(16)勇気
「お、おねえさん……大丈夫?」
二人は最初に居た場所から北に約五十メートルほど流された。
海面から僅かに高い岩棚に、やっとの思いで這い上がる。予備のハーケンが保険となり、眞理子と真壁少年は海の怪物に飲み込まれずに済んだのである。
だが、そこは二人がやっと立てるスペースしかなく、海保のライトからは死角になっていた。
「ああ……生きてるよ。そっちは? 怪我はない?」
「うん。合羽が流されたくらいだけど……お姉さん、血が出てるよ」
漁師の言った通りである。海中は岩が多く、眞理子は少年を庇って何度も体を叩き付けられた。少年に怪我がなくて幸いだが……眞理子は自分の体を確認する。
右肩はもともと痛めていた。だが、流された時にぶつけたのだろう。更に酷くなって腫れ上がっていた。おまけに神経も痛めたらしい、痺れがきているのが不安だ。
内臓・骨は問題ない。頭部もヘルメットで守られてる。問題は――右大腿部の切創だろう。海中に突き出た岩がナイフにように鋭くなっており、眞理子の右太腿を切り裂いた。ベルトを使って止血をするが、とてもどうにかなりそうな傷ではない。
(静脈やってたらマズイな……)
このままだと出血多量で動けなくなる。朝には失血死一直線だろう。しかも、マイナス要素はこれだけではなかった。
海に落ちた時、装備一式を流されてしまったのだ。命綱は、二人がギリギリ岩場に取り付いた直後、ハーケンと共に海に消えた。ピッケルも無線も予備のロープも、ハーケンの一本すらない。眞理子に残されているのは、最初に少年と自分を結んだロープ――それだけだった。
前傾壁の場所から少しずれ、壁はほぼ垂直だ。しかし、崖の上方が視認出来る明るさではなかった。襲い掛かる風、容赦なく打ち付ける雨、そして、隙あらば引き摺り込もうと波が牙を剥いている。
どんどん右肩の感覚がなくなってきていた。右足の出血も酷い。せめてここに居ることを知らせたいのだが……海保のライトが眞理子らを捉えることはなかった。どうやら、完全に見失ったらしい。これでは応援も見込めない。
(いや、元から誰もいないか……)
たとえ居ても、救助を待つ時間など眞理子らに残されてはいなかった。もう一度、高波が来たらお終いである。
この状態で少年を背負い、慣れない崖をフリーで登らなければならない。
冷たい汗が、眞理子の背中を流れた。
死は常に隣にあった。腹を括ったことは一度や二度ではない。しかし、吹雪の中であれ、断崖絶壁であれ、誰が隣にいてもそこは“富士”だった。
心ならずも本気で手足が震える。それを抑え込もうと息を止めるが……熱いものが胸に込み上げた。もしここで、眞理子が泣いて降参したら、神様も勘弁してくれるだろうか? 一瞬……ほんの一瞬だけそんな弱気が眞理子の中に過る。
(独りはキツイな。せめて……誰か居てくれたら……せめて)
――怖いよね。死ぬのは怖い……手も足も震える。泣きそうになって、自分の弱さを思い知る。でも……
(富士に戻る! 屋久島の海じゃ死ねない。生きて富士に戻る!)
眞理子は込み上げる恐怖を振り払い、震える足で立ち上がった。
「大丈夫だ、必ず連れて帰る」
~*~*~*~*~
二人の姿を見失って二時間近くが経過した。
岸壁付近で待機していた捜索隊の人間も、雨を避けてテントに戻り始める。
「おい、そこのお嬢さんも、雨に打たれ続けたら風邪引くぞ。一旦引き上げて、雨足が弱まったら、もう一辺探そうや」
「警部とあの少年は、この雨に今も打たれてるんですよ!」
「気持ちは判るが……あの波に攫われて、助かる奴はおらんよ」
救助隊の一人が、残念そうに口にした。
優花にもそれくらいは判る。
ましてや眞理子は山岳レスキューだ。海は不慣れだと本人も言っていた。この嵐の海から生還する術があるとは思えない。それを考えると……優花は俯き、肩を震わせる。地面にポトポトと涙がこぼれ落ち、雨に混じり区別がつかなくなった。
だが、そんな優花の耳に何かが聞こえたのだ。
強い雨が地面を叩く音、岩肌を削るような激しい風音――それらの隙間を縫うように、不規則な呼吸音が優花の足下から響いた。
~*~*~*~*~
「お姉さん……もうダメだ。血が凄いよ。指からも血が出てる。それに……体が燃えるように熱いし……もういいよ。……死んじゃうよ」
「だい、じょうぶ。必ず連れて帰る、そう、約束したろ?」
眞理子は素手で岩の裂け目に指を突っ込み、体を持ち上げた。
いつもの専用グローブは指先だけ出るタイプのものだ。今回は軍手を用意されたが、それでは微妙な感覚が判らない。途中、落ちかけて岩を掴んだ時、二~三枚爪が剥がれて血が噴き出していた。いつもならすることのない、無駄な怪我であった。
右腕の感覚がほとんどない。ちゃんと岩を掴めてるのか……一段登るたび、眞理子の不安は増して行く。
「……おねえさん……」
今となれば、背中に負った十一歳の命が眞理子の命綱である。
この少年だけは死なせるわけにはいかない。その一念が眞理子を奮い立たせた。
「沖だ。正式には、富士山岳警備隊、隊長の沖眞理子だ。そっちは?」
「僕は、鹿児島第一小学校五年A組真壁……」
強風に言葉が途切れる。だが、眞理子の耳には彼の名前が聞こえ……フッと笑顔になった。データに書いてあったはずだが、どうやら見逃していたらしい。
「それは心強い。今一番、隣にいて欲しい人の名だ」
「沖隊長の恋人?」
「恋人の代わりはいくらでもいるが、彼の代わりはいない。そういう人だよ」
眞理子の返答に十一歳の少年は背後で首を捻っていた。
「ほら、ゴールが見えた」
ようやく頂上が二人の視界に入って来た。あと一メートル……ここが正念場だ。
眞理子は歯を食い縛り、渾身の力を振り絞った。