(8)女の武器
階段の下に黒いエナメルのサンダルが転がった。
落ちかけた優花を支えたのは眞理子だ。ドレスの裾は太腿辺りまで捲り上がっている。
「沖……警部」
「無茶が過ぎるって」
「でも……私は」
眞理子はきつい表情で首を左右に振り、優花から手を離した。ドレスの裾を下ろしながら瀧川に向き直る。
「もういいでしょう? レセプションが始まります」
「出来なかったら、山岳警察を辞めると大口叩いたんだぞ。さあ、どうするかな?」
「代わって私が謝罪します。――申し訳ありませんでした」
スッと頭を下げる眞理子を見て、優花は血相を変えて口を開いた。
「待ってください! もう一度チャンスを下さい。次は必ず……」
眞理子はそんな優花を振り返り、冷酷なまでに言い切った。
「長崎巡査! これが山なら、今あなたは遭難者と共に崖から落ちて死んだんだ。レスキューに次はない」
あまりに厳しい眞理子の言葉に、優花は息を呑む。
そんな眞理子に同調したのが瀧川だ。
「さすがは眞理子さんだ! そうだ長崎、お前はもう死んでるぞ」
周囲からドッと笑い声が上がった。
優花は悔しそうに唇を噛み締め、眞理子を見ると叫ぶように言う。
「じゃ、沖警部なら出来ますか? 隊長の警部なら、私とは違いますよね? やって見せて下さいっ!」
「冗談……。レスキュー隊の仕事って、いつから男を背負って階段を上がることになったの?」
眞理子の返答に、瀧川をはじめレセプション参加者の中で更に笑いが広まる。
「ようするに、こんなことは出来ても出来なくても、レスキューには関係ないってこと。辞めたいなら辞めればいいけど、クビが嫌ならさっさと仕事に戻ったら?」
ムキになる優花の気持ちは判る。眞理子を信じ、頼りにしたいのだろう。だが、眞理子が守れるのは“今”だけだ。闘うことも、守ることも、信じた道を進むのも――優花が自ら選び、向き合わなければならない。
眞理子はあえて踏み込むことをしなかった。
瀧川は、眞理子が脱ぎ捨てたサンダルを持ち階段を上がってくる。芝居掛かった仕草で足下に置かれたソレを、眞理子はゆっくりと履いた。レセプション会場は二階だ。眞理子はそのまま瀧川と共に階段を上がり……。
だが、優花は諦め切れなかったのだろう。眞理子を追いかけ、泣きつくように縋った。
「私は証明したいだけです! 女にも出来るって」
「出来ないとは言ってないよ。ただ、階段を上がることに意味はない」
「でも……男性隊員なら出来るって」
「男が出来ることを全部やろうなんて無茶なこと。あなたはあなたが出来ることをやればいい」
そんな眞理子の言葉を別の意味で捉えたのだろう。優花は燃えるような目で眞理子を見上げた。
「結局……あなたも女にレスキューは勤まらない、そう仰るんですね」
「……」
「男に媚を売るようなドレスを着て、レスキューは男に任せてればいい、なんて。同じ女として恥ずかしいです! 初めから無理だって諦めてしまう、あなたみたいな人がいるから……だから女はって言われるんだわ。それで隊長を名乗って、あなたは恥ずかしくないんですか?」
眞理子は立ち止まると優花を見つめ、静かに言った。
「私は“女に”レスキューが勤まらないとは言ってない。今の“あなたに”レスキューは勤まらない。そう言っただけ。それに、男に媚を売るのは駄目だけど、女同士なら助け合うのが当然と思ってるわけ? それこそ甘いよ。私は与えられた階級と役職を名乗ってるだけ……それが恥とは思ってない。他に質問は?」
全ての問いに理路整然と答えられ、優花は二の句が告げられない。しばらくして漸う開いた口から出た言葉は、負け惜しみに過ぎなかった。
「す、すごいですね。沖警部は……完璧で、一度も失敗したことがないみたい。私のような何も出来ない女の気持ちなんか、判りませんよね」
「いや、あなたの気持ちは手に取るように判る。だから忠告してるんだ。この辺で引き上げた方がいい。でなきゃ、次はあなたの嫌いな女の武器を、無意識で使う羽目になる」
自然と込み上げた涙まで眞理子に指摘され、優花は逃げるように走り去ったのだった。
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「いやあ、手厳しいな眞理子さんは。私にはあそこまでは言えないからね。泣かれたら、どうしても男が悪者になる。女性の涙は必殺の武器だ」
「……そうですね」
抑揚のない眞理子の返事をどう思ったのか、瀧川はピッタリ体を寄せ、眞理子の耳元で囁いた。
「眞理子さんは一般のツインルームでしょう? どうですか、今夜、僕のスイートに来ませんか? ベッドルームからのマウンテンビューが素晴らしくてね。一人で持て余していたところです。正式な婚約の前に、体の相性を確認しておきませんか?」
もし、自分であれば……。
他所の隊長から部下が叱責を受けたら、理由はどうあれ庇うだろう。それが明らかなミスであるなら、代わりに謝罪する。間違っても、公衆の面前で部下を笑い者にしたりはしない。笑われる時は一緒に笑われる……それが人の上に立つ者の義務であり器量であろう。だがこの男は、他人と一緒になって自分の部下を笑った。
今この時、眞理子が瀧川に覚えるのは怒りに満ちた軽蔑だけだ。嫌悪感が底を突き破って、同じ空気を吸うのも苦痛である。この場合、盲目的に尊敬する藤堂に似ている件は、怒りの火に油を注ぐだけであった。
パートナー然として腰に手を回す……瀧川の触れた跡が腐りそうだ。これが、優花の年齢であったなら、一発殴って言いたいことを言っていただろう。だが今の眞理子には、立場や経験、柵が邪魔をする。
眞理子はサッと瀧川の手から身を翻した。
「折角のお言葉ですが……私はあなたに相応しい人間ではないようです。どうぞ、別の女性をお探し下さい。失礼します」
瀧川の顔を見ずに言い、そのまま背中を向けて歩き始めた。
「なるほど、やはり噂は本当のようだ」
眞理子の足がピタリと止まった。瀧川の声色が変わったせいだ。
「イヤ……実は友人に忠告されたんです。君は止めたほうがいい、とね。後ろ盾もない高卒の女が、不相応なほどの階級と役職を得ている。今のパトロンは風見本部長だという話だが……。これまで随分な数の枕営業をこなしているようだ。それが表沙汰にならないよう、上層部は君の存在自体を直隠しにしている」
どうやら、那智との関係も疑っているらしい。
瀧川は、親の肩書きに東大卒の学歴とキャリア、これだけ揃えれば簡単に眞理子が釣れると思ったようだ。噂の尻軽女が一向に靡かないので、業を煮やしたという所か。
言い返さない眞理子に勝ったと思ったのだろう。声を大きくして尚も嘲弄した。
「ふん! 何が最高のレスキュー隊員だ。そんなに素晴らしいテクニックなら、私にもぜひ教えて欲しいもんだな。ベッドの上でね」
瀧川の言葉は、二人の周囲にいた数人の官僚に聞こえたようだ。彼らの眞理子を見る視線は、一瞬で卑猥なものに変わったのである。