(20)約束
次の瞬間、
――必ず生きて帰れ。絶対に諦めるなよ。
自らの命を犠牲にし、眞理子らを救った相棒・秋月の声が耳に響いた。
息苦しい……酸素不足で意識が落ちそうになる。だが、どんな状況に陥っても眞理子に諦めることは許されない。胸の痛みに耐え、再び右足に力を籠めた。しかし、泥は彼女を水底に捕らえ、そう簡単には放そうとしない。
(富士に帰ろう――南と約束したんだ。こんなところで、死んでたまるかっ!)
直後、眞理子の腕を誰かが掴んだ。視界が最悪でその姿は全く見えない。だが、それが南であることを眞理子は確信していた。
その腕は眞理子の体を引っ張る。そして彼女の足が泥に嵌まっていることに気付き、今度は右足を掴んで引き抜こうとした。しかし、眞理子の息がそろそろ限界だった。
(クソ……体が……重い)
同時に泥を蹴れば、足は抜けるはずなのに……もう、そこまでの力が残っていない。
だがその時、別の腕が眞理子の襟首を掴み、思い切り上に引っ張った。右足の拘束が解かれた瞬間、眞理子は最後の力を振り絞り、水面を目指したのである。
顔を出した瞬間、眞理子は必死で息を吸う。酸素の存在を、これほどありがたいと思ったことはない。湿った空気が空っぽの肺に流れ込み、血液を伝って体の隅々まで行き渡った。
ホッとしたのは一瞬、彼女は自力で岸まで泳ぐ。地面に這い上がった時、体は泥まみれで信じられないほど重かった。限界を超えた消耗に、全身の筋肉が悲鳴を上げたのだった。
そんな眞理子のすぐ後に、二人も岸に上がって来る。
「お前……無茶、だ……」
光次郎も苦しそうにしながら、それでも文句を言う。
「よく……わかった……ね」
声が掠れて眞理子は上手く話せない。
「下で……助かる、可能性の、ある……場所と聞いたら、ここだと彼が……」
南も辛そうに肩で息をしていた。
そんな南の言葉を受け、光次郎は「普通、死ぬって……信じらんねー奴」呆れた様子で呟いた。
眞理子は駆けつけた消防隊員から水を貰い、口を漱いだ。それを二~三度繰り返し、ようやく人心地がつく。
「泥に足を取られたのは計算外だったけど……南が私を信じてここまで来る事は、計算の内だよ」
眞理子の言葉に南は恥ずかしそうに笑う。
しかし光次郎は、
「ケッ! 強がりが」
「光次郎も、信じて下りてきてくれて助かった。二人とも……ありがとう」
「べ、べつに……礼なんか」
眞理子に正面から礼を言われ、光次郎は照れくさそうに横を向く。
金網の向こうに数台の緊急車両が到着した。救急車、消防車、パトカー……その車両の影から父の姿が見える。どうやら、眞理子が落ちたと聞き、慌てて駆けつけたようだ。
薄い光の射し込む中、救急隊員が二人、担架を手に走ってくる。
「墜落した方は何処ですか? 意識はありますか?」
最悪のケースも想定して来たのだろう。二人を安心させようと眞理子は片手を挙げ、「ああ、もちろん大丈夫だ……」
その眞理子の言葉尻を奪い、光次郎が言った。
「落ちたのは人間じゃねぇから、気にすんな」
「光次郎っ!」
目を丸くする救急隊員の横で、珍しく、笑い転げる南だった。
~*~*~*~*~
「本当にすみませんねぇ。何だか大変な夜になってしまって」
昨夜の騒動が嘘のような朝である。
さすがに高徳院の大仏見学はなしになり、朝の十時過ぎ、南は眞理子と共に北鎌倉の駅前に立っていた。見送りに来ているのは、眞理子の母ひとりだ。
南は微笑み、
「いえ、いつものことですから……」
昨夜と同じ返事をした。
「ねぇ、父さんは何か言ってた?」
眞理子にすれば役職と階級がバレたことが気になるのだろう。そんな彼女に母親はあっさり言う。
「ああ、レスキューのこと? それは知ってましたよ。何のためにお父さんが向きになって、あんたの結婚相手を探してたと思うの?」
両親とも、眞理子がレスキューの仕事を続けていることに気付いていたと言う。まさか隊長とは思わなかったようだが。
「……怒ってんだろうね」
眞理子の言葉に母親は軽く首を横に振る。
「お父さんね、消防の息子はもういらないって。あんたがいるから、それでいいって言ってた。良かったね、眞理子」
母親につられて眞理子も柔らかい笑顔を見せた。隊長でない彼女の笑みに、南もホッとしたのだった。
一駅でJR東海道本線に乗り換え、二人は向かい合って座る。平日の午前中ということもあり、車内はガラガラだった。眞理子と二人きりの貴重な時間も、あと二時間ちょっとで終わる。
(薔薇というより茨の休日だったなぁ……)
南は感慨深げに、外を見る眞理子の横顔を見つめた。
今回の件では風見本部長に〝借り〟が出来たと言う。あの風見のことだ。眞理子を困らさないかと不安でならない。だが、恋人役はもう終わったのだ。ただの部下には上司のプライベートに口を挟む資格はなかった。
「あ、あの……遠藤さんですけど、大したことなくて良かったですね」
本当に聞きたいことは別にあるのだが、中々切り出せない。
「そうだね。後遺症の残るような怪我でなくて、本当に良かった」
遠藤隊員は頭蓋骨線状骨折という診断だった。しかし脳内に二次的な障害が見当たらず、数日の入院で後は保存的治療となるらしい。
「あの、隊長……」
「そう言えば、銭湯で光次郎と何を話してたの?」
「え? ああ、そんな大したことでは……」
全身泥まみれの三人は、近くの銭湯に入らせてもらえる事になった。
そこは眞理子や光次郎の同級生の実家で、「眞理ちゃんなら男湯だろうが」と銭湯の主人は笑わせてくれた。
「アイツさ……富士でもこんなヤバイことしてんのか?」
広い男湯に光次郎と二人で入る。はじめは黙々と体を洗っていたが、一息ついた辺りで光次郎が声を掛けてきた。
南は「いえ、今日はまだまだ序の口です」と本当のことを言い掛けて止める。どうやら、光次郎は相当落ち込んでいるようだ。
「アイツは確かに怪力女だけどさ。それでも女なんだぜ。本気で惚れてんなら……どうにかしてやれよ」
南はこの時、光次郎にとって眞理子は〝隊長〟ではなく、幼なじみの女性に過ぎないことを理解した。だが、南にとって眞理子は〝隊長〟であることが優先だ。
南はどちら正しいのか少し悩み……そして、どちらも正しいのだ、という結論に至る。
「どうにも出来ないと思います。私に出来るのは、彼女を信じ、見守ることだけです」
「……情けねー奴」
「はあ……そうですね」
「ま、俺もあんまり変わんねーけどな」
少し冷めていたが、広い湯船に浸かるのは気持ちが良かった。うっかりすると、そのまま眠ってしまいそうになるほどだ。南は冷たい水で顔を洗い、先に上がろうとした時、光次郎が呼び止めた。
「眞理子は俺たちに礼を言ったけど、アイツを助けたのはあんただよ。俺は信じられなかった。間に合ったのは……あんたが眞理子を信じたからだ」
だが、光次郎が貯水池のことを思い出さなければ、南独りでは助けに行くことすら出来なかったはずだ。
「いや、悔しいけど、俺じゃダメなんだ。眞理子はあんたのことを〝なくてはならない人〟だって言った。だから――ちゃんと傍にいてやれよなっ」
光次郎はその言葉と共に南の背中を叩いた。それは南に勇気を与え、そして悩ませたのだった。
眞理子は屋久島でも救助した少年に「今一番、隣にいて欲しい人」「代わりのいない人」だと南のことを評したらしい。それはどういう意味なのだろう。南はそれを眞理子に尋ねたくて、口に出来ずにいる。
「ああ、そう言えば……吉田さんがどうしても気になることがある、と言ってましたね」
「光次郎が? 何?」
「隊長と一緒に消防士を目指したのに、どうして急に警察官になったのか、と。隊長……どうして消防士になるのを辞められたんですか?」
それは南にとっても疑問だった。
すると眞理子は頬杖を付き外を眺めたまま「……落ちた」――ひと言呟く。
「は?」
「だから、消防士の採用試験に落ちたのっ! 海保も落ちて、警察しか受からなかったのよ」
よほど悔しかったのか、眞理子にしては珍しく薄っすらと頬を染めている。
「そ、それは……残念でしたね」
「どうせ馬鹿だからねっ。まあ、消防はホッとしてるでしょうね。不採用で正解だったって」
「私たちにすればラッキーでした。消防の試験官に見る目がなくて」
それは南の本心だ。眞理子と出逢えて、心の底から良かったと思える。
「あーあ、でも、これでうちの親父から見合い話は来ないだろうから……。本腰入れて、自分でいい男を見つけないとね」
それでも眞理子は肩の荷が降りたように笑いながら言った。
その和やかなムードに南の口も軽くなる。
「いい男なら……ここにも居るんですが」
「何? 南も候補に入れていいの?」
「もちろんです。あと……五年経っても独身なら、私で手を打ちませんか?」
「……」
「登攀ではベストパートナーだと思うんです。こうして一緒に居ても違和感はないですし……。それに、私なら山を下りてくれとは言いませんし、どんなサポートでもします」
「……いいよ」
「もちろん、無理にとは言いませんし、ご不快に思われたら取り消しても……え?」
南は言葉にすることに必死で、眞理子の返事を聞かずにいた。
「今……なんと、おっしゃいました?」
「五年後も南とこうして一緒に居るなら、きっと八十になっても一緒に居そうな気がするなぁ。なんてね」
眞理子の屈託ない笑顔に、南は浮かれて万歳をしそうになる。
(い、いや、待て……落ち着け。何かの勘違いかも知れない)
「あの……それは、将来は私と」
「二つだけ、約束して欲しいんだ」
南の問いかけを遮り、眞理子が口を開いた。
それは至極真面目な顔つきである。南も気を引き締め「――はい。なんでしょうか?」と答える。
「私より先に逝かないで欲しい。そして、もう一つ……私が先に逝っても許して欲しい」
眞理子は小さな声で「我がままでごめん」そう付け足した。
南は万歳の代わりに、ゆっくりと微笑んだ。
「平均寿命までは頑張りますが、その先は勘弁してもらえますか? 自分の方が年上なので……」
少しだけ開いた窓から優しい風が吹き込み、眞理子の髪を靡かせた。ガラス越しに秋の陽射しが煌き、眩しさに南は目を細める。富士までの二時間は五年間に延長され、共に歩く未来を約束した……。
(……あれ? 五年以内に隊長に別の男が現れたら……どうなるんだ?)
二年、せめて三年にしておけば良かったと後悔する南であった。
(第四章 完)
御堂です。
第四章最終話までお付き合いいただき、ありがとうございました。
普段、とりあえず押し倒してから恋愛が始まるような話ばかり書いてるので……本作のようなシチュエーションはとても新鮮です(苦笑)
年齢の割に積極性と経験値が低めの南副長と、経験値は高そうなのに受身の恋愛ばかりしてきた眞理子隊長。
5年は長いよなぁ…一発逆転を狙う人たちも出て来そう。
藤堂元隊長がマジで迫れば、絶対に盗られそうな予感(^^;)
とはいえ、南、よく頑張った!
2人の未来の約束が叶えばいいな、と願っています。
1ヵ月の中断にも関わらず、最後までご覧いただいた皆様、本当にありがとうございました(平伏)
本作は完結を入れずにおきます。
またいつの日か、第五章でお目に掛かれますように(^^)/
御堂志生(2011/4/29)