(7)静かな夜
『死を恐れるな、死ぬのが怖くてレスキュー隊が勤まるか』
レスキュー隊の中にはそれが当然と思われてるところもあると聞く。
だが、眞理子が教わったのは、
『死を恐れないのは蛮勇に過ぎない。本当の勇気は恐怖を心に抱えて尚、踏み出す一歩だ』
お前が死んだらお前の背負ってる命も終わりだ、と再三言われた。
眞理子は生きて戻るために最善を尽くす。時にそれは、無様であったり、非情であったりするかも知れない。山の天候が変わるのは一瞬だ。いくつもの出動要請を抱え、何かを選び何かを切り捨てなければならない時もある。そういう時は、例え腹心の南にでも相談はしない。万に一つ判断を誤った時、責任を全て一人で取るためだ。
危険には真っ先に飛び込み、最後まで残る。それは前任者の教えであり、眞理子の隊長としての信念でもあった。
「よう、隊長。また厄介なのを引き受けたな」
若い連中が引き上げた後、緒方の相棒・立花光太郎巡査部長が眞理子の傍までやって来た。
立花は最年長の三十四歳。一年と二ヶ月前に所轄の交通巡視員と結婚して、ちょうど一歳の息子がいる。
――どんなに安全な日でも厳重装備で女性にはアタックしろ。
妻に聞かれたら殴られそうなことを、若い隊員たちに説いて回る、富士のムードメーカーであった。
彼はコーヒー片手に、眞理子の分も持って来てくれる。
「ん、腕がいいって聞いてね」
小さく礼を言いながら、眞理子はそんな風に答えた。
半月前、富士宮署に置かれた静岡県警山岳警察本部から呼び出された。
――素晴らしい登攀技術を持った新人隊員がいる。素行に若干の問題を抱えているが、このまま所轄に戻すのは勿体ない。富士は万年隊員不足だ、再教育を引き受けてみないか? と。
暗に、誰のせいで隊員不足に陥っているのか、と言わんばかりであった。だが、違うとも言い難い。
実はこの春、新人の島崎は残ったが転籍してきた隊員はすぐに富士から出て行った。いや、命令違反の罰則に、装備点検作業を命じたら無視したため、眞理子が叩き出したのである。
部下は一人も死なせない。
そのためなら、上司の小言や人事課の不満、悪意に塗れた評判など、大したことではなかった。
「良過ぎるのが問題かな……」
立花は僅かに傾いた椅子に腰掛けながらポツリと言い、眞理子に自分の聞いた情報を伝えた。
「浅間山にツレがいるんだが……自己流で命令違反の山だそうだ。まあ、新入りの割に歳食ってるせいもあるんだろうが。刑事やってた時から言ってたらしいぞ、『死ぬのが怖くて刑事がやれるか』ってな。早めに山から下ろしてやったほうが、奴のためかも知れん」
立花の言いたいことを察し、眞理子は頷いた。
「判った。早めに判断する」
「無理すんな。……お疲れ」
コーヒーを一気に飲み干すと立花は席を立つ。眞理子も「お疲れ」と返し……気づくと食堂に残るのは彼女独りになっていた。
厨房の奥から愛子の鼻歌が聞こえる。半世紀近く前に流行った歌だ。出征して生死不明の息子の帰りを待つという歌詞であった。
六十代半ばの愛子に、戦地に赴くような息子はいない。彼女自身が終戦直前の生まれだ。だが……愛子は山で、最愛の夫と一人息子を亡くしていた。
もう二十年近く前だと言う。生きていれば、ちょうど眞理子と同じくらいの年齢であった、と。彼女は様々な思いを乗り越えるために、山で働くことを選んだ。
眞理子が着任した時には既に愛子はここにいて、富士山岳警備隊の母とも言える存在であった。
ゆっくり食事が出来るのは幸運だと思う。食後のコーヒーまで飲めるのは、この上なく幸せな気分だ。眞理子は立ち上がり食堂の電気を消した。蛍光灯が消え、淡いオレンジの常夜灯が点く。昼間は明るい食堂も、夜は真っ暗だ。建物の周囲に、灯りと呼べる物が全くないのだから当然かも知れない。
眞理子の実家は北鎌倉にある。
父は元消防士で、今は消防団の団長を務めている。母は、商店街の一角で美容室を営んでいた。そして、不出来な眞理子に比べて優秀な兄が二人。どちらも家庭を持ち、立派に独立していた。
三十歳近い娘が結婚もせず、山に籠もって十年。親にとって眞理子は、いつまで経っても心配の種だろう。
灯り一つない、真の闇を見ていると、いまだに眠ることを知らない町の夜を恋しく思う時がある。
それでいて、富士から離れて過ごす夜は……気掛かりで眞理子は眠れない。
七月一日に山開きを迎え、賑わいは八月下旬……天候に応じて九月まで続く。
その間、登山口は一斉に開かれ、計画書なしで登山が可能な期間なのだ。もちろん、計画書は提出するに越したことはない。だが、ハイキング気分で登山靴も履かず、軽装で訪れる初心者がいるのも現実だ。
七~八月に出動要請は集中し、それは年間総数の約半分にも達する。
緒方は安定した腕前だ。肝も据わっていてだいぶ形になってきている。喧嘩っ早い性格を直せば、リーダーも務まるだろう。
結城は一人前にまだ一歩足りない。山に慣れたつもりの、今が一番危険な時期である。
島崎はようやく歩き始めたヒヨコに過ぎない。そして水原は……。
眞理子はカップを抱えて厨房に歩き出した。ドアを開け……「愛子さん、皿洗い手伝おうか?」そんな台詞と共に中に入り込み、ドアが閉まった。
――富士は最も危険な夏を迎えていた。