(2)ふたりの事情
改札を通り、三角屋根の木造駅舎をくぐり抜ける。
南は老婦人に合わせて歩き、タクシー乗り場まで送り届けた。彼女は大袈裟なほど何度も礼を言い、二個の柿を南に手渡すと、タクシーは走り去った。
柿を手に南は駅前に佇む。
眞理子の実家の住所は覚えている。徒歩でも充分に行ける距離だ。まさか訪ねて行く訳にはいかないが、彼女が過ごした街並みを歩いてみるのもいいだろう。商店街で買い物をして、手ごろな旅館かホテルがあれば、一泊してもいい。どうせ、五合本部に戻るのは明日の予定だ。
南は柿をスポーツバッグに仕舞うと、ポケットから携帯電話を取り出し、着信を確認した。
その時だ。思いもよらぬ声が南の背中に掛けられる。
「南?」
聞き慣れた声に、弾かれたように振り返った。
そこに立っていたのは、富士山岳警備隊・沖眞理子隊長、その人であった。
「たっ……隊長? どうして此処にいらっしゃるんですか?」
眞理子はバストラインがやけに目立つ七分袖のTシャツを着て、下はクロップドのデニムパンツだ。素足にスニーカーを履き、ストレートのロングヘアが風に靡いている。
「え? いや、南こそ。何で北鎌倉なんかにいるわけ? 隊長会議って横浜だったんじゃ」
(こ、こまった……何て答えたらいいんだ?)
まさか、眞理子の実家見たさに来たとは言えない。
本来なら、副隊長が不在であるのに隊長まで山から下りて来ることなど考えられない事態だ。そのことを尋ねればいいのだが、焦った南はそちらまで頭が回らない。
「えっと……あの、会議はもう終わりました。慰労会は……例によって例の如くでして、出席は義務ではなかった為、辞退して来ました。その、鎌倉には……大仏を、見ようかな……なんて」
「だい……ぶつ? 高徳院の?」
「は、はあ」
苦しい言い訳であろう。
どこの世界に、三十男が独りで大仏を見物に来ると言うのか。しかも大仏で有名な高徳院は鎌倉駅で降りるのが普通だ。わざわざ一駅手前の北鎌倉で降りる意味がない。
もう一押し突っ込まれたら、そのまま回れ右をして富士に戻ろう、と南は真剣に考えていた。
「へぇ、南って神社や仏閣とか巡りそうだもんねぇ。私には全然判んない世界だけど、ま、頭の出来が違うからしょうがない、か」
そんなことを呟きながら、妙に納得している。どうやら眞理子にとって南は、未知の領域に住む人物らしい。それに、鎌倉が誇る高徳院の大仏に興味があると聞き、どことなく嬉しそうだ。
「何? ここからタクシーで行くつもりだった? でも、今からじゃ胎内めぐりは四時半までだから間に合わないと思うよ。外だけなら五時半だったかな?」
さすがに良く知っていると感心しつつ、
「あ、えっと……もう四時回ってますから、今夜は市内のホテルの泊まります。明日、見学してから富士に戻る、というのはどうでしょうか?」
なぜか一泊してまで大仏見学に行くことが決定してしまい……。南は思わず眞理子にお伺いを立ててしまう。
すると、幸か不幸か眞理子がとんでもないことを言い始めたのだ。
「ホテルが決まってないなら、うちに泊まりなよ。部屋は空いてるからさ。高徳院なら明朝一番で案内するし、そのまま一緒に、富士に帰ればいいじゃない」
眞理子の口から「富士」という言葉が出て、初めて南はこの状況の異常さに気が付いた。
「ところで隊長、どうしてご実家に戻られているんですか? ご家族に何か……」
思いつくのは弔事であろう。だが、このラフな格好といい、南を家に誘う様子といい、とても家族に不幸があったとは思えない。
眞理子が実家に帰るのは精々年に一度だ。閑散期に渋々帰省する姿を何度か目にしている。今は行楽の時期とはいえ登山計画書の提出が必要なので、初心者の登山は少ない。南の記憶では今日明日と計画書は提出されていなかった。
とはいえ、公用で副隊長が不在なのだ。大した理由もなく、眞理子が山を下りるとは思い難い。
眞理子は無造作に髪をかき上げなら、苛立ちを露にして言った。
「うちの父親のせいなんだ。今朝、南が出た後、実家から電話があってね……」
それは、眞理子の父が倒れ、救急車で搬送された、というものだった。電話の相手は兄嫁、「お義父様がどうしても眞理子さんに会いたいっておっしゃるの……」泣くように言われては無視も出来ない。
以前にも一度『父が倒れた』という連絡を受け、眞理子は急ぎ実家に戻ったことがあった。しかし、父親の枕元には若い消防士が数人並び、「最後の親孝行だと思って結婚してくれ」と言われたという。
「まったく! 娘を呼び戻すのに救急車まで使う奴がいると思う?」
「はあ……」
「ま、倒れたのは本当らしいけどね。でも、軽めのぎっくり腰でもう起き上がってるよ。ったく……クソ親父め!」
眞理子は怒り心頭らしい。
すぐに帰ろうとしたが、父親はともかく、母親に説得されては逆らえなかった。今日は実家に泊まり、始発で戻ることにしたという。
「ご両親にすれば、久しぶりの親子水入らずでしょう。積もる話もあるのでは? 私などが行ってはお邪魔になります」
「……何のために私を呼び戻したと思う?」
眞理子は渋い表情で続けた。
「見合いよ、見合い! うちの親父はね、どうあっても消防士の息子が欲しいんだと。今は引退して地元の消防団にいるけどさ。かつての部下を集めて、その中から選べって。ホント……冗談じゃない」
大きなため息と共に、眞理子は頭を抱えた。
冗談じゃない、というのは南の台詞であった。
本部長の風見がすでに過去の人と判り、屋久島ではキャリアとの見合いも断わってくれた。藤堂の件は耳にしたばかりだが……これからじっくり確認しようと思った矢先だ。
眞理子は来年三十歳になる。微妙な年齢であることは間違いない。しかし、眞理子自身にその気がないにも関わらず、どうしてこんなに男が纏わりつくのか……南にとっては気が気でない。
この場合、自分の立場は棚上げにしておこう。
「だからね、南が来てくれたらちょうどいいんだ」
「いや、しかし……実家に同僚とはいえ、男を連れて帰るのは不味くありませんか? 違う意味で色々言われる気がするんですが」
「ん、まあ、それはね。ただ、南は何にも言わなくていいから。適当に流して、勝手に期待や心配させときゃいいんだからさ」
「でも、それは」
ただの同僚から一歩踏み込むチャンスだ。頭の中ではそんな声が聞こえている。しかし、生来の真面目さが邪魔をして、どうも〝適当〟というのに納得が出来ない。
きっちり「恋人です」と言うのであれば構わない。そうでなければ、「ただの部下です」と挨拶するほうが気が楽だ。
(なんて不器用なんだ……いや、要領が悪すぎる)
だから大学時代も彼女にふられたんだ、そんなどうでもいいことで南が落ち込み始めた時、眞理子が意味不明の言葉を口にした。
「一つだけお願いっ! 私が隊長だとは言わないでくれる?」
南の頭はさらに混乱して……。