(11)誤断
「これは、正式な出動要請ではありませんよね?」
眞理子の言葉に、消防の制服組は視線を逸らせた。
「正式なものなら、ここに県警の方がいるはずです。我々は警察官です。民間のレスキューならともかく、万一の時は越権行為とも言われかねない。どうしてもと仰るなら、山岳警察本部の了解を取って下さい。話はそれからです。行こう、南」
事態は一刻を争うのかも知れない。ならば尚のこと、指令系統が不確かなまま南を出動させる訳にはいかなかった。
眞理子はいつも通りに答えただけだったが……。
「なんだ君は? いったい誰なんだ。何の権限があって、そんなえらそうな口を叩いている!?」
「私は……」
警察手帳を出そうとして、眞理子は躊躇した。
父の目の前で、役職や階級を名乗るわけにはいかない。四年以上も嘘を吐いて来たのがばれてしまう。その一瞬の迷いを南は察したのだろう。
彼は眞理子を制し、落ち着いた表情で消防本部の人間に尋ねた。
「もし、私が断わればどうなりますか?」
「その時は、我々だけでどうにかするしかないが……。何分、大型の昇降機を使うことに賛否両論あってね。これほどまでに脆い地盤は想定の範囲外だった」
答えたのは倉地署長だ。
だが、眞理子はそんな倉地に言い返した。
「こういう時のためにレスキュー隊がいるはずだ。横浜には特別高度救助部隊もいる。彼らに任せればいい」
「いい加減にしたまえ! 南さんと話しているんだ。横から口を挟まんでくれ!」
レスキュー隊の制服を着た男性が眞理子を叱責した。彼は先ほど隊長の中江と名乗る。光次郎たちの直属の上司にあたる人物だ。帽子を取った姿はかなり年上に思えたが、被り直すと三十代後半に印象が変わった。
「すまん、うちの娘なんだ。娘も警官で山岳警察に勤務していてな」
眞理子の父がそんな風に言うと、彼らは不満を父に向けた。「お嬢さんを連れて外に出てくれ」「話が先に進まん」「我々は一民間人の南さんにお願いしてるんだ」などと口にする。
だが、眞理子としてもそれで引くわけにはいかない。
「そんな御託が通ると本気で思ってるんですか? 何かあったら責任は確実に南に掛かるはずです。違いますか?」
図星を差されたんだろう、消防本部の連中は一斉に黙り込む。
「……光次郎が取り残されてるんだ」
ポツリと父が言った。
「お前の同級生の家族と一緒に。この次、土砂崩れが起きれば……」
その言葉に眞理子は息を呑んだ。そして、今度こそ覚悟を決める。
誰かが行かなければならないなら、眞理子自身が行く。自分勝手な理由で部下を危険に晒す訳にはいかない。軽く羽織ったジャケットの内ポケットに手を入れ、警察手帳を取り出そうとした。
そんな眞理子の腕を南が掴む。「すみません、三分下さい」と言い、テントの端に引っ張った。
「駄目だ、南。行くなら私が行く」
「ご両親にバレます」
「構わない。お前にそんな危険なマネをさせて、私ひとり高みの見物は出来ない」
眞理子は言い切ると南の腕を振り払う。
横をすり抜けようとした時、南はそれをさせまいと、眞理子の前に立ちはだかった。
「充分に注意します。安全を確保して、人命第一の救助にあたります」
「南……」
「私を信じて下さい」
「認められない。ここは富士じゃないんだ。それを……」
南は眞理子の体を押しやり、スッと距離を取った。
「副隊長として命令する。沖、君は此処で待機だ。私が戻るまで余計なことはしないように……いいな」
それは名前を呼ばれた時以上の衝撃だ。南に「沖」と呼び捨てにされた瞬間、彼の姿が藤堂と重なった。
「……はい」
胸に受けた打撃は眞理子の足を止め、その判断を狂わせた。
~*~*~*~*~
救助本部とは別のテントに案内され、眞理子は父と共に南たちの帰りを待つことになった。
長テーブルにパイプ椅子が数脚、無造作に置かれている。テーブルの上にはお茶の入ったポット、その横に伏せられた湯呑があった。
「……すまんな」
父の言葉に眞理子はハッと顔を上げる。
「え、何? なんか言った?」
これまでとは全く逆の立場だ。アクシデントに見舞われた部下を信じ、黙って見守ることはあった。だが、危険を承知で飛び出して行く部下を見送ったのは初めての経験だ。待たされる身の辛さを味わい、やり場のない思いで眞理子はそこにいた。
「部外者に頼むのは気が引けたんだ。だが……光次郎は死なせたくない。お前は知らんだろうが、アイツはわしにとっちゃ倅同然でな。子供たちは誰も父さんの仕事を認めてはくれなんだが、光次郎はわしのようになりたいと言ってくれた。それで、南くんのことを話してしまった。すまん……勘弁してくれ」
父に頭を下げられるのは初めてだった。
登攀救助が可能な人間がいない、というのが名目だが。神奈川県警の山岳救助隊では、管轄や装備の問題でも対応出来なかったのだろう。眞理子が口にしたように、万一の場合は責任の所在がネックになる。そんな時に、父が南の名前を出したのだとしても責めるわけにはいかない。
そして眞理子は父の言葉に驚いていた。
上の兄は大学卒業後に、下の兄はそれより早く将来を決めて家を出ている。最後に家を出たのが眞理子で、今からもう十二年近く前だ。子供たちは自分のことに必死で、誰も両親の寂しさなど顧みることはなかった。
その間、光次郎は息子同様に眞理子の実家に出入りし、両親にとっては心の支えだったに違いない。申し訳なさと不甲斐なさに、眞理子も思わず本音を口にした。
「私たちだって父さんのことは尊敬してたよ。私も消防士になりたかったけど……事情があってなれなかった。それでも警官になったのは、父さんみたいに誰かを守りたかったから。山岳レスキューに配属された時、それも運命かと思った。光次郎は……大丈夫だと言ってた。それに、私は南を信じてる。全員無事に帰ってくる――大丈夫だよ」
眞理子は力強い言葉で父を励ました。だが、それは普段の彼女からは程遠く……。この時の眞理子は、南を呼び捨てにしていることに、気づく余裕もなかった。
――今日は南さんが上司だからね。よろしく、副長!
わずか数時間後、眞理子はその言葉を後悔と共に噛み締めることになる。