(8)切ない雨音
先ほどの勝手口ではなく、正面玄関を入ったところに階段があった。そこを二階に上がり、左手の奥、六畳程度の洋間が眞理子の私室である。
「悪い。面倒に巻き込んで」
そこまで掴み続けた南の腕を、眞理子は慌てて放した。
ふいに自由になり、南は自分が思わず口にした言葉の意味を、あらためて噛み締める。
「いえ……すみません。余計なことを言ってしまったみたいで。警察官の心象を悪くしましたね」
まさに余計な言葉だった。中途半端極まりない。だが、あれ以上は眞理子の父ではなく、眞理子自身に先に告げるべき言葉だろう。
「いや、気にしなくていいから。元々、山岳警察の人間ってだけで、毛嫌いしてるんだ」
そんな風に言われると、ついつい聞いてしまいたくなる。
「それは……前任の隊長との件ですか?」
苦笑しつつ、眞理子は部屋を横切り、南に学習机の椅子を勧める。彼女自身は、窓の木枠に腰掛けた。
窓そのものはアルミサッシだが、外側は昔ながらの木枠だ。標準より大きめの窓で、跨ぐとベランダに出られるという。
「ん……間の悪いことに、結婚の申し込みが事故の直前だったからね。父さんも、婚約破棄の理由は私の為だって判ってるんだ。でも、ね……ま、私のせいなんだけどね」
「隊長の?」
「そう。ちょっと……いや、かなり堪えてたから。父さんや母さんにもそれが判ったんだろうなぁ」
外は雨が降り出していた。
眞理子は雨に煙る外灯をジッと見つめて話す。その姿は、南の知っている〝沖隊長〟とは異なった。
「今でも、想っていらっしゃるんですね、彼のことを……」
南は座ることが出来ずにいた。彼の声はどんどん小さくなり、やがて雨音に消えて行く。
聞こえなかったはずはない。だが、沈黙という壁が二人の間に立ちはだかり、南にはそれを乗り越えることが出来なかった。
「どう……かな」
壁を押し退けたのは眞理子のほうだ。
それは細く不確かな声で、眞理子は〝女の顔〟で答えた。
「顔を見るとホッとするし、無性に声を聞きたくなる時もある。全てを捨ててついて行く覚悟は本物だった。でも今は……出来ないだろうな」
(もう何も聞くな! 隊長を失いたくなければ、黙ってるんだ!)
南は懸命に自分の口を閉じたままにしようとした。
だが、彼の中の男が『聞け』と促す。
「山を、下りなくてもいいと言われたら? 今のままで、結婚しようと言われたら……どうしますか?」
眞理子の部屋に入って初めて、彼女は南の顔を見た。
その黒い瞳が、微かに揺らいで見えるのは気のせいだろうか? 眞理子の視線に射抜かれたように、南は微動だに出来ず立ち尽くしていた。
やがて、眞理子は相好を崩すと、優しく円やかな声で尋ねたのだ。
「南は私を、どうしたいの?」
――自分は眞理子をどうしたいのだろう……。
「私に、どうして欲しいの?」
黙りこくる南を見つめたまま、眞理子は質問を繰り返した。
――藤堂には負けない。自分が眞理子を守りたい。部下としてではなく……ひとりの男として。出来れば一生。
南の全身をそんな台詞が駆け巡った。だが、言葉にすることが出来ないのだ。何かが違う気がする。「愛しています」と言ってしまえば楽になれるのかも知れない。例え、眞理子の返事が「ありがとう。ごめんなさい」だと判っていても。
室内に広がる雨音は、激しくなる一方だった。
南は何も答えられぬまま、彼の胸にも土砂降りの雨が降り注いだ。
~*~*~*~*~
ここ数年、夏の太平洋高気圧と冷たい乾燥したシベリア高気圧の間で生じる秋雨前線が、一箇所に停滞する現象が数多く起きていた。それが時には局地的大雨、或いは集中豪雨と呼ばれるものを引き起こし、災害の規模を大きくしてしまう。
この夜も、夕方に降り出した雨がしだいに激しくなり、アッと言う間に水位が増し始めたという。
思えば、光次郎をはじめ他の二人もさほど飲んではいなかった。こういった事態を予測していたのかも知れない。
夜の十時を回った頃、眞理子の父の元に消防団から連絡が入った。
町内に大きな河川はない。だが、どれほど小さな川でも氾濫すれば家屋が浸水する。それに備えて土嚢の積み上げと周囲の警戒に協力を求められたのだ。
しかし、さすがの父もぎっくり腰ではどうしようもなく。そんな父に代わって、眞理子と南が借り出されることになった。結局はこうなる運命だ、と苦笑しつつ……。
〇時近くになって雨足も弱まり、ようやく二人とも解放されたのだった。
びしょ濡れになって帰宅すると、母が山のようにタオルを抱えて勝手口まで飛んできた。そのうち二~三枚を眞理子に放り投げ、南のことは肩や背中をバスタオルで拭いてやっている。
「ごめんなさいね。お客様にとんでもないことお願いしちゃって」
南も自然な笑顔で、「いえ、いつもやっていることですから」と答える。
随分扱いが違うんじゃないか、という眞理子の不満はさて置き……。
「ねえ、車がなかったけど。父さんは?」
「本部事務所に決まってるじゃない」
母は、何を今更、といった顔で眞理子に答えた。
「腰は大丈夫なの? 知らないよ、酷くなっても」
「言って聞くような父さんじゃないのは、あんたもよく知ってるでしょ」
母の諦めきった表情に、眞理子の顔は曇った。
人のことは言えないが、父は仕事人間である。
どんな時でも家族より仕事を優先してきた。地震が起ころうが、台風が来ようが、母が眞理子の出産で陣痛が始まった時ですら、緊急呼び出しに出動したという。
そんな父を見て育った兄二人が、消防士になりたくない、と言う気持ちは眞理子にもよく判った。「犠牲にされたから」ではなく「自分には出来ない」そんな思いが強いのだろう。彼女自身、散々迷って消防士を志した昔を思い出し、軽く頬を歪めた。
今となれば、親に嘘をついてまで山岳レスキューをやる自分も大概だと思う。
話せば判ってくれるだろう。だが、それで心配がなくなるわけではないのだ。眞理子に辞める気持ちがない以上、我慢してくれ、と言うくらいなら、嘘つきの親不孝者を通すつもりでいる。
「まあまあ、さすが山男ね。光ちゃんよりいい体してらっしゃるわ! まあ、それくらいでなきゃ、大柄な眞理子には合わないわよねぇ」
母の何気ない一言に南の顔が一気に赤くなる。
大の男が赤面する様子を見ていると、眞理子の方もコントロールが出来なくなり……。
「ちょっと母さん、何言ってんのよ! って言うか、ドコ見てんの!?」
「あら。やあね、あんたったら、赤くなるような歳じゃないでしょ。南さんが困っていらゃっしゃるじゃないの」
確かに、眞理子らしくなく額に汗が浮かんでいる。
「いや、だから、困らせてるのは母さんで……」
「さあ、南さん。早くお風呂に入って暖まって下さいね。雨はもう止みそうだし、何も無さそうだからお父さんもすぐに帰ってくるでしょう。あ、お布団も敷いときましたからね」
焦る眞理子を見て、南も目を白黒させていた。言い訳をしようにも、母は南の背中を押し、さっさと風呂場に連れて行ってしまう。
「あの、いえ、た……眞理子さんのほうが先に……」
「大丈夫、大丈夫。あの子は風邪とは縁のない子ですから」
それで納得する南も南ではなかろうか?
どちらにせよ、呆れて物も言えない眞理子だった。