(13)民間人二名
俄に救助本部が慌しくなった。
眞理子は妙な胸騒ぎを感じ立ち上がるが、それ以上は動くことが出来ない。しばらくして大型車両のエンジン音が聞こえ、テントのすぐ脇を昇降機を乗せたトラックが通過した。その後を巻き上げ機が取り付けられた重機が追いかけて行く。
見る間に眞理子の顔色が変わった。
「何があった!? あんな物を上に運んでどうする気だ!?」
彼女はその足で仮説テントに怒鳴り込む。
「なんだ、貴様は! 勝手に入って来るんじゃない!」
レスキュー隊の中江隊長が大股で近づき、眞理子を追い出そうとする。そんな二人の間に割り込んだのが倉地署長だ。彼は中江を宥めつつ、眞理子に向かって穏やかに話しかけた。
「眞理子ちゃん、ほんの数分前、倒壊家屋が二メートルほど滑落してね。幸い怪我人は出なかったんだが……」
現場には応援に向かった二人とレスキュー二名、そして要救助者二名が残されているという。まずは安全を確保する為に大型のゴンドラが付いた昇降機を下ろすと言うのだ。高層ビルの窓拭きなどに使われている物と似ている。ビル火災などで窓から救助する際に屋上に設置して使われるものだった。
「君は知らんだろうが……大型の昇降機は火災現場で随分功績を挙げている。とにかく、いつまでも倒壊家屋に残しておく訳には……」
倉地署長の言葉はどこか歯切れが悪かった。
それもそのはず、大型の昇降機投入は消防庁の指示であった。それは鳴り物入りで導入した機械だという。一つでも多くの実績を残したい腹積もりであることは見え見えだ。だが、誰もがそれを口に出すことも、命令に逆らうことも出来なかった。
「崩落の起きてる現場に、重機を持ち出してどうするんだ!」
眞理子の声に消防本部から来たという制服組のひとり、賀川司令補が言い返してきた。
「これだから素人は……崩落現場に近付ける訳がないだろう。距離を置いて引き上げるんだ。だから、外付けの巻き上げ機も上に向かったんじゃないか」
賀川司令補は鼻で笑った。
おそらく彼女より年下だろう。見るからにひ弱そうでとても消防官とは思えない。案の定、数少ない総務省出向組だった。何事もなく戻るのが目標だとしか思えない男である。
(素人はどっちだ……)
眞理子は舌打ちして苦々しげに賀川を見た。公務員として比べれば、階級は眞理子のほうが上である。無論、現場の指揮権が絡み一概には言えないが。
「あれは引き上げ部分を崖の縁に固定するタイプなんだ。この現場の何処に、固定する場所があると言うんだ! 万に一つも倒れたら、ゴンドラに乗った要救助者の真上に機材が落下するんだぞ!」
眞理子の怒声に仮設テント内は静まり返った。
本来、大型昇降機は自動巻き上げの装置も付いている。だがこういった事態に備えて、昇降機には滑車の役割をさせ、後方からワイヤーを巻き上げる計算だという。脆い地盤に負荷を掛けない為だと言うが、眞理子には机上の空論にしか思えない。
「そ、そんなことは……ある訳がない。そうですよね? 高井大隊長」
「もちろんですよ。リスクを計算の上で、より要救助者の安全を考えてるんです。機材を真上に設置せず、少し離して」
大隊長と呼ばれた男は大柄で、年齢は四十代後半か。制服を見ても、この現場の総指揮官であることに間違いない。少し不安そうな口ぶりからも、彼自身に迷いが見える。
「ウインチを積んだ重機と機材、救助用のゴンドラは原則一直線だ。そうでなければカゴが傾き、要救助者が落下する。それに、現時点で要救助者は二名、レスキュー四名……ゴンドラの定員は四名じゃなかったか?」
土砂災害は警戒されていたものの、実際に民間人が巻き込まれた被害は初めてらしい。どう見ても、彼ら自身が手探りの状態だ。
「民間人二名の安全さえ確保出来たらいいんだ。レスキュー隊員ならどうにでも出来るさ」
賀川の返答に数人の消防士が顔を歪めた。ここにさっきの中江隊長がいれば……さすがに言い返したかも知れない。
その返事を聞くや否や、眞理子は仮設テントから飛び出した。
「眞理子! お前何処に行く気だ!」
テントのすぐ傍で待ち構えていた父が眞理子を呼び止める。彼女は父から顔を逸らせ、
「聞いてたはずだよ。『民間人二名』そう言った。でも南は……『一民間人』として協力してるだけだ!」
彼らの中で南は庇護すべき民間人としてカウントされてはいない。
「父さん……迷惑掛けるかも知れない。――ごめん」
眞理子は父に向かって勢いよく頭を下げ、直後、現場を目指して走りだしていた。
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「吉田さん、待機は時間の無駄です。このまま一人ずつ上がった方が安全なんです。上にそう言って下さい」
南は光次郎に懸命に訴え続ける。
だが彼の答えは、
「まずは安全確保だ。この家屋はいつ崩落するか判らない。上の命令だ」
「安全確保はすでにしてあります」
「命綱一本じゃ安全とは言えんだろう!?」
「大型昇降機の導入は時間のロスと重量オーバーです。より危険が増すだけで」
「下から運び上げるだけだ。あんたが思うほど時間は掛からない。トータルで考えろよ。焦ってんじゃねーよ!」
「いえ、私は……」
現場では判断しないのが、南の知る消防レスキューの基本だ。彼はそれ以上の反論を止め、グッと堪えた。
滑落したのはほんの数メートルだろう。一瞬体が浮いてヒヤッとしたが、幸い誰にも怪我はなかった。すぐに安全を確認してもらい、予定通りの行動に移ろうとしたが、無線を通じて本部からストップが掛かったのだ。
考えてみれば、富士に着任してから眞理子以外の指示に従うのは初めてのことかの知れない。
(もし、隊長ならどうするだろう?)
――急ぐことと焦ることは違うよ、南。
いつだったか、眞理子が言っていた。
彼女の言葉を思い出しながら、南はゆっくり深呼吸する。まずは平常心、心を落ち着けることが何より大事なのだ。楽観できる状況ではないが、必要以上に悲観してもいけない。
――あらゆるケースを想定し、万全の態勢で挑む。それでも、想定外のことは起こりうる。
このケースは想定外だろう。大型昇降機の使用は問題視されたから、登攀……いわば人力での救助が必要になったのではなかったか?
いきなりの方針変更に、さすがの南も憤りを感じていた。
――ネガティヴな感情を抑え込んだら、次は客観的に自分の置かれた状況を確認する。その上で、自分に出来ることを判断し行動する。それも素早く、冷静に。
もし、考える時間すらなかったら……
――自分を信じて本能で動け。逢いたい人の顔を思い浮かべて、必ず生きて戻ると念じるんだ。最後の一瞬まで諦めるな。諦めることは死んでからでも遅くはない。
(もしもの時は……やはり隊長の顔だろうな)
南が焦燥感と闘っていた時、光次郎の無線に連絡が入った。直後、大型昇降機から救助用のゴンドラがゆっくりと下りてくる。
倒壊家屋に住んでいた夫婦をそのゴンドラに収容。命綱のない光次郎と遠藤隊員も一緒に乗った。ビルや垂直に近い切り立った崖であれば、そのまま引き上げて貰うのが一番である。だが傾斜のあるこの場所では、安全確保が精一杯だという。
何もかも取り越し苦労に過ぎなかった。
南がホッと息を吐き、まずは女性の救助にあたろうと手を差し伸べた――。