(17)台風一過
周囲に止められるのも聞かず、優花は岸壁を這い回っていた。確かに、人の気配がするのだ。でも姿は見えない。
「沖隊長ぉぉぉー! 死んじゃいやあぁぁぁーー」
優花が海に向かって叫んだ瞬間である。
「だから……殺すなって」
そんな台詞と共に、目の前に少年を背負った眞理子が姿を現した。下りて行ったのとは全く別の方向だ。眞理子は一気に崖の上に這い上がり、すぐさま少年を降ろす。
「い、生きてたぞーー!」
引き返そうとしていた捜索隊の連中が、口々に叫んで駆け戻って来る。
「沖……隊長」
優花はあまりの嬉しさと驚きに言葉が出ない。しかも、眞理子の姿は全身ずぶ濡れで……血塗れだった。
「早く、この子を病院に……外傷はないが、長時間雨に打たれて、海にも落ちた……体温が下がっているはず」
直後、一歩踏み出した眞理子の足が、膝から崩れるように倒れ込む。慌てて優花が掛けよるが、すでに眞理子の意識は落ちていた。
「隊長!? 隊長しっかりして下さい!」
「隊長さん……おねえさん……死なないで。目を開けてよ……死んじゃイヤだ!」
優花と真壁少年の絶叫が岬に響き渡り……。
~*~*~*~*~
朝、だ。
窓から射し込む光が眩しい。いや、陽射しはかなり高く、嵐の気配もない。どうやら、時刻は朝ではなく昼といったところか。
白い天井と白い壁、大きな窓が見える。天井にはベッドを囲むようにカーテンレールが付けられ、オフホワイトのカーテンが端に寄せられていた。左側に点滴が見え、それは管を通じて眞理子の左腕に繋がっている。
眞理子の見える範囲は手も足も包帯が巻かれていた。左手で頭に触れるとそこにも包帯が。指も五本中三本がグルグル巻きだ。
(まるでミイラだな)
苦笑しつつ、起き上がろうと眞理子は左半身に力を入れる。右足にピリッとした痛みが走ったが……思いのほか酷い状態ではないようだ。だが、軽く右肘をついた瞬間――。
「痛っ!」
脳天をドリルで突かれたような激痛が走った。それでも体を起こすところが彼女らしい。
「ちょっと、何されてるんですか!?」
看護師らしい女性がやってきて、眞理子の体を支えた。そのままベッドに寝かそうとする。
だが、眞理子はその手を軽く押し退けた。
「もう、大丈夫です。此処は……屋久島ですよね? 台風は過ぎたんですか?」
「ええ“韋駄天台風”とかで朝には波もおさまりましたよ。十時頃には晴れ間も見え始めました。そんなことより、あなたは重傷なんですよ! ちゃんと横になっていて下さい!」
年齢は眞理子と同じくらいだろう。
昔ながらの白いワンピースではなく、薄い水色のツーピースで下はパンツ姿だ。ナースキャップも被ってはいない。呼称が看護婦から看護師に変わって以降、制服にも色々変化が出て来たと聞く。
「えーと、あの少年は無事でしたか? それともう一人、レスキュー隊員の男性が運ばれたと思いますが……彼は?」
話を逸らせるように、眞理子は矢継ぎ早に質問した。
「ええ、男の子は大丈夫ですよ。怪我も擦過傷程度で、気温や水温が高かったせいか、低体温にもなっていませんでした。もう一人の男性は、元々怪我なんかされてませんし……。天候が回復したら、すぐに本土に戻られたと聞いてます」
「そうですか。良かった」
瀧川は出来れば落下する前に退却して欲しかったのだが……。
不幸中の幸いは、彼を連れて少年の位置まで下りずに済んだことだ。もし下りていたら……最悪の結果を招いただろう。
しばらくすると、眞理子を治療した外科医師がやって来た。ここは屋久島で唯一手術の施せる総合病院だという。担当医は四十代前半の男性だった。
「驚いた。起き上がっているというから慌てて来たんだが……ご気分はどうですか?」
「最高、とは言い難いですね。でも、右足は静脈まで達してなかったんですね?」
「ええ。静脈をやってたら、動くことも儘ならなかったでしょう。ただ、岩で切り裂いた部分が大きく、十八針も縫いました。傷痕が残ると思われますが」
「それはいいです。右肩は?」
女性の体に傷跡が残ると告げた割には、実にアッサリしていて、医師も拍子抜けだったようだ。
だが、眞理子にすればこれくらい大したことではない。場合によっては足や腕の一本や二本、失う覚悟も出来ている。
「あ……それ、あなた自分ではめたんですって!? 無茶もいいとこですよ。しかもすぐに動かすなんて! 幸い神経は痛めてませんから完治するでしょうが――」
眞理子が病院に搬送された時、右肩は炎症を起こし、四十度近くまで熱が上がっていた。しかも肩はアメフトのプロテクターを付けたみたいにパンパンに腫れていたらしい。今は微熱で、腫れも肩パットくらいに治まっている。
「痛み止めを打っておきますが……しばらくは辛いですよ」
案の定、こんこんと説教をされた。どうも、医者には褒められた例がない。
「全く、こんな大怪我であの嵐の中、崖を登っただなんて……とても信じられませんよ。しかも、翌日には自力で体を起こすだなんて。あなたは一体何者なんだ?」
「ただの“か弱い女”です」
ニッコリ笑って答える眞理子だった。
~*~*~*~*~
「沖隊長がご無事で……本当に生きてて良かったぁ」
優花は眞理子の顔を見るなり号泣だった。
それ以前も、意識が戻るまでずっと廊下で泣いていたらしい。そんなこととは思わない眞理子は、とくに優花を呼ぶこともなく……。ずっと廊下で待たれてます、と看護師に聞き、慌てて部屋に呼び入れたのだった。
「わ、悪かったね……そんなに心配されてるとは思わなかったから」
「どういう意味ですか?」
富士では眞理子の実力を誰もが承知している。滅多なことでは死なない、或いは、戻って来て当然と思われているようだ。泣き崩れるほど心配されたのは久しぶりである。
「すみません。本当は瀧川隊長がここに居て、お礼を言わなきゃいけないのに」
申し訳なさそうに優花は項垂れた。
瀧川は、眞理子のせいで救助に失敗した、と上層部に報告したという。その上、勝手に出動して要救助者を危険に晒した。全て眞理子のせいだ。等々、言い訳三昧だったらしい。
「でも、『登攀開始します』と連絡されてから、しばらくその場に留まっていらしたとか……。危険なことは判ってたのに。どうしてですか?」
その件について、瀧川の肩を持つ一部の連中から、『眞理子の判断ミス』との声が上がっていた。
「立て続けだったからね。体力の回復に時間を取った。波に飲まれたのは、私が引き上げ時の判断を誤ったせいだ」
原因は報告するにしても、救出が遅れた真実まで話す必要はないだろう。それは、せっかく芽生えた少年の勇気を挫くことにもなりかねない。
「あの……沖隊長! 私、富士に転属願いを出します! 希望が通るまで何度でも。その時は、あなたの部下にして頂けますか?」
「いいよ。希望が通るといいね。但し、富士に配属された二人に一人は、自分から山を降りるか、私に叩き出されている。それでも良ければ、私は来る者は拒まない」
眞理子の返事に笑顔の引き攣る優花であった。