(6)もし、あの時―
光次郎の質問に、眞理子は口に含んだお茶を吹きそうになった。
「どんな、と言われてましても……」
すらすら答えていた南も言葉に詰まり、眞理子に微妙な視線を送ってくる。
「アレ? ひょっとしてご存知じゃないんですか? コイツ、前の隊長さんと婚約しながら振られたんですよ。やめろって言うのに、その後もレスキューの男とばっかり付き合って」
「光次郎っ! ちょっと」
眞理子はこめかみに青筋を立てつつ、光次郎の腕を引っ掴んだ。
「ちょっ……痛えじゃねぇか!」
「副長、ちょっと失礼します」
南に向かって眞理子はニッコリ微笑み……。
「眞理子っ! お前……痛えんだよ、馬鹿力! 放せーっ!」
叫ぶ光次郎を引き摺るように、二人は部屋から出たのだった。
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「一体何の真似?」
南を案内した勝手口を出て、眞理子は防災用資材置き場と化している元駐車場に光次郎を引っ張って行く。
「別に。お前さ、今の彼氏に婚約のこと内緒にしてたわけ? バラされて怒ってんのか?」
光次郎は眞理子の手を振り解くと、壁に持たれかかり腕を組んだ。
オレンジ色の弱い光が微かに光次郎の頬を照らす。五センチ程度の身長差は高校の頃と変わらない。だが、がっしりした首、筋肉の盛り上がった肩、無数の小さな傷が見える太い腕まで、今の光次郎は一人前の男になっていた。レスキュー隊に選ばれたということは、かなり優秀な消防隊員なのだろう。
去年も一昨年も顔を合わせたはずだが、こんな風に光次郎を見たのは初めてかも知れない。スポーツ刈りの頭と太い眉を見ながら、眞理子はそんなことを考えた。
「怒ってるんじゃない、呆れてるだけだ。南……副長に昔のことは話してある。私が言いたいのは、両親の前で言うなってこと」
一呼吸入れた後、眞理子は極めて冷静に光次郎の目を見て言う。
彼女の言葉を聞き、ようやく自分が誰を傷つけたか理解したらしい。光次郎はハッとした表情をして、勝手口の方に視線をやった。
「おじさん、怒ったかな。そんなつもりじゃなかったんだけど……」
眞理子は無言のまま光次郎に背を向けた。
言いたいことを言った後は、少しでも早く南の傍に戻るに限る。彼は時々ポカをやるのだ。根が真面目な分だけ、一度ボロが出ると隠し切れなくなるタイプだった。
そんな眞理子の冷ややかな態度が癪に障ったらしい。光次郎は不意に声を張り上げた。
「いい加減にしろよ! お前がマジで惚れてたのは知ってるさ。あれからずっとレスキューの男としか付き合おうとしない。の割りに、奴と比べちゃ……あっちが足りない、こっちが良くないって文句ばっかりだ。でもな、あの男は怪我を理由にお前を捨てたんだよっ! もう五年だ。目を覚まして山から下りて来いっ!」
その言葉に眞理子の足は止まった。
さすが幼なじみと言うべきか。彼女にとって痛いところばかり突いてくる。確かに、比べているかも知れない。おまけに……付き合った男は大勢いるが、深い関係にまでなったのはレスキュー隊員ばかりだ。意識していなかっただけに、盲点だった。
(でも、何でコイツがそのことを知ってるんだ!?)
眞理子が疑問をぶつけると、「いや、おばさんから……色々と」と言って口を噤む。どうやら、バラしているのは母らしい。そう言えば、電話でしつこく聞かれるので、その都度適当に答えていた。〝適当〟の中に本音が出ていたことに、眞理子自身も驚きだ。
「俺だってレスキュー隊員なんだ! 第一さ、お前ホントは消防目指してただろ? だから、俺も消防官の試験受けたんだぞ。なのに……警官なんかになっちまうし。レスキュー隊を志願したのだって、お前のために」
眞理子は目を見開き、声を上げた。
「ちょっと待った! じゃ、やりたくもないのに火消しをやって、おまけに嫌々レスキューを志願したって言うわけ? それも、私の為に」
「そ、それは……それは、だな」
眞理子のため、と口では言う。だが本当にそれだけなら、十年以上続けては来れないだろう。それを承知で眞理子は質問をぶつけた。
光次郎自身も判っているらしい。彼はクルリと背を向け頭を掻きながら、ボソッと呟く。
「クソッ! こんなことなら五年前、カッコつけずにお前を抱いてりゃ良かった」
それには眞理子もいささかバツが悪い。
なぜなら五年前、眞理子から光次郎を口説き、ホテルに引っ張り込んだことがあったからだ。藤堂から婚約を解消され、自暴自棄になっていた。実家に戻った気の緩みから、強かに酔っていたせいもあるだろう。
だが……光次郎は眞理子を抱かなかった。
「もしあの時、なんて、考えるだけ無駄だよ。五年前の私はあんたに助けを求めた。けど……あんたは応じてはくれなかった」
「何年、お前に惚れてると思ってんだ? あんな馬鹿げた理由でお前を抱くなんて」
「そうだね、悪い。あんたが突き放してくれたおかげで、今の私があるんだ。あの時、あんたに抱かれてたら……」
眞理子は続く言葉を飲み込んだ。
あの時の眞理子は、一人で立ち上がれないほど落ち込んでいた。
死んだヘリの操縦士は同じレスキュー隊の仲間だ。事故直後は美樹原も再起不能とまで言われていた。そして、藤堂のような男でも片足を失う事態に陥る。それほどまでに過酷な職場だと、心臓に刻み込まれる痛みを味わった。
藤堂と共に山を下りたい。
それは愛する人を支えたいという思いだけでなく、山が怖くなり、逃げたかったのだ。だが、藤堂は眞理子の逃げ道になることを拒んだ。
もし、あの時――。
光次郎が眞理子を受け入れていたなら、山を下りていただろう。その時は、二度とレスキューには戻らず、富士に近寄るつもりもなかった。
もし、そうしていれば、大切な相棒である秋月を失うことはなかったのだ。彼は眞理子を腰抜けと罵り、怒ったかも知れない。だが、秋月の家族から〝愛する夫〟を〝優しい父親〟を奪わずに済んだ。
もし……もし……。
取り返しのつかない失態を思い出すたび、不覚にも涙が込み上げる。
眞理子はそれを押し止めようと、息を飲み腹に力を入れた。
「でも、そうはならなかった。人生に同じ選択は二度とない。同じに見えても別のものなんだ。だから……反省はしても、無駄な後悔はしない」
彼女の深刻な眼差しをどう捉えたのか、光次郎は、
「そうやって自分に言い聞かせてるだけじゃねーか。どうせ南って野郎にも、お前は惚れた男の影を追ってるだけなんだ」
「副長は……」
秋月の死を乗り越えた時、眞理子の中で何かが変わった。
自らが隊長と呼ばれるようになり、初めて組んだのが南だ。彼は当初、頑なに眞理子を受け入れようとはしなかった。だが、登攀に関してだけは一対の合わせ鏡のように感じられた。技術・スピード・タイミング、どれを取ってもこれ以上は求めるべくもない。性別を超えた存在〝ベストパートナー〟と言えよう。
「彼は……藤堂さんとは違う。いや、他の誰でもない。今の私にとって、なくてはならない人なんだ」
南のことを口にしたとき、眞理子の瞳にいつもの強く優しい光が戻っていた。