(19)富士に帰ろう
眞理子の命令の意味が判った瞬間、南は言葉を失った。
判っていたはずだ。どんな危険も眞理子が独りで背負うつもりだと言う事を。最悪のケースを想定して、常に準備を整えて出動するはずの彼女が、ロープ一本で担架を担いで降りて来た意味を。あの時点で、他のレスキューや消防隊員たちには撤退を命じていたに違いない。
南はこの期に及んで迷っていた。
眞理子を救うためなら自分の命など惜しくはない。共に死ねるなら、むしろ本望だろう。だが、命令を無視して眞理子を助けに行くことは、正しいことなのだろうか? 眞理子は本当に全てを諦め、自分が犠牲になることを覚悟しているのだろうか?
南は奥歯を噛み締めたまま、彫像のように固まっていた。
『何言ってやがるんだ、このバカ女がっ! てめぇはそんなトコでどうする気だ!』
それまで黙っていた光次郎が無線に向かって叫んだ。
『……吉田班長、部下の前だぞ、少しは言葉を慎め』
『説教してる場合かっ!? 俺は行くぞ。絶対に行く! 止めても無駄だ!』
彼の部下たちが必死に止めようとしている。だが、光次郎はロープを繋ぎ、眞理子の居る方向に向かおうとした。
『落ち着け、光次郎。タイムアップだよ。上は無理だ。私は下に向かう』
無線から聞こえる眞理子の声に、光次郎は泣く様に怒鳴った。
『下だとぉ! それを落ちると言うんだ! 勝手な真似しやがって。カッコつけて死にやがったら、ただじゃ済まさねぇ!』
眞理子は激昂する光次郎を無視し、無言で無線を握り締めたままの南に語りかける。
『南……聞こえるか? 南』
穏やかだ。
どうしてこれほどの窮地にあって、眞理子は泣くことも喚くこともしないのだろう。おそらく、百年掛けても追いつくことなど不可能だ。
『南? 居るんだろう? 返事をしてくれ、南』
『――――はい』
地面に足が付いていない感覚がする。目の前が揺れ、膝がカタカタと笑い始める。
だがその時、無線から流れてきた言葉は――
『南、一緒に富士に帰ろう。……下で、待っててくれ』
眞理子の声に〝何か〟を感じた。南の虚ろな瞳に、一瞬で光が戻って来る。
『はい。了解しました!』
彼は無線に向かって叫び、県道を下に駆け出した。
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「おいっ! おい、南さん。あんた、どうする気だよ。このまま見捨てるのかっ!?」
突然、道路を下り始めた南を追いかけ、光次郎は呼び止める。
「隊長は下で待っててくれと言った。きっと勝算があるんだ……」
「バカ言え。この状況で、一体どんな手が打てるって言うんだ!」
「馬鹿はどっちだ! お前こそ、冷静になれ! お前の知ってる沖眞理子は、出来ないことを出来ると言う女かっ!?」
「それは……」
これまでの南とは違う、自信に満ちた言葉に光次郎は判らなくなった。
眞理子は常に自分の前を歩いている。大人になってようやく追い抜いたと思ったのに、現実は周回遅れに過ぎなかった。
「隊長はどんな時でも二重三重の手を打ってる。上が駄目なときは、下に逃げ道を確保してるはずだ。……この山は子供の頃から遊び場だったんだろう? 何かないか? あの崖から下に向かって逃げる方法が」
南に言われ光次郎は懸命に考える。
複雑に入り込んだ起伏に富んだ道が楽しく、よく自転車で走り抜けた。小・中学校ではハイキングに来たこともある。高校の時はトレイルランのコースだった。
「下は二度の土砂崩れで埋まってるし……その分高さはないけど、とても走って下りることが出来る足場じゃない。土砂に足を取られたらその場で動けなくなる。そこを上からやられたら……」
スピードを緩めない南の後を追いかけながら、光次郎は答える。
その時、彼は一つのことを思い出した。
「そう言えば、千夏の家があったもうちょい左に貯水池があったような……」
「貯水池?」
不意に南が足を止め聞き返した。
「ああ……でもそんなに広くないし、深さは……判らん。防災用だったと思う。周囲は金網で囲いがされてて……。それに、前の土砂崩れで埋まってたら……逆に危険だ。文字通り、泥沼って奴だろうからな」
「土砂で埋まってなかったら? 水が残ってたら……ある程度の高さなら、飛び込めば助かるかも知れない」
南は真剣な顔で、「場所は? そこまで案内してくれ!」光次郎に迫る。
「――こっちだ!」
光次郎は道路ではなく斜面をカットして貯水池方向に急いだ。
南と光次郎が麓まで下りた瞬間、地響きが聞こえた。三度目の土砂崩れが起きたのだ。
貯水池の方角は当然立ち入り禁止である。警察がロープを張って野次馬の侵入を防いでいた。大きな道路側にはパトカーや消防車も多く、時間が経ってマスコミも集まって来たようだ。だが、こちら側は付近住民がほとんどであった。
野次馬連中がザワザワと落ち着かない。ロープの脇に立つ警官も、無線を手にドタバタ慌てふためいて見える。
そんな周囲の様子に、光次郎の胸もざわめいた。崖の方を見上げるが、夜明け前のこの時間は視界が最悪だ。眞理子の姿どころか、崖の状態も一切見えない。
「人が……落ちたような」
「誰か池の中に落ちたんじゃない?」
「逃げ遅れた人間がいたのか?」
「人が飛び込んだように見えたけど……」
彼らの声が耳に入った瞬間、二人は立ち入り禁止のロープを飛び越え、金網を登ろうとした。
「おい! 何をやってる、止まりなさい!」
制止する警官に向かって光次郎は叫ぶ――「鎌倉消防署のレスキュー隊だ! 救助に行く!」
彼は貯水池が土砂に埋まっていないことを祈るだけだった。
崖側の金網は押し倒され、池の間際まで土砂が迫っていた。だが貯水池全体は埋まっておらず、水はあるようだ。大して広くはないが、決して狭くもない。どの辺りに落ちたのか……薄闇の中じゃ検討もつかない。
「吉田さん! あれはっ?」
南の指差した方に目を凝らす。緑色の光が水面に浮かんでいる。レスキューベストの反射蓄光に違いない。だが、眞理子が着たまま浮いている様子ではない。飛び込んだ拍子に脱げたのか、或いは自分の位置を伝えるために脱いだか……。ベストの横にはたくさんの気泡が出来ていた。
南は無言のまま装備を全て外し、一気に貯水池に飛び込む。
「あ、おい! こらっ! ……ったく」
先を越されたら残った方が連絡をするしかない。
『こちら第一分隊の吉田です。山岳警察の沖警部は土砂を避け貯水池に飛び込みました。すぐに応援願います!』
言いながら光次郎も装備を外し、最後に無線を放り投げると南の後を追った。
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逃げ場は一箇所しかない。だがもし、土砂で埋まっていたら……水面にではなく、泥の中にダイブすることになる。その数秒後、眞理子は全身に小刻みな振動を感じ、掴まっていた木がずり落ち始めた瞬間――決断した。
念のため、頭ではなく足から飛び込んだ。幸いにも水は残っていたが、底は思っていたより浅い。どうやら、相当量の土砂が流れ込んだようだ。泥で濁って水中は何も見えなかった。
(とりあえず、水面に出ないと……)
そしてなるべく崖側から離れなくてはならない。この状態で上から土砂が降り注げば、さすがの眞理子も生き延びることは困難だろう。
眞理子は力任せに水を蹴る、だがその時、右足が動かないことに気付いた!
右足は脹脛まで泥に突っ込んでいる。足先に力を入れ、渾身の力で蹴り上げるが全く抜けない。左足で踏ん張りたいが、その場所すらないのだ。泥に突っ込めば今度は両足が使えなくなるだろう。
肺活量にはそこそこの自信がある。斜面を滑り落ちながら、レスキューベストを脱ぎ目印にして来たが……。それでも救助が到着するには十数分を要するだろう。
そこまではとても持たない。
(……ここまでか……)
眞理子の胸に死がよぎった。