(5)新入り
「冗談じゃない! 冗談じゃない! 冗談じゃない!」
水原は不満を声にしながら、アルトワークスに飛び乗った。
しばらくは通らないだろう、と思った富士山スカイラインにハンドルを切る。まさか一時間あまりで下ることになるとは……悪夢であった。
富士には山岳レスキューのエキスパートが集まっている。それが山岳警察の中では定説であった。最終試験合格者の中で、最も優秀な新人が富士に配属される、という噂もあるほどだ。
そんな中で筆頭に挙がる名前が、南一之副隊長なのである。
本来トップに来るべき隊長の名前は、山岳警察の広報紙にも載らない。中には、南が隊長だと勘違いしている警官もいるくらいだ。それはまるで、隊員の中に隊長をカウントしていないかのような扱われようであろう。
実力もないのに強力な縁故で不相応な役職と階級を得た人物……それが、チラホラ聞こえる『沖隊長』の評判であった。
(あんな女にアイツは見殺しにされたのか?)
苦い思いが水原の中に湧き立つ。
隊長命令、その一言で捜索は打ち切られたのだ。階級を振り翳すだけの横暴で無能な男……それが女だったとは。
――『人事の不満は人事に言え』
眞理子はそう言った。
(だったら言ってやろうじゃないか)
その一念で水原はアクセルを踏み込んだ。
~*~*~*~*~
五合本部東側の人工壁を二人の人間が登っていた。
一人は隊長の沖眞理子。もう一人はこの四月に配属になったばかりの島崎悠弥巡査である。
島崎は弱冠二十歳の最年少隊員だ。彼は運動神経は抜群であった。だが、山岳部などの経験はなく、富士登山も着任後が初めてとなる。
着任から三ヶ月、高地に慣れるため頂上までの往復が日課だ。登攀訓練は人工壁か本部近くの自然壁で繰り返してきた。
そして、この島崎の指導員を隊長の眞理子が務めている。
彼女の指導は基本重視の……一言で言えば退屈なものであった。もっと高い壁にアタックしたい、現場に出てみたい、という島崎の要望を眞理子は却下し続けている。
十七時の定時を少し過ぎた辺りで、ポツポツ雨が落ち始めた。気象庁の予報は一応当たったと言うべきか。だが、すぐにも止みそうな弱い雨だった。
何事もなく定時を迎えると全員で終礼をする。
普段は玄関前だが、雨の日は玄関ホールを使う。終礼ではリーダーから活動報告がされた。
登攀は二人一組のパーティで動くのが基本だ。リーダーとサポートの役割はキッチリ分かれており、現場ではリーダーの指示に従うことになっている。そしてこの活動報告で、それぞれが気づいた点を別のパーティに申し送りする。
山は広い。おまけに刻一刻と変化する。全員で協力しなければ、容易に把握出来るものではなかった。
その後、隊長か副隊長以外は宿舎に戻る。定時で山を下りる無線要員に代わって、一人は本部に詰める必要があるからだ。この日は眞理子が本部に残った。
宿直は週一回。二人一組の時は仮眠が取れるが、単独では厳しい。そのため、単独夜勤の翌日は全休と決まっていた。
食事は食べられる時にさっさと食べなければならない。
いざ出動となれば、半日食事にあたらないこともざらである。
「お願いします、副長! 僕にも出動させてもらえませんか? もう充分訓練は積んだと思います」
食事が終わるなり島崎は南に泣きついた。
「君の気持ちは判ります。でも、それを決めるのは私ではありません。――隊長はなんと?」
「焦らなくとも仕事はなくならない、と。でも……現場を経験しないと、訓練だけではダメだと思うんです」
南は椅子から立ち上がり、食器が乗ったトレーをカウンターに戻した。愛子に「ご馳走様でした」と声を掛けることも忘れない。そして、セルフのコーヒーをカップに入れ、再び席に戻る。
その間、ずっと島崎は南の後を付いて回った。
「隊長命令は絶対です」
「それは……でも」
「まず、その“でも”を無くして下さい。現場での経験は確かに大事でしょう。でも、訓練は更に重要です。私たちは全員、毎日、君と同じ時間を訓練に費やしてるんですよ」
「判ってます。せめて皆と同じ場所で、もっと高度な訓練に参加したいんです!」
「いや、少しも判っていません。いいですか、島崎くん。新人の君ですら退屈な訓練に、隊長は黙って付き合ってるんです。何度も繰り返すことで、頭ではなく体で覚える。レスキューとは、やってみて駄目だった、では済まない仕事なんですよ」
「……」
南は地元、富士宮市の出身であった。幼い頃から富士には親しんでおり、登山に重要な『冷静沈着』を絵に書いたような男だ。京都の一流私大卒業という学歴、クライマーとしての実績、実直そうな容姿――隊員のみならず、関係者から絶大な支持を得る要因を備えている。
そんな南の言葉は一々尤もで、島崎に反論の余地を与えなかった。
「折角、隊長から直接教わるチャンスなんです。学べることは全て学び、これからに活かすことを考えるべきではないですか?」
「そうだな。むさ苦しいおっさんに手取り腰取り教わるより、きれいな姉ちゃんに教わるほうがラッキーってもんだ」
突然、食堂の入り口から声が聞こえた。
水原健巡査である。眞理子に逆らい、五合本部を飛び出して行ったのは昼過ぎのことであった。
「水原くん、戻って来たんですね。良かった。隊長も心配してましたよ」
挑発的な言葉はあえて無視し、南は水原を迎え入れる。
だが、そんな南の思いやりは水原には通じなかったようだ。
「あの女がコイツに付き合ってんのは、他にやることがないからだろ? 高度な訓練なんか出来るわけねえじゃんか」
酒に酔っている様子ではない。だが、眞理子に対して並々ならぬ怒りや偏見を抱いているようだ。南は他の隊員から水原を引き離そうと考えた。だがその前に、新入りの不躾な物言いに、南のパートナーである結城が反論した。
「あんたが女性を蔑視するのは勝手だが、隊長に対して“あの女”呼ばわりは止めろ。不愉快だ」
結城巡査は昨年春、最終試験を突破し山岳レスキューに採用された。同時に富士に着任。彼も今年の新人、島崎と同じく山岳経験はゼロであった。
南に言わせれば、富士に回されるのは、才能はあるが即戦力には出来ない新人ばかり、となる。だがそれぞれ、犯人逮捕より人命救助を選んだ気持ちに偽りはない。それは、水原も同じはずだ。
だが――。
「“あの女”で充分だ! お前らよく隊長なんて呼べるよな。下で……富士宮署で聞いてきたよ。あの女がなんで隊長なんかやってられんのか。ふざけた話だぜ。――アイツ、山岳警察の本部長の愛人だって?」