(19)誰の為に…
今は痛み止めが聞いているようだ。しかし、さすがの眞理子も軽快に歩くというわけにはいかない。優花は松葉杖を持って来てくれたが、右肩がこれでは……。
「何をしてるんだ! 沖さん、君は正気か!?」
当然のように、担当医が怒鳴りながらやって来た。看護師の目は避けたつもりだが、廊下をウロウロする眞理子の姿を見て、誰かが報告したのだろう。
「どうもお世話になりました。急用が出来ましたので静岡まで戻ります。カルテは富士宮の警察病院まで、請求書は富士五合本部の沖宛でお願いします。――ありがとうございました」
一礼してさっさと玄関に向かおうとする眞理子の前に、担当医が立ちはだかる。
「医者として、今、君を退院させる訳にはいかない。歩くのも、いや、体を起こしてるのもやっとだろう? 僅かな振動で右肩には激痛が走るはずだ。動くとすぐに熱が上がるぞ! 無理に歩いて傷口が開いたらどうする? 腕ずくでも部屋に戻って……」
眞理子はスッと右手を上げると、拳を作り、思い切り壁を叩いた。壁に掛けられた縄文杉の写真がカタカタと揺れる。
「まだ……これくらいの力はあります。必要なら、腕ずくで出て行きますが……通していただけますか?」
眞理子の気迫に、担当医は思わず廊下の端に飛び退いた。
だが、このまま行かせる訳にも、と思ったのだろう。男性医師は眼鏡のブリッジを押し上げつつ、
「ちょっと待ちなさい。抗生剤と痛み止めを出しておこう。戻ったら、必ず警察病院に行くんだぞ!」
「はい。ありがとうございます」
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優花は混乱しながらも、眞理子に言われた通り二十四センチのスニーカーを買ってきた。ついでに、地元の警察に頼み、パトカーも一台回してもらう。
眞理子が『緊急事態』で戻るなら、パトカーを使っても私的利用にはならないはずだ。優花がそう告げると、「中々機転が利くじゃない」と眞理子は苦笑いを浮かべた。
「あなたね? レスキューの方って」
パトカーに乗ろうとする二人に、ひとりの女性が声を掛ける。髪は櫛も通さず束ねただけで、化粧もしていない。目の下には隈があり、その表情は疲労と怒りが綯い交ぜになっていた。
優花はハッとする。例の少年の母親だ。眞理子にそれを伝えようとしたが……。
「あなたのせいで息子が海に落ちたんですって!? もう少しで死ぬところだったのよ。どうして、あなたみたいな頼りない女を行かせたりしたの? もっと、ちゃんとした人間を救助にやってくれなかったの? 鹿児島に戻ったら警察に抗議しますからっ。覚えておきなさい!」
優花は呆然としていた。感謝されこそすれ、非難されるとは、予想もしていなかったのだ。
だが、眞理子はそうではなかったらしい。
「はい。申し訳ありませんでした」その言葉と共に深く頭を下げる。
「ちょっと待って下さい! 隊長がいなかったらあの子は……」
「長崎巡査」
優花の腕を掴み、眞理子は静かに首を振ったのだった。
「どうして? どうして文句を言われなきゃならないんですか? しかも、何で謝るんですかっ?」
パトカーの車内で優花は眞理子に詰め寄った。
だが眞理子は、ペットボトルの水で四錠の薬を飲みながら、何でもないことのように答える。
「こんなもんだよ、レスキューなんて。助けて当たり前だからね」
怪我、それも後遺症が残るほどの重傷を負わせたら、「救助の仕方が悪い」と責められることもしょっちゅうだ。救出後に亡くなった場合は……怒鳴られるだけでは済まない。時には殴られることも、訴えられることもある。
「私の顔を見るとそうなるんだ。女なんかを救助に行かせるから、ってね。表に出ないのはそういう理由もある」
優花はショックを受けていた。彼女の中でレスキュー隊はヒーローなのだ。自分もそうなりたかった。なのに、女というだけでそんなマイナスがあったとは……。
「名誉や賞賛が欲しいなら、レスキューは適当じゃない。実際、富士で登攀レスキューなんて、半分以上が遺体の回収作業だ」
「じゃあどうして……命がけで助けても、女ってだけで文句を言われるのが判ってるのに。それで何で富士に戻るんですか?」
名誉も賞賛も欲しくはない。ただ、正当に評価して欲しいだけだ。男も女も関係なく。それはそんなに難しいことなのだろうか?
涙目で訴え続ける優花に眞理子は一言だけ言った。
「答えは自分で見つけなさい」
そんな二人の女神を乗せ、パトカーは速やかに屋久島空港のエリア内に滑り込んだ。
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屋久島から富士に戻るのに、最短時間でも六時間。乗り換えの関係で、帰りは羽田まで行くのが一番早いだろう。
優花はパトカーでそのまま返した。止められるのが判っているので那智への報告を彼女に頼んだからだ。眞理子が切符を受け取りにカウンターに向かおうとした時――。
「あれ? 君は昨夜の“スパイダーウーマン”だろ。重傷じゃなかったっけ?」
海上保安庁の紺色のキャップを被り、橙色のつなぎを着ている。どうやらヘリの操縦士らしい。顔がよく見えない、と思ったら、眞理子の目の前までやって来てキャップを取った。
一重の目元が楽しいおもちゃを見つけたように笑っている。すっきりしたスポーツ刈りがやけに爽やかな、三十代の男性だった。
「正体がバレる前に、富士の山奥に隠れようと思ってね」
「つれないな。海保じゃ君を探してるんだぜ。俺はそのお供さ」
「デートの誘いなら今度ね。今は急いでるんだ」
軽くあしらい、眞理子は背を向けた。この状態で海保のクレームまでは聞いていられない。
男はすぐに、上司に報告するため眞理子から離れると思ったが……後を付いてくるではないか。
「なあ、本気で富士まで戻る気か? その怪我で何時間も掛けて? 死ぬぞ」
「おあいにく。死ぬのは子供と孫と曾孫に囲まれ白寿を過ぎてから、って決めてるんだ」
眞理子の返事に海保の男は腹を抱えて笑っている。
「……亭主は先に逝ってる予定なのが最高だ。本気でデートに誘いたいんだけど」
「悪いけど」
断わろうとした時、彼はとんでもないことを言ったのだった。
「鹿児島空港まで送ってやるから、空いた時間でお茶くらい付き合わないか?」
ヘリでナンパとは顔に似合わず中々の太っ腹だ。眞理子にしても初めての経験である。
彼女がついて行くと、白い機体に濃いブルーと水色のラインが描かれたジェットヘリが待っていた。『アグスタウェストランド AW139』――定員十五名、最大速度時速三〇〇キロ以上、航続距離一〇〇〇キロ以上。海保でこれまで導入されていた『ベル212』の後継機種だ。真新しい機体が輝いている。
「私はありがたいけど……こんなのナンパに使ったら、あなたの首が飛ぶんじゃない?」
「心配は要らない。“スパイダーウーマン”に作った借りは『救助協力』という形でいつでもお返しします――と上司が伝えに行ったはずだ」
普通は建前だろう。本気にしたら笑われそうな……。
「ねえ、ブラックホークのお兄さん」
「真崎だよ。残念ながら、武装はしてないぜ」
「じゃ、真崎さん。私ともっと長く一緒に過ごさない? 良かったら一泊してもいいのよ」
滅多に見せない極上の笑みである。副本部長の長岡が“魔女”と評する微笑だった。