(14)波乱
装備の中に、眞理子の腰に合うサイズのレスキュー用ハーネスがなかった。島中を探せばレディスも見つかるかも知れないが、そんな時間はもちろんない。そのため、眞理子が使用しているのは、落下の衝撃を主に腰で受けるタイプのものであった。
突風に体が浮き、瀧川は二メートルほど墜落――その瞬間、眞理子の腰にグンと負担が掛かった。瀧川の体重をもろに受けたせいで、一瞬息が詰まる。
眞理子はすぐに二箇所ほどハーケンを打ち込み、支点を増やした。その上で手を離し、瀧川のロープを引き上げたのである。
雨風が吹き荒ぶ中、眞理子は右手一本で瀧川の体を支えた。
「瀧川っ! 目を開けろ! しっかりロープを掴むんだ。上に戻るぞ」
眞理子がそう言って瀧川の補助ロープをハーケンに固定させようとした。その途端、なんと彼は暴れ始めたのだ。
瀧川は眞理子の腕を振り払い、取り出したナイフで眞理子と繋がったロープを切り始める。どうやら、瀧川にはこれまで墜落の経験がなかったらしい。僅か数メートルの落下で彼はパニックになっていた。
「待て。落ち着け。命綱を切ってどうするんだ」
「もう嫌だ……こんな突風、聞いてない。お前と心中なんてご免だよ。僕は帰る。上に戻るんだ」
「判った。一緒に戻ろう。落ち着くんだ。すぐに行くから、動くんじゃない!」
止めようとする眞理子をナイフで威嚇するため、断崖にぶら下がった状態では眞理子も近づけない。
瀧川は眞理子から離れると、支点も取らず、フリークライミングの状態で上を目指し始めた。ハーネスに繋いだロープ一本では、万一の時、十メートル以上落下しかねない。その場合、ロープは衝撃で切れるか……持っても瀧川の体が壊れるだろう。
「瀧川! 止まれ、動くなっ」
懸命に叫びつつ瀧川を追うが、嵐が眞理子の行く手を阻む。せめて瀧川の斜め後方につけ、サポート出来る態勢を取らなければ危険だ。眞理子がそう思った直後――瀧川の手が空を掴んだ。
今度は命綱はない。垂らされたロープを掴む余裕も、彼にはなかった。
眞理子の一メートル右、手を伸ばしただけでは届かない距離だ。瞬時に、眞理子はハーケンに固定していたロープの一本を外し、高速で落下する瀧川に飛びついた!
瀧川の体は掴み損ねたが、眞理子の右手が彼のロープを捕らえる。左手に掴んだピッケルは岩の裂け目にガッチリと食い込み、そう簡単には外れないはずだ。
だが、
「……グウッ」
食い縛った歯の隙間から、眞理子の呻き声が漏れる。
右肩への負担は落下距離と重量に比例して、およそ数百キロ。眞理子の全身を激痛が襲った。幸いにも、瀧川は落下のショックで意識が落ちたらしい。この状態で暴れられたら、さすがの眞理子も支えきれなかっただろう。
骨はやってない、だが、亜脱臼は確実だ。眞理子は痛みに耐え、動く左手を自由にするべく、ゆっくりとロープに体重を預けた。
~*~*~*~*~
「警部! 警部! 沖警部! 返事してください。死なないでえぇぇーー」
突風の後、何度無線に呼び掛けても返事がない。
優花の絶叫が嵐の岸壁にこだました。
「……勝手に殺すな……」
前傾壁の崖からヌッと腕が現れ、岩を掴む。その直後、一気に眞理子の姿が見えた。
地元の警察・消防・民間のレスキュー隊が走り寄る。
「沖警部……ご無事だったんですね。あ、あの……子供は」
「悪いね、これからだ。まずはこの……優秀な隊長殿を、救急車に乗っけてやってくれ。意識は落ちているが外傷はないはずだ」
「は、はあ。沖警部……右肩をどうかされたんですか?」
眞理子の肩は激しく上下し、額には玉のような汗が浮かんでいた。だが、左右の肩のバランスが微妙におかしい。
「たいしたことはない……」
答えながら、眞理子は白いタオルを取り出し、口に挟んだ。優花には眞理子が何をするつもりかサッパリ判らない。
すると、眞理子は左手で右肘付近を押さえ、右手の平を地面に置くと――上半身を捻りながら、一気に体重を掛けたのだ。辺りには低い唸り声が響く。同時に、眞理子の右肩から鈍い音が聞こえ……咥えたタオルを落とすなり、眞理子は大きく息を吐いた。
「あ……あの……」
「外れた肩を入れたんだ。何とか、いけそうだ」
眞理子は深呼吸を繰り返し、ゆっくり肩を回した。
しかし、優花はこの一連の動作に言葉を失う。周囲の人間も同じであった。
(こ、この人って、一体……)
「本部から少年に関する連絡は?」
「あ……無事のようです。下は、それほどの強風じゃなかったみたいで」
「そうか、良かった」
眞理子は尋ねながら、再びロープを結び直していた。
「もう一度仕切り直しだ。全員、体勢を低くして突風には充分に注意しろ。じゃ、行って来る」
優花がハッとして、「あの……肩は大丈夫」……なんですか? と聞く前に、眞理子の姿は消えていたのだった。
~*~*~*~*~
二十分後――。
「真壁くんか? 私はレスキュー隊です。君を救助に来ました。これからは私の指示に従って下さい」
かなり足場は端折ったが、これだけの時間で二十六メートルを降下したのはさすがだろう。
眞理子は少年を確保するなり、ロープで自分の体と繋いだ。
「何処か痛い所はない? 気分は?」
「……」
少年は無言で首を振る。
身長一三五センチ、体重三〇キロ――眞理子の受け取ったデータにそう書いてあった。小学校五年生男子の平均より若干小さめか。半袖半ズボンの体操服の上から、黄色い雨合羽を着て、赤白帽を被っていた。
少年は眞理子を見ようともせず、岩棚に迫る波をジッと見つめている。
『こちら沖です。少年を保護しました。目立った外傷はなく、意識もあります。――どうぞ』
『おおっ!』
無線の向こうで拍手が聞こえた。
(まだ助かったわけじゃないんだが……)
眞理子は呆れつつ、『これより少年を連れて登攀開始します。以上』そう言って無線を切った。
「さあ、行こうか」
眞理子は少年に手を差し出す。
しかし……。
「いやだ、帰らない」
「は?」
「もう帰りたくない!」
ついに波が岩棚に流れ込んだ。足下に海水が掛かり……タイムアップはすぐそこまで来ていた。