(13)器量
「くそっ、あの老いぼれめ! おい、私は君に従うつもりはない。君が私に従うんだ」
仮設テントに戻るなり、瀧川は悪態を吐いた。
「瀧川警部、これは総本部長命令です。従わなければ懲戒処分もありえますよ」
「馬鹿を言うな! 私を脅してるのか? キャリアの私がクビになる訳がないだろう。それに、私の父は県警本部長だぞ」
「脅してなどいません。命令違反は懲戒処分に値すると言っているだけです。それは、どこの警察でも同じだと思いますが」
「貴様らと一緒にするなっ! とにかく、女の下につくなど絶対に御免だ!」
(……堂々巡りだ)
眞理子はため息をつく。
この悪天候、経験のない海沿いの登攀、慣れない装備、おまけに、相棒はテン乗りの暴れ馬ときている。頼みの綱は海保だが……。
「警部! 屋久島警察から無線が入ってます。あの……」
旧式の大型無線機を肩に掛け、優花はテントに飛び込んでくる。だが、どっちの警部に渡すか迷ってるようだ。
そんな優花から、瀧川はひったくるように無線を奪う。
「この愚図が! 貴様の上司は私だろう!」
『警部の瀧川だ。――報告してくれ』
『……あの、そちらに沖警部はおられませんか?』
『なっ! 責任者は私だ。さっさと話せ』
『いやあ、でも、沖警部に伝えてくれと、山岳警察のお偉いさんに言われたんで』
瀧川は、まさに怒髪天を衝くという形相だ。無線機を持つ手がブルブルと震え始める。
眞理子は瀧川の横に立ち、スッと無線を引き抜いた。
『替わりました、沖です。報告を』
『はい。えっとですな……海上保安庁の船が接岸を諦めた、との連絡です。この高波が静まらんことには、座礁する可能性が高い、とのことで。沖のほうからライトを当てて、引き続き様子を見守るそうです』
『では、現在の救助の主導権は何処に?』
『一応……消防です。でも上からは無理なんで、命綱を張って海を横切るか……救助の方法が決まらんようです』
眞理子は奥歯を噛み締めると、無線機の本体を睨みつけた。
『それが決まるまで、子供の居る場所は持ち堪えるのか?』
『……』
『あとどれくらい持つか、大凡の時間を教えてくれ?』
『早ければ三十分、満潮までは持たんだろう、と』
時刻は間もなく〇時。満潮は三時過ぎと聞いた。
『それで、波が静まるのは?』
『予報では明日の昼に暴風域を抜けるようになっとります。だが、多分それより早くて、夜明けぐらいには落ち着くんじゃないかと、みんな言っとります』
夜明けまでは六時間……どちらにしても間に合う見込みはない。
『判った。では、こちらで救助活動を開始する。海保には引き続きライトアップを要請してくれ。変わったことがあれば報告を頼む。以上だ』
頼みの綱が切れた以上、眞理子は決断するしかなかった。
瀧川は携帯を使って父親にまで泣きついたらしい。だが、思わしい返事は貰えなかったようだ。彼は携帯を叩き付けるように切り、「いいか、私は絶対……」
「判りました。登攀リーダーをお任せします。ただ、一点だけ約束してください。決して命綱は離さない、と。私が一緒にいることを忘れないで下さい」
どれだけ有効かは判らないが、眞理子は念押しをしてみる。だが瀧川は、登攀リーダーだけでは不満だと言わんばかりの視線を眞理子に向けた。
「ああ……でも、責任の所在は流動的にしておくほうがよろしいのでは?」
権限には責任が付き纏う。しかし、瀧川のような手合いは面倒な問題は避けようとするのが常である。眞理子の想像通り、瞬時に黙り込み……彼の天秤は正常に働いたようだ。
「まあ……いいだろう。だが、登攀中は私に従ってもらうよ。いいかい? 絶対に私の邪魔はしないでくれ。落ちそうになっても私は知らないぞ」
「それで結構です。では、行きましょうか? 警部殿」
「私に命令するな!」
「……時間がないんですが」
「行くぞ! 私の後から付いて来るんだ」
「はいはい……」
前途多難の眞理子であった。
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データ上、崖の高さは約二十八メートル。少年の位置はそれより少し上で、下降距離は約二十六メートルと報告を受けていた。雨は体温を奪うが、今は九月、しかも平地なので気温は二十五度を超えている。問題はやはり風であろう。岸壁の突風は凄まじく、煽られないように壁に張り付くしかなかった。
登攀リーダーは先行して、ルートを作りつつ下りなければならない。経験と技術を必要とする緻密な作業であった。だが、下降を開始して十分。なんと二人は五メートルも下りてはいないのだ。
まず、雨は視界を遮ったうえ、苔の生えてる部分を非常に滑りやすくしてくれた。とても思い切って下に進めない。それに、表面は脆い割に岩盤はかなり硬く、ハーケンが充分に打ち込めないのだ。裂け目は無数にあるので、おそらくフリークライミングに適しているのかも知れない。
垂直であれば、一気に滑り降りて遭難者を連れて足場を作りながら戻る、という手もあるが……。前傾壁ではそれも使えない。
この時、眞理子は苛立っていた。瀧川を一喝し、場合によっては殴り倒してでも上に引き上げ、自分一人で行くべきかどうか。
瀧川は、眞理子の予想以上に慎重なタイプだった。確かに基本は出来ている。一つ一つの動作に時間を掛けている分、動きは正確だ。だが、タイムリミットがある今回のようなケースには、適していないと言わざるを得ない。
――焦りと怒りは伝染する。この感情は恐怖を抑え込むより難しい。だが、隊長の必須条件だ。
それは藤堂の言葉だ。
後輩の指導を任された時、眞理子は苛立ちを態度に出してしまった。結果……後輩はミスを連発し、それは他の隊員にも伝染り、散々な訓練となる。
――お前はいずれ、隊長になる器だ。だが今は、器だけ立派で入ってるものはお粗末だな。中身も伴って“器量”と言うんだ。
幸か不幸か、瀧川の横顔は、眞理子に『隊長』を思い出させてくれた。
「瀧川警部。開始より十五分が経過しました。予定の半分も進めていません。継続するか一旦引き上げか、再度決断願います」
「馬鹿な……たったこれくらい。フリーでも登れる高さだ。それなのに」
その時、この日最大……おそらく風速四十メートル以上の突風が眞理子たちを襲った。山の尾根もそうだが、岬なども風が強くなる危険域なのだ。海に体を晒した眞理子らを、強風は容赦なく攻め立てた。
眞理子は瀧川に「壁から絶対に手を離すな!」と怒鳴り、彼女自身は隙間がないほど壁に張り付いた。
そして、
『長崎! 地面に這い蹲れ、飛ばされるなよ! 本部、聞こえるか? 海保に連絡。少年の無事を確認しろっ』
眞理子は無線機に向かって鋭い命令を飛ばす。直後だ――。
「うわあぁぁ」
瀧川の体がフワリと浮いた。