にして渋る父を説得し、年が明けて、眞理子の誕生日に入籍するつもりだ、と報告した。
涼しくなれば登山客も減る。時間が出来れば今度は藤堂の実家に挨拶に行こう。藤堂の亡き妻と娘の墓にも参ろう。それは、形式を伴い面倒なこともあったが……。
人生で最も幸福な時間を過ごすはずの二人に、運命は過酷な結末を用意していた。
当時の眞理子は四年来のパートナーである秋月航隊員と組み、山岳警備隊のエース的存在に成長していた。
山の天気は変わりやすいと言われる。その日も例外でなく、悲劇の始まりは突風であった。
新五合目より低い位置で山道から森に迷い込んだハイカーの救助。眞理子は同僚の美樹原一也隊員と組んで出動する。レスキューそのものは決して困難とは言えず、この日、急遽休みを取った秋月に代わって藤堂がサポートでヘリコプターに同乗していた。
深い森ではあったが、幸いハイカーが発炎筒所持していた為、位置は容易に確認できた。操縦士は木々が途切れた安全地帯を見つけ、慎重に機体の向きを変えつつホバリングさせる。そこからロープで美樹原、眞理子の順で降下。
要救助者は急斜面を谷川に向かって滑り落ちたらしく、川沿いを下るうちに森の奥に入り込んでしまったらしい。目立つ外傷はなかったが、頭をぶつけており眩暈を訴えたので担架を下ろして貰うことになった。それに要救助者を固定し、再びヘリコプターからのロープに繋ぐと昇降機で巻き上げを開始する。担架のサポートには美樹原がついた。
眞理子は担架が枝に触れないよう下から目視し、無線で藤堂に伝える。極めて慎重に、枝が張り出している部分さえ過ぎれば……あと少し、眞理子がそう思った瞬間だった!
ふいに機体が突風に煽られ、風に流されたのだ。
振り子の原理で担架は大きく振られ、木に激突する。ロープが枝に絡み、一瞬のうちにヘリコプターは傾いた。回転するプロペラが凶器となり枝を切断し弾き飛ばす。眞理子の頭上に大小無数の枝が雨のように降り注いだ。
とても見上げてはおられず、両腕で顔を覆うが……。
『沖! 逃げろーーっ!!』
無線から聞こえたのは藤堂の叫び声だった。
眞理子はハッとして視線を上げる。すでにヘリコプターは真横になっていた。プロペラは折れ曲がり、動力部分から煙が見え――墜落は免れない。そう思った瞬間、眞理子は木々の間に飛び込む。
森を揺るがす轟音。墜落の風圧に背後から煽られ、眞理子の体は木に叩き付けられた。そして細かな金属の欠片が眞理子の体を襲う。
何が起きたのか、眞理子の頭の中は真っ白だった。
有沢操縦士は四十代、飛行時間三千五百時間を越えるベテランである。操縦ミスなどありえない。吊られていた要救助者と美樹原はどうなったのか。そして、ヘリコプターに乗っていた藤堂は……。
眞理子は震える自分の膝を叩き、気合を入れて立ち上がった。深呼吸を一つすると、
「隊長ーーーっ! 美樹原さーーん! 返事をしてくださーーい!」
異臭は漂うが機体は炎上していなかった。
これから燃料に引火して燃え上がるのが、それとも、炎上は免れたのか、眞理子には判断が出来ない。
眞理子は覚悟を決め、墜落したヘリコプターに近づいた。ロープは切れており、繋がれていた二人が機体の下敷きになった様子はない。わずかに胸を撫で下ろし、眞理子は中を覗き込んだ。そこに藤堂の姿はない。有沢操縦士は操縦席に座ったまま、すでに事切れていた。
出動直前、自分の妻もひと回り年下だと有沢操縦士は藤堂の背中を叩いていた。元気だった姿が次々に浮かんできて、眞理子は込み上げる涙を袖口で拭う。
そして表に出た眞理子が機体越しに目にしたのが――藤堂であった。
どうやら、開いたままの開口部から、外に放り出されたらしい。眞理子は慌てて近寄るが、血塗れでグッタリした婚約者の姿に、触れることが出来なかった。
(有沢さんと同じだったら……私はどうすればいいんだろう……)
「……隊長……藤堂隊長……?」
それは蚊の鳴くような声だったと思う。
眞理子の声が聞こえたのかどうかは判らない。だが、藤堂は薄っすらと目を開け、指を動かした。
「隊長!」
眞理子は藤堂に飛びつく。
「沖……怪我は?」
「かすり傷です。問題なく動けます! すぐに救助を」
藤堂の状態を確認しようとした時、彼は指差したのだ。その方向には、担架に乗ったままの要救助者と、彼を庇うようにした美樹原がいた。ロープが枝に絡んだおかげか、幸運なことに地面に激突寸前、地上一メートルの高さにぶら下がっていた。
「俺は……後だ。先に、二人を……それから、有沢さんを」
藤堂の指示に従いつつ、眞理子は有沢の死を報告する。
「そうか……」
藤堂はそれ以上言わなかった。
要救助者に外傷はなかったものの意識はなく、呼吸と脈拍が微弱なことから、滑落時の脳挫傷が疑われた。
そして美樹原は太腿に太い枝が刺さっていた。すでにかなりの出血があり、この場で枝を抜けば失血死に至る危険があった。直後は意識があり、下半身の麻痺を訴えたが……救助を待つうちに美樹原の意識もなくなる。
藤堂の怪我は右側に集中していた。
後日、眞理子が美樹原から聞いたところによると――藤堂は美樹原たちがヘリコプターの下敷きにならないよう気遣い、ギリギリまで身を乗り出して、墜落寸前のところでロープを切断したのだという。おそらくは、そのままの体勢で放り出されたのだろう。
頭部はヘルメットで守られていたものの、右腕は全く動かず、右肩の骨折は明らかだった。胸部から腰にかけても痛みを訴え、右足は膝から下がまるで潰れたような形になっていて……。
眞理子はあまりの痛々しさに、応急処置の際、直視することが辛かった。
それでも、意識のある藤堂に命じられるまま、眞理子は無線で救助を呼んだ。
すぐに別の救助ヘリが麓から向けられた。まずは意識不明の要救助者から担架ごと吊り上げられた。眞理子がサポートして上がり、彼女は再び降ろされる。次に美樹原を、と思った時、
『日没につき、ヘリでの救助活動を一旦休止する。日の出を待ち、活動開始とする』
無情にもヘリコプターは三人を残して、要救助者のみ病院へと搬送したのだった。
眞理子は無線に向かって叫んだ。
『怪我人があと二人いるんです! せめてあと一人、美樹原隊員だけでも救助して下さい! 一人なら十分も掛かりません!』
山は夜半から雨の予報だった。明日も降り続いた場合、ヘリコプターの出動は制限される可能性がある。
しかし、山岳警察本部の返答は、
『山岳警備隊のメンバーと消防レスキュー、麓の山岳救助隊員が徒歩でそちらに向かっている。救助を待つように』
ヘリコプターならわずか二十分も掛からない。しかし、徒歩で事故現場まで辿り着こうとすれば……おそらく、熟練の登山者でも八時間から十二時間は掛かるだろう。
それなりのレスキュー経験を持つ眞理子の目に、二人とも可及的速やかに、病院に搬送する必要があるのだ。重傷者を担いで下山するわけにはいかない。担架状のものをソリのように使うとしても、眞理子が連れて下りられるのは一人だけ……。
痛いほど無線を握り、立ち尽くす眞理子に、藤堂は掠れる声で話しかけた。
「沖、お前は動けるか?」
「……はい。動けます」
眞理子は唇を噛み締め、懸命に涙を堪える。
そんな彼女に藤堂は極めて冷静な声で伝えた。
「なら、命令だ。美樹原を連れて下山しろ」