(10)豪雨の爪痕
源氏山は市街地の北西に位置する、標高九十二メートルの山である。
鎌倉は三方山に囲まれた自然の要塞と言われていた。現在は市町村の統廃合で山の外側も鎌倉市だ。標高百メートル程度の山々が連なり、高さの割りに急坂が多い。鎌倉アルプスの異名もあった。そのため、山際の地形はただでさえ入り組んでいる。
加えて、ここ数年の鎌倉人気もあり、中腹を切り開いてあちこちに新興住宅地が建てられた。近年の調査では、急傾斜地崩壊危険箇所として市内三百ヵ所以上が指摘されていた。
眞理子らは源氏山の麓にある扇ガ谷付近に来ていた。
土砂崩れの下敷きになった数件が埋まり、逃げ遅れた人間がいるという。地元の消防レスキュー隊が必死の救助作業を行っていた。何か手伝えることがあれば、と眞理子は南を伴い駆けつけたのだった。
しかし現場に到着したものの……。
土砂の量も相当だが、深夜の大惨事に付近住民はパニックを起こしている。避難誘導をするにも、何の権限もない眞理子らに為す術がない。
雨は肩や髪を湿らせる程度に降り続き――その時だ。
「眞理子っ! お前何やってんだ!」
ロープの外側に立つ眞理子を見つけ、オレンジ色の出動服に身を包んだレスキュー隊員が駆け寄った。吉田光次郎である。
「……何か、私たちに手伝えることがあれば」
「あるわけねぇだろ! 部外者は引っ込んでろ! いいか、危ないから絶対に近づくなよっ」
眞理子の言葉を奪うように光次郎が叫んだ。
「この上にも家はあったよね? そこは大丈夫なの?」
すると、光次郎は苛立ちを露わに言い返してきた。
「大丈夫じゃねぇよ。地盤がヤバイんだ。ゆっくり順番に避難させてる。……お前、中学で一緒だった西沢、覚えてるか?」
「もちろん、千夏でしょう? でも、千夏の家はこの辺じゃ」
「バカ野郎、アイツは五年も前に結婚して近藤ってんだ。子供も二人いる。……この上に住んでるんだ」
千夏は同じクラスでしょっちゅう勉強を教えてくれた優等生だった。
丸っきり逆の立場にいた眞理子とは、普通なら接点はない。だが、千夏が他校の男子生徒に絡まれてる所を助けてから、中学卒業まで友達付き合いをした。
光次郎の言動から、千夏一家が危険に巻き込まれていることは容易に察しがつく。
言葉を失くす眞理子を光次郎は気遣い、
「大丈夫だ。俺らが助けるからさ。お前は女なんだから、怪我しないようにソイツに守ってもらえ……じゃあ、行ってくる」
踵を返し、駆け出そうとした光次郎の背に眞理子は声を掛ける。
「光次郎! お前を信じてる。死ぬなよ」
彼はサッと敬礼した。小雨に霞んだレスキューの制服が、眞理子の目に眩しく映った。
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「隊長、このまま見守りますか? それとも」
南は眞理子の耳元でソッと尋ねた。
バッチを見せてレスキュー隊を名乗れば、手伝えることはあるかも知れない。
「私たちは富士のレスキューだ。地元のレスキュー隊を信じよう」
眞理子の指示に、南は無言で頷いた。
屋久島の時もそうだった。眞理子はよほどのことがなければ他人のエリアを侵さない。餅は餅屋、専門家に任せるのが一番、と思っているからだ。
眞理子のお仲間がロープの横に立ち、危険区域に民間人が入らないよう警戒にあたっている。一時間が経ち、ようやく一人が救助された。どうやら、逃げ遅れたのは一人だけだったようだ、と周囲の野次馬たちが囁き始め、眞理子もホッと息を吐いたのだった。
「上の方はどうなっただろう」
ポツリと呟く眞理子の横で、南も上を見上げて言った。
「心配ですか?」
「そりゃあね。十年近く会ってないけど……次が葬式ってのはご免だな」
「あ、いえ……。そうですね、すみません」
そんな南の顔を見て、眞理子は彼が誰を想定して尋ねたかに気が付いた。
「もちろん光次郎も心配だよ。ヤツの結婚式に出て、昔の悪さを暴露してやるのを楽しみにしてるんだ」
眞理子の軽口に、ようやく南の表情も和らいだ。
「家に戻って父さんに聞いてみよう。救助の状況が判るかも知れない」
そう言って、眞理子が源氏山に背を向けた直後――。
生温かい風が眞理子の頬を撫でた。足元が小刻みに震え、周囲にどよめきが広がる。同時に、背後から轟音が聞こえたのだ。振り返った彼女の目に、スローモーションで崩れ落ちる土砂が映った!
眞理子の居る場所からはかなり遠かった。最初の被害があった場所よりだいぶ奥である。
比較的斜面が緩やかなせいだろうか、土砂は一気に下までは落ちなかったようだ。下にいた消防隊員たちが急遽避難している。遠目だが、逃げ遅れた隊員は見当たらない。
「南、何か見えるか?」
「霧のような雨が邪魔ですね。上部までサーチライトが届いてないので、ここからはちょっと」
眞理子も裸眼視力は悪くない。だが、南の方が上だ。彼に見えないものなら、眞理子にも無理だろう。だが、嫌な予感が眞理子の全身を駆け巡る。十年レスキューに携わった者の勘とでも言うべきか。
「これ以上ここに居ても無駄だ。状況を確認に行こう」
眞理子は自宅に戻ろうと、車両が通行可能な道路に出た。
その時、目の前を見慣れた白いライトバンが走り抜けた。数十メートル走りライトバンは急停止、眞理子の前までバックで戻って来る。運転席に座っているのは消防団の青年のようだ。そして後部座席のドアが開き、転がるように降りて来たのは眞理子の父であった。
「ちょうど良かった、眞理子。南くんと一緒に、すぐに本部に来てくれ!」
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災害現場近くの仮設テントに設けられたのが救助本部だ。おそらく此処以外にも、市役所や消防署に対策本部が立ち上がっていることだろう。テントは設営されて間が無いと見え、無線やその他備品が運び込まれる最中であった。
何がなんだか判らないまま、眞理子と南はそのテントの中に引っ張り込まれる。
そこには消防の制服を着た人間が数名と、光次郎と同じレスキューの出動服を着た年配の男性がいた。制服組の一人は父の後輩で、現在地元の消防署長を務める倉地である。
そして眞理子たちが聞かされたのは、
「上に住む家族を救助する最中にさっきの土砂崩れが起こった。不幸中の幸いで、家は土台ごと滑り落ち途中で止まっている。だが中には、要救助の大人二名と子供二名、それからレスキュー隊員二名の計六名が取り残されているんだ」
斜面の状態から言って山岳救助チームに応援を要請したほうがいい。彼らが助言を仰ぐ土砂災害の専門家からそう言われたらしい。それだけ地盤が不安定なのだろうと眞理子は想像した。
救助本部は早速、丹沢山などを管轄とする県内数箇所の警察に設置された山岳救助隊に連絡を取った。だが、登攀救助が可能な人間がいないという。この神奈川県警には、眞理子らの所属する山岳警察はなかった。
「そこで、団長さんから話を聞いて……申し訳ないが、南さんに協力して貰えないだろうか?」
本来なら、彼はまず上司である眞理子の指示を仰ぐべきだ。だが、この場には彼女の父親がいた。南はそれを気遣ったのだろう。一呼吸置くと正面を向き……「了解しまし」
「駄目だ!」
眞理子は南の声を遮った。