(12)初体験
横殴りの雨が仮設テントの屋根に叩き付けた。
テントの支柱は一本につき杭が二本ずつ打ち込まれている。だが、それでも突風の度にテントは傾いていた。周囲に張られた幕が風で持ち上がりそうになり、数人が慌てて重石を付けに走る。
浜のほうには管理事務所があるが、岬近くに適当な建物はなく、この仮説本部が作られたのだった。
「馬鹿な……この私に、君の下につけだと……冗談じゃないぞ! 女に従えるか!」
案の定、瀧川は眞理子の顔を見るなり真っ赤になって憤慨し、頭から湯気を出しつつテントを飛び出した。どうやら、連絡の中継ポイントとなっている管理事務所まで行き、那智に確認を取るつもりのようだ。
眞理子はその間、地元の救助隊から装備を借りて身に着けた。
崖は僅かに前傾しており、下降器は使えないとのこと。下りる時にしっかりルートを作ることで、戻って来るのがかなり楽になる、という。問題はこの風だ。
話を聞くと、少年の居る場所まで、本来なら陸路で行けるらしい。段差のある岩場が非常に危険なこと、一部が浅瀬を横切らないといけないこと、そして、大部分が満潮時に水没すること――以上の点から、立ち入りは禁止されているが、密かに利用する釣り客は多い。少年のいる岩棚は、通常なら満潮時も水没はしないので、釣りのポイントになるそうだ。
少年もおそらく悪化する天候の中、陸路で岩棚に辿り着いたのであろう。だが、なぜあんな場所に? と消防や警察も含めて、その場にいた全員が首を捻っていた。
ライフセーバーからは水難救助の基本を手早く教わり、地元の漁師から付近の海流の状態を確認する。万に一つ、海中に落ちた場合を尋ねた眞理子に、返ってきた答えは――「落ちたら終わりだ」という厳しいものであった。
「この海に放り出されてまともに泳げると思うか!? 海中にも岩はたくさんある。落ちたら揉みくちゃにされて、岩に何べんも叩き付けられて……すぐに死んじまうよ。明日の朝には流されて、沖で魚の餌だな」
眞理子はしつこいほど、「絶対に海には落ちるな」と念押しされたのだった。
「あの……失礼を承知でお聞きしますが、登攀レスキューの経験はおありですか?」
中々戻らない瀧川に苛立ちを覚えつつ、それを表には出さずに眞理子は黙々と装備の点検をしていた。用意された十一ミリのシングルロープを使い易く巻き直し、何度も結ぶ練習をする。普段は九ミリのダブルロープを使用しているため、どうしても手に取る感覚が違うからだ。そんな眞理子に、優花は恐る恐るといった感じで質問をしてきた。
眞理子は思わず苦笑を浮かべ、
「経験はある。でも、その経験が役に立つかどうかは判らない。下に海があるのは初めてだからね」
渓流なら、どうにかして岸に這い上がる自信はあった。だが、海は泳ぐのも十年ぶりである。落ちた時、即死でない分マシと思えばいいのだろうか。だが漁師の話を聞く限りではラッキーとも言い難い。
「全然ないよりいいですよ! でも……そんなに怖いですか? 下は海ですが、崖を上り下りするのに差はないはずです」
「じゃあさ、山岳地帯の渓谷で遭難事案が発生した時、海保のレスキュー隊員がその場にいたらどうする? 我々の到着までに、救助しておいて下さいとでも言うのか?」
「そんな馬鹿なっ! なんで勝手に……第一、海と川では」
途中まで言いかけ、優花はハッとした。
「テリトリーにこだわるのは、自分の為だけじゃない。遭難者の為だ。より専門家に救助を任せるほうが、生還率は高くなる。――子供を助けに行く彼は正しい。あなたはそう言ったけど……今でも思ってる?」
「少なくとも……尻込みして逃げるよりは」
眞理子に真正面から見つめられ、優花の声はどんどん小さくなる。
「私がなぜ、今の“あなたに”レスキューは勤まらない――そう言ったか判る?」
「落ちそうになったから……じゃ、ないんですか?」
優花の返答に眞理子は軽く頭を振った。
「出来ないと判っていたのにやったからだ。或いは、出来るかどうか判らないのに……だ。無論、土壇場で僅かな可能性に賭けることはある。でも、階段を上るために命を懸ける必要がどこにある? 無意味な勝負に他人を巻き込んで、それが人命救助とどう繋がるんだ? 勇気を出して、無茶も無謀もやらなきゃならない時はある。でも、逆に勇気を持って、止めなきゃならない時もあるんだ」
食い入るように眞理子を見つめ、黙って聞いていた優花だったが……。
何事か思いついたように口を開いた。
「じゃあ、今がそのときじゃないんですか? 隊長もそう思ったから行くって」
「違う。危険を承知で行くならともかく、彼はサッと行って戻って来る……そう言った。瀧川警部は随分優秀で、たくさんの登攀経験があるようだ。部下であるあなたに聞きたい。彼はそれほど多くの、悪天候でのレスキュー訓練をこなしているのか?」
「……い、え。それは」
「霧島の山岳警備隊の場合、登攀レスキューの出動件数は年間で一桁だったと記憶している。彼がこういった事態も想定して、海岸沿いでの登攀訓練もしているのなら何も言わない。私は彼に謝罪して、喜んで指揮権を委ねるつもりだ」
優花は一言も言い返せなかった。
今年度の登攀救助件数は、軽微なものも含めて四回。出動自体が二十回にも満たない。消防との合同訓練に出ることはあっても、特別に海岸で崖を登る訓練などなかったはずだ。
そして、優花と会話しながらも、眞理子は手を止めることなく装備の確認を続けていた。ロープの隅々まで目を通し、ハーケンの強度を点検している。瀧川は当然のように優花に押し付け、彼女は既に確認を済ませていた。
「あの……私がしましょうか? 早く済ませたほうが」
「装備のチェックはレスキューの基本だ。これに命を預けている。時間の許す限り何度でも見直す。絶対に怠ってはならない、やり過ぎのない仕事なんだよ」
――「装備や下準備など、誰でも出来ることが私の仕事ですから」
優花はそんな風に言った自分が恥ずかしかった。そして、眞理子の隣に腰を下ろし、瀧川の装備を再び点検し始めたのである。