(16)光明
『……はい……山で何かあったか?』
電話の相手は寝ぼけた口調だ。それでも山を案じる辺り、立場に自覚があるのだろう。
『風見本部長、沖です。夜分にすみません』
『……沖? なっ! お前……あ、いや』
救助本部に乗り込む寸前、眞理子は一本の電話を入れた。相手は上司である静岡県警山岳警察本部長、風見尚也警視正。
眞理子が富士に配属された時、彼は山岳警備隊の副隊長をしていた。敵対したり恋人同士になったり、現在は上司と部下で……ひと言では説明出来ない間柄である。
とはいえ、夜中に直接電話を掛けるなどなかったことだ。
さすがの風見も何かあったと思い始める。
『夜分と言うより、早朝だろうな。……で、お前が俺に掛けてくるなんて。富士が噴火したのか?』
緊張の中にも軽口で切り返す辺りが風見らしい。
『今、鎌倉市内にいます』
『ああ……そういや、実家に帰ってたっけ。で?』
『市内で土砂崩れがあり、消防の民間協力要請で南警部補が出動しました。しかし、アクシデントが重なり、かなり危険な事態に陥っています。ルール違反は承知で、指揮権を主張してこれから出動します。ご迷惑をお掛けするかも知れませんが、全て私の責任です。その点ご承知おき頂きたく、一報を入れました』
さすがの眞理子も気持ち焦っているのだろう。要点だけを早口で捲くし立てる。
一方、寝起きの風見は突拍子もない台詞の連続について行けず、少しの間混乱していた。
『ま……待て。ちょっと待て。南って……それって副長の南だろ? 何で奴がお前と一緒にいるんだっ!? しかも出動って……土砂崩れだって? 何がどうなったらそうなるのか、きちんと説明しろ。お前、鎌倉で一体何をやってるんだっ!』
『すみません。急ぎますんで……帰ったら充分に説明します。では』
『待て! 判った……ちょっと待て! 土砂崩れって……そこは山か?』
風見の言葉に眞理子の動きが一瞬止まった。
しかし、その言葉の意味が判らない。急ぐので切ろうかとも思ったが、
『……はい……標高百メートルもありませんが、一応、山です』
源氏山の名前と標高を思い浮かべながら眞理子は答える。
すると、風見は信じられない台詞を口にしたのだ。
『判った。だったら出動は合法だ。すぐに神奈川県警に連絡を入れてやるから……。お前の大事な部下がピンチなんだろ? とにかく、どうにかして来いよ』
『え? あの……』
『忘れたのか? 山岳警察は基本的にエリアフリーだ。事件事故問わず、日本中の山で活動が出来る。標高百メートルでも山は山だろ? 神奈川県警には山岳警察がないしな。まあ、無理矢理には違いないが……』
風見の言葉に眞理子もハッとする。
(――そうだった!)
富士山でも源氏山でも、名目上は全ての日本の山で活動できるのが山岳警察なのだ。警察・消防・自衛隊・民間団体まで……縄張り意識を捨て、人命救助のために協力し合う目的で新設された組織である。
実際には、各山岳警察同士で管轄を主張する羽目になり、本末転倒も甚だしい状況ではあるが。
『本部長……感謝します!』
『これはひとつ貸しだからなっ。忘れるなよ!』
電話の向こうで彼が叫んでいたが、眞理子の耳には入っていなかった。
~*~*~*~*~
「なんだと? いきなりやって来て……救助活動の指揮権を渡せとは何の冗談だ?」
眞理子の言葉を聞くなり、怒鳴ったのは高井大隊長だ。背も高く恰幅もある。彼は眞理子を威嚇するように目の前に立った。
「おいっ! 勝手に上に行っただろう。お前がレスキューの邪魔をしたんじゃないのかっ!?」
ひ弱そうな賀川司令補は、遠くから眞理子を非難する。どうやら、責任を押し付ける相手を見つけて必死らしい。人命より保身を優先するその姿に、眞理子は怒りを覚えるより不憫にすら思う。
その時、眞理子の父がテントに駆けつけた。眞理子が救助本部に乗り込んだと、後輩の倉地署長に教えられたようだ。
「眞理子、お前は何をやっとるんだ! そんな、泥だらけになってまで勝手なことを……。おいっ、怪我をしとるじゃないか!?」
父は血だらけの両手に気付き声を上げた。だが、眞理子は余計なことは一切言わず、ジッと待っていた。
その直後、テントにオレンジ色の服が飛び込んで来る。レスキュー隊の中江隊長だ。彼の手には携帯電話が握られていた。
「大隊長、神奈川県警から電話が入りまして……」
彼は眞理子をわざとらしく無視して、携帯電話を大隊長に渡した。
『はい、代わりました。……それはどういうことですかな? いや、しかし……』
高井大隊長は眞理子に背を向け電話に出るが、数秒後、目を剥いて振り返った。
『はあ……それは、命令ですかな? 確かにそのルールは知ってますが……本当に、それでよろしいんですね? 責任は取っていただけるんでしょうな』
電話を切り、あらためて大隊長は顔を上げた。規則を盾にされたことがよほど悔しいらしい。苦虫を噛み潰したような顔で眞理子を睨みつけている。
「神奈川県警からの命令だ。源氏山でのレスキュー活動は山岳警察の管轄である、と。ちょうどこの場所に富士山岳警備隊の隊長がいるから指揮権を渡せと言われた……」
眞理子は泥だらけの上着の内ポケットから警察手帳を取り出すと、
「静岡県警山岳警察、富士山岳警備隊隊長の沖です。階級は警部。これより、救助活動は私の指揮下に入って頂きます」
「……隊長……」
父だけでなく、テント内の全員が口を開いたままだ。
そんな彼らを無視して、「消防隊員と装備をお借りします。それと、この件を無線で全隊員に通達して下さい」眞理子は命じた。
南が借りた物と同じオレンジ色の出動服。そして装備一式を渡されると、なんと眞理子はその場でさっさと服を脱ぎ始める。
女性消防官が慌てて、「あ、あの……あちらのテントで、それか人払いをしてから」
「いいよ。時間が勿体ない」
そう言うと彼らに背中を向けたまま一気に上半身裸になる。倉地署長と共に父が出て行ってくれたのが幸いだ。これ以上驚かせずに済む、眞理子は父の心労を気遣った。
出動服は男性用だった。女性のレスキュー隊員もいると聞くが、圧倒的少数なので特注になるらしい。眞理子は身長があり体格も良いので男性用でも過不足はない。さすがにウエストは余ったが、それはベルトで調整できるので気にはならなかった。
装備一式を身に付け、ロープを肩に掛ける。緊急のため、装備の確認点検は飛ばした。この点は彼らを信用するしかないだろう。南と同じくどこか納まりが悪い。だが、見た目はレスキュー隊員そのものであった。
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『こちらは救助本部だ。神奈川県警からの命令で、源氏山における救助活動の指揮権が山岳警察に移ることになった。これ以降は、全員、富士の隊長殿の指示に従うように。――以上』
よほど頭にきているのだろう。高井大隊長の言葉は、ふて腐れた様子が声に滲み出ていた。
その一方で、賀川司令補などはあからさまにホッとした表情だ。寧ろ、階級を名乗る前より眞理子に対して愛想が良くなった気がする。
眞理子は大隊長の言葉に、もう少し言い様があるだろう、と思いつつグッと堪えた。
現場の、それも最悪の状態で待機している彼らのためにも、今はそれ処ではない。眞理子は彼から無線を譲り受ける。
『私は富士山岳警備隊隊長の沖です。まずはじめに、先ほどの協力に感謝します。――斜面に待機中の民間人二名とレスキュー隊員四名、全員無事に連れ戻すことを約束します』
指揮権を山岳警察が譲り受けた以上、南も民間人扱いではなくなる。
現場の様子は判らないが、テント内の消防隊員から不安な空気が消えない。すると眞理子は、
『――大丈夫だよ、心配は要らない。この山はレスキューの吉田隊員とともに、子供の頃から駆け回った私の庭だ。彼を童貞のまま死なせるのは気の毒なので、皆も協力してくれ。――以上だ』
切羽詰った状況でありながら、全員に微かな笑顔が広がる。眞理子の穏やかな声に肩の力が抜け、胸に溜まった重苦しい息を、彼らはようやく吐き出せたのだった。
若干一名、眞理子のジョークに大きく異議を唱える者もいたが……。
「あんの野郎~~! 勝手なコト抜かしやがって! 俺は童貞じゃねーーっ!」――置かれたピンチも忘れそうな光次郎であった。