(9)眠れない夜
風呂から上がり、眞理子は台所の冷蔵庫を開け、取り出したスポーツドリンクのボトルに口を付けた。
「こらっ! また、あんたは行儀の悪い」
ついつい面倒で直接飲んでしまう。回し飲みも平気な点を考えると、やはり眞理子は一般女性から多少ズレているようだ。
母にペットボトルを取り上げられ、グラスに注がれる。
「南さんていい人じゃない。真面目で誠実そうで、顔も良いし……結婚しちゃいなさいよ」
口調は軽いが内容は重い。
「結婚って、だからそういう話じゃ」
「どうせ、あんたが屁理屈言って引き伸ばしてるんでしょ? 家まで来られたんだから、南さんのほうは結婚の申し込みをするつもりだったんだと思うわ。いい加減、藤堂さんのことは忘れなさい。あの人とは縁がなかったのよ」
白く透明な液体を一気に飲み干し、眞理子は母に向かって言った――「おやすみ」
肩に掛けたタオルを引っ張り、階段を昇りながらごしごし髪を拭く。
母の言うことも判らないではない。眞理子が一人でいる以上、ずっと藤堂を想い続けているかのようだ。そうではない、と自分では思う。
(でも、本当は違うんだろうか?)
藤堂の件は振り切ったと、眞理子がいくら言っても、周囲はそう思ってくれない。ということは、間違っているのは眞理子だという可能性が見え、彼女は頭を抱えた。
(勘弁してよ。ややこしいのは性に合わないんだからさ)
二階の廊下を自分の部屋に向かいながら、ふと、母は南をどっちに案内したのだろう、と思い立つ。二階は三部屋あり、眞理子の隣が次兄の、階段を上がってすぐ右が長兄の部屋であった。
布団を敷いたと言っていたのでおそらく和室、長兄の部屋だろうと眞理子は考えた。
(まだ起きてるかな? 後で声を掛けてみるか)
とりあえず髪を乾かしてから、そう思って自室のドアを開け中に入った。
眞理子が顔を上げた直後、
「み、みなみっ!? 何でいるの?」
なんと、布団の上に南が正座している。
「いや、あの……お母さんが、遠慮しないでと仰って。……どうしましょうか?」
どう、と言われても返事が出来ない。
眞理子のベッドに並べるように、一組の布団が敷いてあった。
(ったく! なに訳の判らない方向に気を回してくれるのよ!)
「どこか別の部屋に、と思ったんですが。隊長に聞いてからでないと、勝手に他の部屋には入れませんし……」
南は長兄のパジャマを着て、申し訳なさそうに頭を掻いている。
「悪い。完璧に誤解してる、というか、させてるんだけど……。でも、実家でどうしろってんのよ」
妙に意識してしまい、眞理子は苛々と口元を押さえた。
「いえ、私は別に。お母さんなりに、私たちを試しているのかも知れませんね。本当に交際しているのか、見合いを壊すために連れて来られた単なる同僚か」
確かにその通りかも知れない。
どうやら、南のほうが冷静に思える。しばらくここで座り込み、諸々のことを考えていたせいだろう。
だが、彼が恋愛事に長けているという話は聞かない。それに関しては、眞理子も似たようなものだ。以前、那智総本部長が眞理子は恋愛においては流され易いと評していたと聞く。事実、自分から動くことはまずなかった。
はっきりした要求を南が口にしない以上、眞理子には動くことが出来ない。
逆に南も、眞理子の答えを待ち続け……二人は互いに牽制し合っていた。部屋に重苦しい沈黙が流れる。
「何年か前を思い出しますね。……毎晩のように仮眠室で一緒でした」
南がボソッと呟いた。
言われてみれば、そんな時期もあった。
北富士側の消防レスキューに全てを任せ、富士山岳警備隊の縮小、または廃止が検討された時だ。交代要員もおらず、忙しさにかまけて宿舎に戻る時間すらなかった。本部の仮眠室で数時間横になり、すぐに出動を繰り返していた。
眞理子は肩の力を抜くと、床に敷かれた布団の脇を軽く飛び越えた。
「ダメだね。実家に帰ると、隊長の威厳がゼロになってしまう」
冗談めかして言いながらベッドにどさっと座り込む。
南は小さく首を振り笑顔を見せ、「本部に連絡は入れました?」と尋ねた。
「入れた。異常なしだってさ。向こうは一滴も降ってないそうだよ」
「それは良かった」
富士の話になれば、二人の間に漂う空気が隊長と部下のソレに戻る。
――今はこれでいい。
言葉にしないまま、同じ想いを胸に抱き、やがて雨音は夜の闇に消えて行った。
~*~*~*~*~
仕事がら、眞理子の眠りは浅いほうだ。
あの後、南とは取り留めのない会話をして、二人は同じ部屋で眠った。感覚的に二時間も寝てはいないだろう。階下がガヤガヤとうるさい。複数の話し声に、眞理子の意識はしだいにはっきりとし始めた。
「隊長……起きていらっしゃいますか?」
枕元で南の声が聞こえる。彼も気になって体を起こしたようだ。
「ん、起きてるよ。何かあったらしいね。あの雨の後だから火事はないだろうけど……」
「下りられますか?」
「そうしよう」
眞理子はパッと起き上がる。二人はまるで緊急出動が掛かったかのように、素早く着替えたのだった。
一階は玄関から台所まで煌々と灯りが点いていて、昼間のように明るかった。
町内会や商店街組合の役員たちが出入りして、口々に「よぉ、眞理ちゃん、ご苦労さん」「さっきはありがとな」などと二人に声を掛ける。
眞理子も「お疲れ様です」と言って回るが、どうも嵐が収まった和やかな雰囲気ではない。
和室には町内会長らと一緒に父が座り、難しそうな顔をしていた。
「父さん、どうしたの? 何かあった?」
「ああ、眞理子か。すまんな、夜中に……」
父は南にも「騒がせて申し訳ない」と頭を下げる。
南も周囲の様子に完全に目が覚めたようだ。
「いえ、とんでもありません。それより、何が起こったんでしょうか?」
その声には、必要とあれば出動も厭わない、といった緊張感を孕んでいる。
「火事じゃないよね? 誰か水に流されたの?」
眞理子の問いに、父は忌々しい様子で口を開いた。
「――源氏山の方で土砂崩れがおきたんだ」