(18)富士の迷子
「あの……沖さんに電話が掛かってるんですが」
さっきより若い看護師がやって来る。
眞理子が了解してベッドから下りようとすると……。
「ちょ、ちょっと! 無理ですよ、隊長」
優花が慌てて止めに入る。だが、外科の病棟にいる限り、携帯で掛け直すにしても外に出る必要があるだろう。眞理子がそう答えると、看護師の女性が子機を持って来てくれた。
「この病室なら届きますから」
礼を言って眞理子は受け取る。
『はい、代わりました。沖です』
『私だ。出動の件は聞いたよ。怪我の具合はどうだ?』
風見本部長である。
ここまで掛けてきたことを考えると、どうやら那智から話を聞いたらしい。
『残念ながら生きてます。かすり傷ですよ』
『出血多量で、島中のO型血液をかき集めたと聞いたぞ』
『血の気が多いもんで、そう見えたんでしょうね』
『ったく、口の減らない奴だな。でも、無事でよかったよ』
『今回の件、南に……部下たちにも話がいってますか?』
『あ、いや……こっちでも出動があってね。まだ話してないんだ』
風見の口調に眞理子は少し引っ掛かった。
『では、黙っておいて下さい。屋久島まで来て、ドジを踏んで病院送りなんて、自慢にはなりませんから』
『ああ、判った。そうだな……余計な心配は掛けないほうがいいな』
『ええ、出血多量なんてことも言わないで下さいよ。ところで、そっちの案件は片付きましたか?』
『え……あ、ああ……あの、問題ない。小さいのが二~三件重なって、ちょっとバタついたが……もう片付くよ』
この風見とも、およそ十年の付き合いである。キャリアの割に嘘が上手な男ではない。いや、キャリアだけに、腹の据わった嘘はつけないと言うべきか。
『そうですか。では、私が急いで戻る必要はありませんね』
『あ、ああ。ゆっくり……良くなってから戻って来たらいいぞ』
『判りました。では、失礼します』
ピッと電話を切ると、眞理子は子機を睨んだまましばらく考え込む。
「あの……沖隊長? 電話を返して来ましょうか?」
小さな声で優花が声を掛けるが……どうやら、眞理子の耳には何も聞こえていないらしい。
しばらくすると、不意に眞理子は子機の外線ボタンを押し、電話を掛け始めた。
「沖隊長? どうかなさったんですか?」
「ん? ああ、どうしても気になってね」
「はあ……」
納得しかねる顔で優花は頷く。
十数回のコールした後、ようやく……『はい。五合本部、麻生です』
『ああ、麻生か。私だ。変わったことは』
なかったか? と聞こうとした瞬間、電話の向こうで麻生が吼えるように叫んだ。
『隊長! 何度も携帯に電話したのに、なんで出てくれないんですかっ!』
麻生の声を聞きながら、眞理子は指先でバッグを指し、優花に持って来てくれるように頼む。
『ああ、ちょっとね。充電を忘れてたんだ。……で?』
バッグから携帯を取り出すと、電源を入れる。不在着信が十二件も表示されていた。
『副長が……南副長が、連絡がなくて、島崎も一緒なんです。他にも出動があって……一体どうすれば』
『麻生。麻生、落ち着け。聞かれたことに答えろ。南がどうした?』
慌てふためく麻生であったが、眞理子と連絡が取れたことで少し落ち着いたらしい。
そして彼が報告した内容は――新人の島崎と一緒に出動した南からの連絡が途絶えた、というものであった。
本日は登攀救助を必要としない軽微な出動が重なったという。七原と水原が非番だったが、結局午後からは二人とも呼び出され、任務にあたった。
その一つが、南と島崎で出動した、迷子の登山客の保護である。
救助の要請があったのは、須走ルートから御殿場ルートに繋がる御中道と呼ばれる場所だ。ほぼ、道らしい道はない。眞理子らが使う連絡道より三~五〇〇メートル高い位置にあり、一応は富士をグルリと一周するようになっている。だが実際には、通行禁止の場所も多く、主に利用されるのは道が残っている北富士側のみだった。
しかし、中にはそんな道無き道を選ぶ登山客もいて、須走から御殿場までを抜けようとしたらしい。通常は案内人を雇うか、経験者が同行するものだが……。通報のあった登山客は、なんと初登山の人間ばかりだった。
『連絡が途絶えてどれくらい経つ?』
『四時間を超えました。まさか、二人の無線機が同時に故障するなんてあり得ないでしょう? 副長がいてなんで』
『保護したのはどの地点だ? 人数は?』
『えっと……須走の六合目から一の沢に向かった中間地点で、男女四名、何れも五十代のパーティです。それと、四合目付近では家族連れが、九合目の休憩所からも救助要請が入りました。後、たった今、消防からも応援要請が来てて……一体どうなってるのか訳が判らない!』
九月末、家族連れのハイキング客も多く、校外学習の一つで“林間学校”の子供たちが訪れる時期でもあった。他には、営業している山小屋目当てに、夏登山の気分で計画書も出さずに登る人間が増える季節でもある。
そういった出動がたまたま重なり、しかも、隊長代行である南との連絡が途絶えた。
『落ち着け、麻生。いいか、消防の要請には手が足りないと断れ。二箇所の救助要請には三人ずつ派遣し、残り二人は須走の六合目から御中道の正式ルートを辿らせろ。民間人を四人連れて、相棒は島崎だ。南なら確実にルートに戻ってくる』
『でも……もう四時間も』
『まだ四時間だ。大丈夫、奴はそれほどヤワじゃない。南を信じろ。私もすぐに戻る。人員の振り分けはお前に任せる。出来るな』
『……隊長』
眞理子の声を聞いてホッとしたのだろう。大の男が泣きそうな声である。
『麻生、南が不在なら、私が戻るまでお前が隊の指揮官だ。大丈夫だ。深呼吸したら、腹に力を入れて正面を向け。お前ならやれる』
『はい。了解しました!』
眞理子は電話を切るなり、左腕に刺さった点滴の針を抜いた。
「な、な、何をなさって……」
優花が口を挟む前に、さっさと入院患者用の寝間着まで脱ぎ捨てる。トップレスの眞理子の姿に、見ている優花のほうが真っ赤だ。
「いっ……つぅ」
小さく呻きながら、着替え始めた眞理子に、優花はハッとして声を掛けた。
「たい……隊長? 起きたら駄目だと思うんですけど……あの」
「緊急事態だ。戻らなきゃならない。済まないが空港まで送ってもらえるかな?」
「も、戻るって、富士にですか!? そんな無茶な」
困惑する優花に軽く微笑みかけ、病室から出る眞理子だった。